私たちに自由意志はあるのか

「死後の世界」からの続きです.


最近,脳科学の分野で面白い話しを聞いたので紹介します.

私たちは,いろいろなことを考えて,認知し,判断し,行動を起こしています.もちろん,そこには自由な意志があると思われるでしょう.今日の晩御飯は何にしようかとか,音楽を聞きたいとなんとなく思って,どのCDをかけようかとか,そういう時...私たちは自由があって,無限の可能性から何かの決断をし,「よし,今夜は肉じゃがだ!」とか「ミスチルを聞こう」とか思うでしょう.なんとなくの決断であっても,私たちは自由の中から意志を持って選択している,そう感じる人が多いと思います.

しかし,これを覆しうる明確な研究結果が報告されているそうです.これは少し前の研究なのですが,「Do we have free will ?(私たちに自由意志はあるのか?)」という,ちょっと恐ろしいタイトルが付けられています.

この実験の内容は次のとおりです.被験者に,ボタン1個しかない部屋に入ってもらい,そこで「いつでもいいので好きな時にこのボタンを押してください」とだけ指示します.そしてボタンを押すまでの脳波を測定します.被験者にとっては,実験する部屋に入ってから後は,いつどのタイミングで目の前にあるボタンを押すのか,それは完全に自由です.そして,しばらくしてから「ええい,押しちまえ!!」と思い,ボタンを押すことになるでしょう.この被験者にとっての経験(記憶)は,「「よし,今押しちゃおう.」と決断し,手を動かしてボタンを押しました.」というものです.あくまで,意識を持って押すタイミングを決定し,そして押したのだと感じています.皆様も同じ実験をされてみてはどうでしょう.ボタンじゃなくてもいいですね.立って目を閉じ,いつでもいいので手を上げる,というのをやってみます.どうでしょう.やっぱり,自分で手を上げるタイミングを決めて,それから上げたと感じるのではないでしょうか.

ところがです.脳波の精密な測定から,とんでもないことがわかりました.この実験を始めてまず最初に活動する脳の場所は,なんと「運動前野」という場所であり,それから1秒以上遅れて,意志をつかさどる脳の箇所(「動かそう」という決断のような,複雑な思考をする場所)が活動したということが分かったのです!これはどういうことかというと,意思決定以前に,すでにボタンを押すための作業を無意識の場所で脳は開始していて,そのシグナルを1秒遅れで意識をつかさどる箇所がキャッチし,「よし,今動かそう!」とあたかも自分が意志決定したかのような理由付けを「遅れて行った」ということになるのです.

この実験結果は,なかなかすごいことです.「人間は,無意識の奴隷である.意識は無意識が作り出す世界に従わされ,都合のいい理由を後から付けているだけ」ということになりかねません.

ただ,よくよく考えてみると,これはそれほど奇怪なことではありません.全く記憶の無い酔っ払いが,信号を見て,電車に乗って,家に帰ることができたりします.プロ野球選手は,140km/hの速球を打つとき,意識を使った意思決定など間に合わないので,無意識の処理によって,球種を察知し,バットをコントロールし,ホームランさえ打っています.このように,私たちは,ほとんど無意識においても,相当のことをやってのけることができるのですね.

さて,ここでひとつの疑問が湧きます.じゃあ「無意識」がボタンを押す準備を始めたその「きっかけ」は何なの?という疑問です.意識が決めたんじゃなかったら,なぜにそのタイミングでボタンを押す準備を脳は開始したのか?なぜそのタイミングでないといけなかったのか?この問いにはまだ科学は正しい解答を与えることができません.私の感覚では,この先は「真理の探究」の領域で,科学を使って考え出すとちょっと胡散臭くなるんですよね.科学が問題として扱えなくなるぎりぎりのゾーンに入っていく気がします.これが現状の科学というものだと思っています.むしろこの疑問に対しては,科学的思考よりも,キリスト教の言う「私たちは神の僕」という言葉や,仏教思想の「無我」という世界を考えることのほうが,何となくしっくりくる,と私は感じます.


(まだつづくかも.)

 

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フランスパン!

フランスパン,私は大好きなんです.でも,日本ではあまり美味しいフランスパンには出会えませんから,ちょっと残念です.まあ,これは仕方ないのかもしれません.フランスパンは,小麦粉と水と塩とイーストしか使わないので(バターとかは一切使わない),それらの質と互いの相性がとても大切な要素なんだと推測します.気候も重要かもしれませんね.パン生地をこねる時の湿度とか,ひょっとしたらパンの焼きあがりに影響があるかもしれません.もちろん職人さんの経験と技量が最も重要なんだと思いますが.




写真があったほうが雰囲気でるかと思って.^^; 
この写真はフリー素材から.→ s-hoshino.com


最近ちょっと思うことがあります.どうも日本のフランスパンは焼きすぎなんじゃないか??って思うのです.どうなんでしょう.これはもう全く素人の勝手な感想ですが,日本のバゲットはとにかくボロボロと崩れます.そういうのが多い気がするんですが,どうなのでしょうか.専用の窯じゃないと,薄くパリッと,上手に焼けないのかもしれないですけどね.

あともうひとつ気にかかることが.それは何かというと,時より見かける「ジャンボフランスパン」とかいう妙なノリ...笑 もうすでに長くて大きなバゲットなのに,さらに大きくしてどうするんだ!?と突っ込みたくなるのは私だけなんでしょうけど...^^;  これって札幌のデパートでよく見るんですが,札幌だけなんですかねぇ.多分目的は,人目を引くことなんだと思います.最終的には,切り分けて売られています.ただでさえ繊細な類のパンなので,体積大きくして焼いても美味しくないと思うのです.ということで,以前に買って食べたら,予想通りかなりいまいちでした.
(=。=)

ところで,フランスパンの美味しさに衝撃を最初に受けたのは,ポーランド航空の機内食.パリ発ワルシャワ行きの飛行機の中で食べたバゲットが衝撃的に美味しくて,本心から「こんなパンを毎日食べられるなら,マジでご飯と味噌汁いらないかも♪」とさえ思ったくらいです.今もあの感動ははっきり覚えています.パリッという軽やかな音と同時に口一杯に広がる小麦の香りと噛むほどに濃度を増す旨み.食感と香りと味という三要素がパーフェクトだったんでしょう.そしてやっぱりボロボロと崩れないんです.パリッと割れても,皮はちゃんと内側の生地にくっついたまま.

パリでも美味しいパンにはもちろん出会えます.パリの街中で売っているサンドイッチは,バゲットにチーズやハムや野菜を挟んだシンプルなものですが,日本のフランスパンの平均よりはやはりかなり美味しいです.あちらの方々は,昼休みにこのバゲットのサンドイッチを買って,飲み物を飲まずによく食べ歩きしています.最初は「のど詰まんないのかなぁ」と思ったものです.しかし,いざ食べてみると,すごく美味しくて,唾液がどんどん出てきて,飲み物いらないんですよね.なるほど,と思いました.

 

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死後の世界

私の友人に,霊が見えると言う人がいます.私には見えません(感じません).でもその人は見えると言います.その人から何か奇跡的な体験をさせられたこともありませんが,私はその人の言うことは,本当に信じています.まあ,霊を信じているというよりは,自分に全く理解できないからとか,社会通念上嘘だと思われているからとか,科学的でないからと言って,間違いだと決め付けることの根拠を自分は見つけられないからです.

私は科学を職業にしているのですが,実は科学の限界を常に感じています.それはパソコンの計算速度をもう少し向上させるようなことには役立ちますが,もはや人類がそもそも科学に求めていた「真理の探求」なんてことは不可能だろうという意味です.20世紀で最も美しい科学実験に選ばれた「二重スリット実験」は,私たちに「科学で真理を探究することは無理がある.科学はただ人が分かる言葉に置き換えた解釈のようなものだ」という認識を新たにさせます.すべては不確実な状態の上に成り立っていることが皮肉にも科学的に証明されてしまうのです.(不確実さこそが真理?そんな真理なんてあっていいものでしょうか!)

ここにきて,科学は真理を探究する崇高な存在から,生活を楽にする「道具」に成り下がりました.少なくとも最先端の基礎的領域を専門とする科学者の多くはそれを感じています.しかしそもそも客観性のある真理などというものは無いことは分かっていました.なぜなら私たちは生きていて,そこに主観を除くことなど不可能だから,完璧な客観性など無いも同然です.

死後の世界はあると思われますか?科学的に考えるなら,ナンセンスな話です.そんなものは無い.私たちが生き,考え,笑い,泣いたりするのは,すべて脳の神経細胞の複雑な信号のやりとりが引き起こす特殊な状況ですし,脳波を測定すれば,なるほどそれは科学的に正しい説明だと分かります.死ぬと,細胞が自発的な活動を止めますが,神経細胞上の情報はどこにもそっくり移すことはできません.神経細胞といったって物質からできています.つまり炭素とか酸素とか窒素原子なのです.死体を放っておけば,バクテリアに分解され,神経細胞もアンモニアや二酸化炭素になっていくでしょう.焼かれれば,炭や二酸化炭素になるでしょう.とにかくそうやって還っていきます.「死んだら土に還る」が科学的には一番近いですね.ただ複雑に関係しあうことで生まれていた「情報」は消失するので,記憶を引き継いでその先を進んでいく「死後の世界」を科学的に考えることはできません.死んでなお続く世界など想像できないでしょう.

しかしです.科学的にだけ考えて,だから死後の世界がないなどと本当に言えるでしょうか.私たちは,なぜ,死後の世界について科学で語ろうとしなくてはならないのでしょうか.科学がただの道具なら,そんなもので死について真剣に考えるなんて馬鹿げています.誰がそういう義務を課したのでしょう.科学は,ある現象に対して,ある方向から強い光を当て,光が当たった場所だけを克明に見ているようなものだと私は考えます.光が当てられた場所だけは,全く矛盾がありません.しかし,光が当たらない(当てられない)場所を考え出すと,科学は無力化していきます.何も「死後の世界」などという極端な話しを持ち出さなくても,それは日常に存在します.1年後の今日,雨が降るかどうかは,科学では絶対に分からない(説明できない)のです.あなたが今,月を見て何を想うのか,科学では絶対に分からない(説明できない)のです.

関連記事:「私たちに自由意志はあるのか」

 

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世界遺産に落書き

「岐阜市立女子短大の学生6人が、世界遺産登録されているイタリア・フィレンツェ歴史地区のサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に落書きをしたとして、大学から厳重注意処分を受けた。」

http://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/K2008062403650.html

いやー,やってくれましたね.日本の女子大生,いわゆる暴走というやつでしょうか.周りが見えてないのか,わざとなのか,その辺はさっぱり分からないですが...苦笑

ところで,重要なのはここからです.大学側は事態を重く見て,イタリア当局に謝罪し,修理費用を払わせてくれと申し入れたそうですが,断られたそうですね.反省してもらえればそれでいいと.

多分,世界遺産を管理しているイタリア当局は,本当にそう思っていると思います.だって,落書きされることは想定外だったでしょうから.彼女たちもいろんなストレスたまっていたかもしれないし,この件の重要な部分は,お金の問題なんかじゃないということです.管理者にも守れなかった責任があると感じているかもしれません.やった日本の女子大生に思慮が無いのはもちろんですが,そこを積極的に責めても「進歩的でない」と考えているのだと思います.これこそ,私の感じる「相互理解のある関係」です.イタリア当局と大学の問題でなく,落書きをした女子大生もこの関係の輪の中に入っていると感じます.

いいでしょうか.ここで大学が費用をイタリアに支払って「あなたたち,もう二度とこういうことをしないようにしてください.いいですね.」と厳しく注意して済ますのなら,場合によってはまたやりたくなりますよ.「なんか,むかつく.」というやつです.これを権力による「抑圧」と言うんです.イタリア当局のように「反省してもらえればそれでいい」と紳士的対応であれば,彼女たちも本当に反省して,もう二度とこういうことはしないんじゃないだろうか.と私は本当に思います.

とにかく日本という社会は,このような抑圧を少しでも排除する努力をしなくてはいけないと思います.いい国にしていくには,こういう所からだと思うのです.

 

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ガーリック無きイタリアン

なんだかんだ言って,日本はグルメの国だと思います.というのも,新鮮な魚介やだし文化や味噌の話だけではなく,外来の食材でさえ,それなりに美味しいと思えるものが簡単に手に入るからです.例えば美味しい生ハムが欲しいと思ったとして,近くのスーパーに行けば,安くてもまあそれなりの生ハムが手に入ります.チーズだってお肉だってハーブだって香辛料だって,たいていのものは売っているんですよね.最高のものでなくても,それなりの質を保っています.家の近くのスーパーでは,コリアンダーがポットのまま土植えで売られていますが,誰が買うんだろうか....と思いながら我が家が買い占めております.笑 (→ フォー,生春巻きなどになります.^^)食材の豊かさは当たり前のことで気づきにくいですが,他の日本製の商品に比べてそのクオリティはやはり高いと思います.つまり,服とか家具とか家とか家電とか車とかテレビドラマとか,そういういろいろな他の商品と比べれば,食材はかなり豊富でバラエティがあると感じます.

最近,なぜかトマトが美味しいのです.札幌だけでしょうか,理由は不明です.適当に一番安いトマトを買うとあまり美味しくないのが今までの常識だったのですが,最近はなぜかトマトの質がいい.そこで,このトマトを使ってパスタを作り,ガーリックを引き算することに挑戦です.パスタというと,どんなレシピ本を見てもテレビを見ても,オリーブオイルとにんにくからスタートしますが,こういうのを見ていると,引き算してみたくなるのが私の性分です.ということで,テーマは「イタリアンは,にんにく無しでも耐えられるか」.笑 作ったのはトマトのシンプルな冷製パスタです.ただし,にんにくという絶対的相棒を失うため,使う素材はそれなりの良質のものでいきたいと思います.

(↑ 本当の理由はというと...あったはずのガーリックが家になかったのです.涙)

材料(2人分)
・トマト(固くて,甘くて,酸味が少なくて,とにかく美味しいもの)・・・・1個
・オリーブオイル(香りのいいもの)
・イタリアンパセリ・・・・適量
・タリアテッレ(DIVELLA)・・・200 g
・黒胡椒・・・・・粒を用意して挽く
・塩・・・・・カンボジア産・天日塩

レシピ:
・まずたっぷりのお湯を沸かし,安い塩を入れます.
・トマトを1 cm角くらいのサイコロ状に切ります.
・イタリアンパセリを好きな大きさに切ります.
・お湯が沸いたらパスタを投入します.今回は平打ちのパスタ,タリアテッレ.
・茹で上がったら,ザルにとり,冷水で冷やします.今回は冷やすので,温かいパスタよりも茹で時間を少し長くしてOK.
・パスタをボールにとり,乾かないうちにすぐオリーブオイルをかけ,混ぜてなじませます.
・トマトをいれ,優しく混ぜます.
・ここに,カンボジア天然塩,挽きたて黒胡椒,仕上げのオリーブオイルをかけ,優しく混ぜます.分量は好みで.
・イタリアンパセリを散らして出来上がり!


     

     パセリを適当に切りすぎて,つんつん立っとる...笑


非常にマイルド!トマトも塩も胡椒もいいものを使っているので,素材の風味が生き生きとしたパスタになりました.とにかくマイルドです....うーん,ちょっとマイルドすぎるかなぁ...笑 このマイルドさに,ちょっと刺激を加えるのがガーリックなんだなぁ,ということも,このパスタから教わりました.ガーリックという魔法はやはり絶大のようです.

 

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キタキツネ

キタキツネ.北海道では特に珍しくなく,郊外に行けばすぐに会える動物です.夏の北海道はたくさんの観光客が訪れますが,バスから降りたらキタキツネがいて,「すごーい,キタキツネだ!!」という歓声が時より聞こえたりしますが,特にキツネをじっと見るわけでもなく,たいては写真を撮って,はしゃいで,満足して帰っていきます.とまあそういうシーンをよく見てしまいます.


   



夏のキタキツネに会うと,すでに知っていることとは言え,こんなに痩せているのかと私は再び衝撃を受けるのです.というのも,たいていテレビや雑誌に出てくるキツネはふわふわの冬毛か,夏でも痩せているのが目立たないようなショットなんですよね.映像では伝わってこない本当のキタキツネの姿は,現場で空気を通して対峙して初めて分かると感じます.


しかし痩せているというのは,決してマイナスのイメージなんかではありません.無駄な贅肉がなく,鍛え抜かれた鋼のような体です.足が体のボリュームに対してとても長く,眼光するどく,真っ直ぐ前を見る姿に背筋が伸びます.
   (しかし,しっぽだけはなぜか年中ふさふさです.^^)






こういう姿を見ると,千歳空港などで大量に売られているキタキツネグッズが何なのか,全く分からなくなります.太って可愛らしく変形させられたその姿.デフォルメも悪くはありません.しかし,それは何かひとつの特徴を捉えて行うのなら意味があり,魅力も生まれると思うのですが...どーもピンときません.


 

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206と対話する

北海道道28号.当別−青山ダム−浜益港線.この道は,私が札幌近郊でドライブをするとすれば,最も美しいコースだと思っている道です.残念ながら当別側はダムの建設により風景は変わってしまうと思われますが,青山ダムから浜益の間は深い樹海が延々と続き,南暑寒岳の残雪を森の間に眺めるこの時期の風景は非常に素晴らしいし,浜益に出るところで日本海が突然眼前に広がるところも想定外の展開だけにダイナミック.そして何より交通量が少ないので,静かなドライブを満喫できます.




白樺の森を駆け抜ける



道道28号は勾配はそれほどなく,いわゆる峠道とは言えませんが,低中速コーナーがひたすらに連続し,また地盤が悪いのか路面が大きくうねり,結構荒れています.この道を206である程度ペースを上げて走ると,206との楽しい語らいの時間を過ごすことができます.

私がこれまでに得た感覚では,この206という車は,「思いどおり」「意のまま」に操るタイプの車ではなさそうです.ステアリングを切り込んでもリニアには回頭しません.アクセルを深く踏み込んでも,実はそれほどのダッシュは見せません.ブレーキのタッチは素晴らしいですが,コントロール性はそれほど高いわけではありません.いずれも切れ味抜群ではなく,やや控えめな印象です.

現代の車はボディ剛性が高く,その剛性によって高性能シャシーを最大限機能させ,安心感のある操舵感・巡航感を生んでいると思います.それはパッセンジャーの安心感にもつながります.車がそれだけの剛性を携えているので,それに依存すれば人は安心感を感じますし,逆に言えば,この剛性から生まれうる正確無比なハンドリングにより,車を意のままに操縦する感覚を味わうこともできると言えるでしょう.

ところが,私は206からそのような「剛性」のニュアンスを全く感じないのです.よって,剛性から生まれる正確な操舵感などは206にはあまりないと思います.私はこの206のドライビングを包括できる言葉を探していたのですが,今は「躍動」かなぁ,と思っています.走ると車が躍動している気がする.そして,その感覚が私を元気にさせてくれるから不思議です.しかし206も現代水準の剛性は当然確保しています.どうやってこの世界観が可能になるのでしょうね.モノコックボディやサスペンションシステムの特性? マウントブッシュにも秘密がある? このような躍動感を生む支配的要因があるのか,はたまた全体の複雑な絡み合いで生まれるのか,そこは開発者じゃないのでさっぱり分かりません.

現在の日本の自動車評論において,「剛性感のない車」などと言うと笑われてしまうでしょう.206に対するモータージャーナリストの評価は決して悪くはないですが,「剛性感が足りない」という言葉を評論家が使うとき,そこには「それは206の数少ない欠点だ」という意味合いで使われます.それほど「剛性(感)=高いほどいい」という図式が成り立っています.しかし私は,206は必要な剛性を保ちながら,剛性感をある程度消すことに成功しているのかもと思ったりします.

プジョーの足廻りは,そのしなやかな特性と高い接地感から「猫足」と表現されますが,私はどうも「猫足」というよりは「猫」なんじゃないかと思ってきています.猫のしなやかな動きは足だけでは生まれません.しなやかな体,ひげ,そしてしっぽも必要です.すべてが調和して,猫という美しくしなやかな生き物が生まれるんです.プジョーも同じじゃないかなぁ...サスペンションだけじゃなく,ボディへのマウント方法,ボディの特性,エンジン,シートなどなど...そういうものが調和してプジョーなんだと思います...前にも似たようなことを書いた気が...笑

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