上に立つ人のすべき努力

先日,長居植物園に行ったとき,ベビーカーを押しながらゆっくりと散歩する赤ちゃん連れのお母さんグループに会いました.とても楽しく心地よい時間を過ごしているように見えました.赤ちゃんもご機嫌の様子.おそらく子育ての情報交換をはじめ,いろんな話題に花が咲いていたのだと推測します.

そういえば,同じ状況,先月にアトランタでも感じました.アトランタ植物園.(やっぱり植物園だ...植物園にはそういうパワーがあるんでしょうか.)サンドイッチとCokeを買ってランチをとっていたら,赤ちゃんと一緒のお母さんたちが4人くらい集まり,穏やかな会話とともに,自然なコミュニケーションが生まれていました.赤ちゃんもぐずることなく,みんな和気藹々です.

こうやって,意思疎通がうまくいって,有意義で気持ちのいい会話が続いている状況って,とても気持ちが穏やかになります.お母さんたちのこういう集まりは,同じ目的を持つ者同士,気の合う仲間同士であったりして,こういう雰囲気はすごく生まれやすのかもしれません...

さて一方,会社という組織,職場という環境は,気の合う仲間どうしが自然と集まる場所ではないでしょうから,有意義で楽しい会話,円滑で実りのある相互コミュニケーションには,皆多くの努力が必要でしょう.特に,この日本においては.

大阪で電車に乗っている時,私の横に座っていた40代くらいのサラリーマンが2人で必至に話しをしていました.議題はものの数十秒耳に入ってきただけで分かりました.どうやら,最近の若者は使えん,困ったものだ,と言うことのようです.特にその時,一方の男性が必至に訴えていたことは,「こっちはいろいろ話しかけて,会話をしようとするんやけど,とにかくノリが悪うてな,さっぱり会話にならへんのや.飲みに誘っても酒は飲めん言うしな.どうしようもないわ.」とこんな感じでした.どうやら若者(新入社員?)とコミュニケーションが成り立たなくて困っているようです.

どうもピンときません.「われわれの思い通りの若者が最近はいない」という愚痴にしか私には聞こえませんけど.自分の土俵の中に引っ張ろうとしているだけで,若者を知ろうとしていないように感じるんですよ.そりゃあ,飲みに誘っても効果はないだろうと思います.万が一その若者が実は酒が好きでも,気が合わない上司から誘われたら飲めないと答えて断るかもしれませんよ.

そういえば,大学時代の後輩が就職後に経験した面白い話しを聞きました.彼は,お酒を製造している会社に就職し,仕込みの工場に配属されました.そこは工場とはいえ,システム化された自動化の世界ではなく,熟練工の研ぎ澄まされた感覚の世界で,理屈や論理は全く通じなかったのです.大学院修士課程なんかを卒業してしまった彼は,逆にそれだけで煙たがられ,質問するほど,熟練工のおじさんたちから相手にされなかったらしいんです.今度は若者からコミュニケーションをとろうとするのに,先輩が分かってくれない.つまり上の逆のパターン.苦笑 で,こりゃいかんと思った彼はどうしたと思われますか?彼は,毎朝,一番のりで工場に出勤し,毎日工場の床をブラシで磨いたらしいですよ.来る日も来る日も.そうすると,おじさんたちは次第に「あいつは若いけどなかなか根性がすわっとる」と認めるようになり,雰囲気が和んで,今やいろんなことを教えてもらえているのだそうです.

私は彼の性格を知っているのですが,自分を必要以上にいじめるような性格ではありません.けっこうクールで現代的です.彼は,熟練工のおじさんたちの心に入っていくためには何をすれば効果的かと考えて,それは言葉じゃないと悟り,そして早朝の床磨きを思いついたんだと思います.その戦略はまさに当たったということでしょう.まあ,つまりコミュニケーションを行うため,相手のことを知り,知った上でそれに答えるべく努力したということです.これには参りました,わたしゃぁ尊敬いたします.^^

このブログで,時より日本人は議論する能力が無いと書いていますが,最近,そもそもコミュニケーションを最初から拒絶する人もけっこう多いよなぁ,と感じています.あれはどんな心境なんでしょうかねぇ.例えば,(理屈とは関係なく)首を絶対に縦に振らない頑固おやじとか,無表情で他者と関わり合いを持とうとしない若者とか.もちろんそれ以外にもいると思います.そんな時は,何はともあれ,コミュニケーションをとりたい側が努力して,相手の感性や考え方を理解しようと努める以外にはまあないでしょう.何が原因か分からない以上,相手を責めても生まれるものはありません.床磨きのような答えを見つけなければいけませんね.

特に,日本の序列社会においては,上の者が下の者に対してそれがもっともっと必要だと感じます.下の者はけっこう上の者に気をつかって努力することあると思います.しかし逆は少ない気がします.まあ,それが序列というものでしょうか.

しかしですね.これは疲弊した貧しい序列だと思うんです.だって,序列というのは,本来上に立つ人間のほうが下よりも人間としてできていなければいけない.年功序列なら,年上の人のほうが,年を重ね経験が多い分,度量が広く立派な人間のはずなんです.その時序列は最も意味をもって機能するはずです.しかし,電車の中で若者の愚痴を言っているサラリーマンは,私には若者と全く同じに見えます.形式上,上司と部下かもしれませんが,お互いの感性や価値観を知ろうと努力せず,自分の殻から出ようとしないという点で.

上に立つ人間は下の者の気持ちを真に理解する努力をしてもらいたいです.それが上に立つに人間の責任のひとつではないでしょうか.

関連記事:対話の欠如が序列を要求する
      :議論にならないのはなぜ?

 

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値札を見てはいけません

日本人はどうも,物の値段の話題が好きですね.

前にテレビで,有名シェフが作った料理を芸能人が食べて,その値段をズバリ当てるというクイズ番組をやっていました.とにかく,値段を当てるというだけで,すごい盛り上がりです.皆真剣に考え,はずして大ショックを受けたり...汗

身近な場所でも,値段の話しはよく出てきます.スーパーマーケットの会員様感謝デー5%オフの日が重要な日だったり,発泡酒・その他の雑種と,少しでも税金が安くなるお酒が生まれてきたりします.ガソリンが値上がりする前日にスタンドに車の列ができるのも,1円でも安く買いたいという欲求でしょう.こんなこともあります.「それ素敵なバッグだね.」と聞くと,「これで1万円だったんだよ」などと聞いてもいないのに値段の話で答える人がいます.笑

私は,値段は商品につけられているものであって,商品と一体のものだと思います.例えば,ある店のコーヒー1杯が400円だとすれば,市場がそのコーヒーに400円の価値を見出したという結果でしょう.400円という絶対値はただの数値にすぎず,「そのコーヒーの味,香り」などの情報なしに,「400円」という価格の意味は存在できないはずです.ですから,この味で400円は高いとか,安いとか,妥当だとかいう感覚が当然生まれると思うし,それは人によって違ってくるものでしょう.もっと深い世界に入るなら,コーヒーの入れ方や,コーヒーカップのデザインの好み,店員の心のこもったサービスなどを,人は価格の中に含めるかもしれません.

しかし残念ながら,そういう商品そのものに対する価値判断が介入することなく,値札だけが勝手に一人歩きしてしまうことがありそうな気がします.

ある絵を見せられて「なんだ!?この絵は???」と思ったとします.つまり全く心に響かなかったと...しかしその後に人から,「この絵は1000万円の値がついているんだよ」と教えられたら,多くの人は「まじで?」と衝撃を受けるでしょう.しかし私は,自分の感性を信じて「全く分かんない」と言い切るべきだと思います.だって,そう感じたのなら,その人にとっての価値は例えば1000円くらいだったとしても,いいじゃないですか.もし,1000万円の価値を自分は見落としたんだとか,知りたいと思ったのなら,もう一度その絵をよく鑑賞しなおせばいい,それだけのことです.それでも分からないなら,分からなくても別にいいんです.それはそれで市場に対する一票です.

私が最も問題だと感じるのは,その価値を理解しないままに,「この絵は1000万円の値がつく価値ある絵なんだ」などと,すっかり納得することです.もし納得してしまうと,理解のないままの価値が育まれ,それは値札に置き換えられて一人歩きを始めます.この納得は,「こういう点が1000万円の値がつく理由だ」のような納得ではなく,「これが1000万円の値札がつけられている絵だ」という納得です.こういう人が「欲しい」という欲求を持つなら,それはその価値の理解から生じたのではもちろんなく,価値があるらしいその絵を所有することで生じるステータスや賞賛を浴びるだろう期待から生じていることは間違いありません.

こうして,中身の価値を知らずして「ブランド」というものがやたらともてはやされる日本の現状が生まれます.ルイ・ヴィトン,プラダ,グッチ,アルマーニ...メルセデス,BMW,VOLVO...価値があるらしいこれらの商品を所有することが目的なだけであり,それらの価値に魅了されて購入している人は決して多くはないでしょう.

冒頭に書いたテレビのクイズ番組の話しに戻ると,食べずして盛り上がれる周囲の人々,そしてお茶の間でそれを楽しんでいる視聴者は,明らかに料理の価値に興味があるのではなく,ただ値札を追いかけているに過ぎない気がします.

日本人はもっと,「値札」ではなく「商品の価値」に目を凝らすべきです.消費者はものを買うとき,その商品の価値を値札から読み取るのではなく,その商品そのものから読み取り,それと値札を比較して,意思決定しなくてはいけません.これは消費行動の基本です.これを消費者が行わないと,商品の質は劣化し続け,世界に発信できるような日本製のものは消えていってしまう気がします.

関連記事:お金について
      :日本人は利己的か
      :ガソリンついに値下げ!
      :詐欺社会の構図(2)


 

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札幌・モエレ沼公園

札幌市の北東にモエレ沼公園という公園があります.

http://www.sapporo-park.or.jp/moere/

この公園は,札幌市が市の周囲を緑地公園で取り囲むという「札幌環状グリーンベルト構想」の中で生まれた都市公園です.広大なゴミ埋立地の上に計画された公園であり,したがって巨大なゴミの山の上に公園ができています.設計を行ったのは日系アメリカ人彫刻家,故イサム・ノグチ氏.残念ながら彼はこの公園の完成を待つことなくこの世を去りました.公園全体は極めて広大で,敷地全体がひとつの彫刻作品のように完成されています.いわゆる日本でいう公園のイメージでは全くありません.

この公園には興味深いエピソードがあります.当初の計画には,公園の中を自然を模した小川を流す計画があったといいます.自然を模すというのは,日本の庭園や公園の中にはよく存在する概念であり,モエレ沼公園もその例外ではなかったわけです.しかし後に,この環状グリーンベルト構想に出会い,本格的な設計を行うことになったイサム・ノグチ氏は,その小川の部分を指して「自然の中で自然のまねごとをしてもだめだ」と言ったそうです.もちろん,計画から小川は削除されました.

しかし彼は,日本庭園に見られるような自然の模倣を,批判的に捉えていたわけでは決してないと私は思います.彼はユネスコ・ガーデンを作庭するにあたり,徹底的に日本庭園を研究したとされていますし,後年,求めていた彫刻は日本庭園の中にある,とさえ語っていますから...

日本庭園の中に表現される自然は,全体でひとつ,部分は存在しません.部分をどうしても持ち出すなら,「部分の関わり合いを表している」ということになりましょうか.それがすなわち,日本人の自然に対するひとつの理解の形だと思います.モエレ沼公園のような山のない広大な平野に,木を少々植えて,その間に小川を流したって,それは自然に対する理解ではなく,ただの無知な模倣です.トンボのヤゴも微生物も住むことのできない,死んだ小川になるんですよね.これを彼は「まねごと」と言ったのだと私は思います.ですからこのモエレ沼公園におけるエピソードは,「形だけのまねごとは意味がないよ」というのが真意に違いありません.

彼はまた,「僕は周りが荒れたところにきれいなものを作るのが好きだ」と言ったとされていますが,これもモエレ沼公園を考えるとすごく分かる気がします.札幌市の都市景観(住宅地も含めて)は非常によろしくありません.氏もきっと,この札幌の街を訪れて,この地に自らの手で美しい都市公園を作ることにやりがいを感じたのではないかと思います.

というわけで,モエレ沼公園,とても美しく気持ちのいい公園です.何かこう,異世界に迷い込んだような感覚になれる場所です.なれるのですが...どうしてもここで報告しなくてはいけない惨状があります.




立ち枯れたり,弱りきった樹木...こんな状態が公園入り口まで続きます...


イサム・ノグチ氏は,この公園の完成を見ぬままに他界しました.彼が生きていたらどう言ったでしょう.駐車場から公園のシンボルであるガラスのピラミッドまでの間に植えられた樹木の多くが,完成わずか数年で枯れ木となり,生きている木も弱りきっています.この地は山から離れた平野の真ん中で風も強く,環境はとても厳しい場所です.自然に対する理解なく,形だけの計画を行うからこういうことになるのです.札幌市はこれを見放し放置しておくのか,ちゃんとした計画をもう一度練り直すのか,見守りたいと思います.とにかくこれを見ると,私は怒りがこみ上げてきて...そして生まれた公園が泣いているように感じてしまいます.

関連記事:武雄・慧洲園

 

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自己責任です

今日はつくば市での仕事を終えて,羽田空港までバスで移動して札幌に帰りました.つくばセンターから羽田空港はいつもバスを利用します.つくばエクスプレス(TX)が開通して以来,TX−JR−モノレールという最強のコンビが誕生し,渋滞に巻き込まれることなく確実に1時間半くらいで羽田つくば間を移動できるようになりました.それなのになぜ高速バスをわざわざ利用するのかというと,理由があります.つくば出張の際はたいてい実験機材をたくさん運んでいるので,電車の頻繁な乗り換えが辛いんです,重くて...しかもラッシュアワーにぶつかるとかさばる荷物は周りにかなり迷惑です.(^^;) バスなら,乗り換えがないのでとても楽,たまに首都高の渋滞に巻き込まれても,時間にゆとりを見ておけばそれほど問題ないというわけです.

さて今朝の話しですが,首都高で大きな事故が起きて大渋滞となっているという情報を入手しました.うーん,これはTXしかないかなと思ったのですが,詳しく調べてみると,通行止めだったのは朝9時頃まで.自分がバスに乗る時間の11時は既に通行止めは解除されて2時間経っていること,日中は首都高も比較的交通量が少ないこと,そして飛行機の時間も充分に余裕があること,などを考えた結果,まあ大丈夫だろうと思いバスに乗ることを決意し,チケットを買ってバスに向かいました.

ところがです!バスに乗る際,運転手から「今日は事故の渋滞の影響で空港まで3時間以上はかかってますがよろしいですか?」と言われてしまいました.「3時間以上!?(通常は1時間半です)」....うーん,自信たっぷりに大丈夫と思っただけに,正直戸惑いました.しかも3時間以上の「以上」という部分は何じゃろうか.以上ってことは,4時間も5時間も6時間も含んでいるわけですよね.笑 3時間なら予約の飛行機に間に合いますが,4時間じゃ無理です.とにかくこの運転手の話しを信頼するなら,ここでバスに乗るという選択肢は消えます.しかしですよ.さすがに4時間はないだろうと考え,要するに自分の感覚を信じて,「大丈夫です,乗ります.」と言いました.そうしたら運転手は極めて怪訝な顔でこっちを見て,一言も発しないまま運転席に座りました.うーん.事を荒立ててしまったのか.素直に降りるべきだったか.なんでこんなにも不安にさせてくるんだろう,この運転手は...(TT)

こんな感じで,自分の感覚を信じた5名がバスに乗車.運転手の言葉を信じてバスを降りてTXに向かった人が1名.どうなることかとちょっと不安だったのですが,結局バスは渋滞の解消した首都高をすいすいと走り,ほぼ定刻で羽田空港に到着しました!結論として,自分の予測は正しかったということで,安堵.(^^)

バスの運転手の気持ちも分かります.「3時間以上」というのは自己防衛でしょう.しっかり防衛せずにもし3時間以上かかってしまったら,「こんなにかかるなんて聞いてないぞ,金返せ!」と怒鳴る客が多分日本にはいるでしょうから,運転手も過剰な自己防衛をしたくもなります.しかし正確な未来なんて運転手にも予測不能です.不当なクレームに対しては,いくらサービス業とは言えバス会社は突っぱねていいと私は思うのですが,日本ではそれは結構まずいことですね.結局頭を下げるのはバス会社です.ですから,このような妥当とは思えない言葉をあらかじめ発しなきゃいけなくなります.

こういう話は,日本人の責任感の曖昧さに原因があるように思います.自分で考え判断したことは自己責任です.バス会社は断言はできなくても誠実にアドバイスはできるでしょう.そういうサービス業としての役割が消えています.一方そもそも客も,最終的には自分の判断で乗るのですからそれは自己責任です.あくまでバス会社のアドバイスはアドバイスでしかありません.こう考えて,私が考えるスムーズな会話というのを身勝手に妄想してみました.笑

運転手「今日は事故の影響で首都高は渋滞しているんですよ.」
客「え?本当ですか?どれくらかかるでしょうか...」
運転手「1時間ほど前の情報では,空港まで3時間くらいかかっているんですよね.しかし通行止めは解除されていますし,渋滞は緩和の方向だとは思うので,多分今は3時間はかからないと思うのですが...不安でしたらTXを利用されることをお勧めしますが...」
客「なるほど,そうですか...飛行機の時間は充分にゆとりがあるので,3時間かかっても間に合いますから,大丈夫だと思うんですが....」
運転手:「でしたらどうぞお乗りください.」

まあ例えばですが,こういう会話が豊かだと思うのですが...

 

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囚人のジレンマ

社会一般において,個人に利益をもたらす個人の意思決定(選択)が,全体にとって悪い影響を及ぼすことがあります.この問題を分かり易く示したものが「囚人のジレンマ」と呼ばれるお話です.新古典経済学は,個人の利益の追求が結果的に社会の利益を増大させると主張しました.しかし,囚人のジレンマは,これに対する完全な反例です.

個人の利益追求が社会の利益になる例はたくさんあります.例えば,非常に単純な例えとして,死刑制度について考えます.もし自分が「誰かに殺されて死にたくはない」と思ったとします.まあ,もちろんそう考える人がほとんどでしょう.そこで「人殺しをした人間は死刑になる」という決まりを作ってみます.そうすると,さすがに悪人も死刑にはなりたくないので,リスクを犯してまで誰かを殺して金品を奪おうとは考えなくなるでしょう.「誰かに殺されて死にたくはない」と思った人の利己心達成のために死刑制度を作ることで,仮にそんなこと考えたことのない人でも,誰かに殺されるリスクが減ります.つまり,個人的利益追求の結果生まれたこの死刑制度によって,社会で暮らす全ての人が恩恵を受けることになります.これは,社会の功利を高めるためには個人の利己心が必要であることを端的にしめす好例です.

ところが,囚人のジレンマは,この考え方が正しい結果を常に導かないことを示してしまいます.囚人のジレンマの問題は以下のような話です.(囚人は悪人ですが,この話しは囚人の立場になって考えます.)

・2人の強盗犯が現行犯逮捕され,2人別々の取調室に入れられました.
・実は2人は長いことコンビを組んでいて,たくさんの余罪があります.
・ここで警察官は2人にこのような同じ提案をしました.「もし,お前ら2人ともが黙秘を続けても,現行犯逮捕の罪は立証されていて免れない.だから,懲役2年になるだろう.もし相手が黙秘を続けているのに対し,お前が余罪まで自白したなら,その正直さに免じて,懲役1年でいい.反対に黙秘を続けた相手は懲役10年だ.つまり,お前が黙秘を続けても相手が自白していたら,お前は懲役10年ってことだぞ,いいな.それから,2人ともが自白したなら,2人とも懲役5年だ.」

さて,別々の取調室に入れられた囚人は,捕まるなんてことを想定していなかったので,黙秘するか自白するかの相談をしていませんでした.2人はどうするのが最も自己が得をするでしょう.これは場合分けをして考えると明快です.まず相手が黙秘を続けた場合,自分も黙秘を続けると(協調すると)懲役2年ですが,自白すると(裏切ると)懲役1年で済みます.一方,相手が自白した場合,自分は黙秘を続けると(協調すると)懲役10年を食らってしまいますが,自白する(裏切ると)と懲役5年で済みます...なんということでしょう.相手が黙秘をしようと自白をしようと,自分は自白して相手を裏切るほうが,自分には得になっているではありませんか!

驚くべきことに,2人ともが同じように自己の利益だけを考えたなら,結果は2人とも自白をして懲役5年で決定してしまいます.しかしよく考えてみると,これは囚人たちにとって想定される最も利益のある結果とは到底言えません.2人とも黙秘を続けていたなら,懲役2年で済んでいたのです!よって,各々が利己的な選択を行うと,2人の利益は最大にならないということになります.2人の利益を最大化する唯一の方法は,事前に話し合い,協調し約束しあうことです.互いに黙秘を約束しあえば2人の利益は最大化されます.

囚人のジレンマは,個人が利己的に自分の利益を追求する行動をとっていては,社会は大きな不利益を発生させる可能性が多分にあることを暗示しています.囚人のジレンマの例は,米ソの冷戦です.冷戦を行いながら両国は莫大なお金を費やし,核配備を行い軍備を拡大させました.これが社会全体にとって(アメリカとソ連の双方にとって)利益のあることだったとは到底言えないでしょう.核が増える世の中を,社会の利益が増しているなんて市民は感じられません.それでも核軍備が増強され続けたのは,米ソが互いに全く理解がなく,協調という選択肢がなかったことに起因します.これは囚人のジレンマの典型だと言われています.

さて,囚人のジレンマを日本社会の中で考えてみるとどうなるでしょう.興味深い考察ができそうな予感...まだ,予感の段階ですが...

つづき → 日本のジェンダー問題を「囚人のジレンマ」で考える

 

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議論にならないのはなぜ?

日本人は議論が上手ではありません.国会中継を見ていても,話が噛みあってない,議論になっていない,ということはよくあります.議論を交わすプロの方たちでさえ,あの状態なのですから,これはなかなか厄介な問題だと思います.議論というとちょっと堅い言葉ですが,「話し合い」と言うともっと身近に感じられるでしょうか.もしくは単純に意見を言うこと,そして意思疎通を図ること.これらの基本が習得できて初めて,意味のある議論が可能になると思われます.

さて,議論は社会生活を営む人が他者と関わる時に避け難い行為です.難しい政治の議論だけが「議論」なのではありません. 例えば,AさんとBさんが今日のランチは何を食べるかで意見が割れています.Aさんはパスタ,Bさんは回転寿司がいいと意見を発したとして,この後二人はどうするでしょう.もし完全なる「序列」があるなら,上位の人の意見にもう一方の人はただ従うだけかもしれません.しかし,一切の序列が存在しなかったら.この場合,議論しなくては話しは先に進みませんね.Aさんが「回転寿司って,○○寿司のこと? あの店は昼休みの時間はいつもすごく混雑してるよ.」と言って,Bさんが「確かにそうだな.じゃあ今日はパスタにしよう」という過程がなければ問題は解決しないのです.この場合,単純な状況なので,たったこれだけですが,基本的にそこに行き着くまでの理由付けを模索し,それを基盤に相互理解に達した,という意味ではこれも立派な議論です.

こう考えると,議論が起こる条件というものが見えてきます.議論は,2人以上の人が違う意見を持っている時に,その人たちの間にいかなる序列も存在しない時に,そしてその複数の意見をひとつにまとめなくてはいけない時に,必ず生じるのです.

議論が生じる条件が分かると,日本人がなぜ議論が下手なのか,その理由も同時に見えてくる気がします.日本は島国で,異民族からの侵略は歴史上ほとんどなく,長い時間をかけて日本人に共通の価値観が構築されてきたと思われます.ですから,話す前からお互いにかなりの部分を分かり合っているので,議論の必要性が少ないのです.同じ価値感でないとすれば,例えば,武士と農民は全く違う価値感を持っていたでしょうが,両者の間には確固たる序列が存在し,腹を割って議論をする必要性などやはりなかったでしょう.つまり,日本人は「議論」を行う機会は非常に少なかったのかもしれません.

しかし現在の日本は,西洋から民主主義の思想を取り入れることで,一人一人が自由に考え発想し,意見を交換し合うことが可能な社会システムを手にしています.しかし,「議論の方法」はまだ手に入れていないのではないかと感じます.日本人は,本当に深く物事を考えていたとしても,真っ当な議論にはほとんどならないとつくづく思います.その原因は非常に単純なことだと思いますので,以下に書きたいと思います.

原因1:今何を話し合っているのか,その論点を忘れること.
最も重大な問題です.例えば,「漫画は芸術と言えるのか」ということを話し合っていたはずなのに,時間がたつと「日本の漫画が世界で受け入れられているのはなぜか」という議論に変化してしまい,結局最初の「漫画は芸術と言えるのか」という論点に戻ることなく,なんとなく議論が終了してしまいます.こういうことが多いのです.

原因2:根拠が歪んでいる.もしくはない.
主張する意見の根拠がおかしい,とよく感じます.例えば,民主党が「ガソリン税率の引き下げは民意である」などという言い方をしますが,それは根拠が歪んでいます.民意のとおりに行うだけなら,政治家というプロは必要ありません.ガソリン税の意味,道路特定財源のあり方,このような本質的な場所から離れ,別の場所に論拠を見出すことはできないはずです.また,もっとひどいケースが筋の通った論拠がない場合です.夫婦別姓の記事でも書きましたが,同姓であるべきを主張する人は「同姓であることが家族の絆を強める」と考えていますが,それに対する筋の通った根拠を聞いたことがありません.

原因3:揚げ足をとる.
日本人はまず間違いなく揚げ足取りを行います.こういう私もそのような方向に走っていることに気づき,慌てて「これじゃいけない」と思うことがあります.(反省)「揚げ足取り」とは,相手の論拠の矛盾を指摘することではなく,そこからずれた場所における相手の弱点を指摘することです.典型的なものとして,「物事の悪い面ばかりを見るのは君のよくない点だ」などという指摘です.これは,本題から逸脱しています.悪い面を考え,どうしたらよいか考えている人を冒涜しているわけですよ.真っ当な議論では,「君の考えていることは悪い面ばかりとは言えない,なぜなら,○○○だから充分によい面もあるよ.」のように言うべきです.揚げ足を取ることは,本題から逸脱する意味において,原因1の原因にもなっています.

原因4:自分の主張を守ることに固執する.
本来,あらゆる検証を行って,確信が持てたから,自分の意見を主張できるわけです.しかしもし,より客観的な別の意見によって,全く自分の主張は論理的ではなかったと感じることがあったら....その時は,自分の意見の否を認めるべきです.しかし,実際はそのようなことは極めて稀です.いつしか,自分の主張を論理的に説明しようという姿勢が崩れ,自分の主張を何が何でも守ることに固執し始めます.この状況だけを見ていると,初めから自分の考えを他人に押し付けたかっただけなのか,と疑ってしまいます.私の経験則では,このタイプの論者が劣勢になると,必ず「話しにならない.」「君と話しても時間の無駄だ.」のように結ぶ傾向を感じます.

以上,4ポイントを頭に置いて,話し合いをしてみるといいでしょう

・話しの論点は何なのか,常に意識するよう心がける
・根拠は充分に客観的で一般化できるものなのか,常に精査を心がける.
・論点とは違うポイントでの指摘(揚げ足取り)をしないよう常に意識する.
・議論の目的は,自分の主張を通すことではなく,より正しく高次元な考えに到達することだ,と強く意識する.


これで,正しく議論が進むはずです.日本における様々な問題を議論し合うのはそれからです.

 


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多数決の危険

私の印象では,日本人は多数決がかなり好きだと思います.学校でも何かと多数決がありますね.学級委員を決めるのに,誰かを推薦してから多数決で決める.合唱コンクールで何を歌うか,いくつか候補が出たらまた多数決.一方,何気ない場所においても,意識はしてなくても多数決的な雰囲気の決まり方をよく感じます.例えば,久しぶりに集まった学生時代の友人同士,さてどこでランチを食べようかという時,誰かが「○○レストランはどう?」と提案して,「そうしよう!」と数人が賛同したら,つまり多数意見が出揃った時点で,だいたい決着です.そこから「△△は○○より美味しかったよ.」とあえて少数派意見を口にする人はいないでしょう.もし○○が多数派になる前なら,△△が多数派をとれたかもしれませんが...とにかく,少数派は黙るのが基本で,結果は「多数決的」だと感じます.私の観察では,けっこうな数の日本人が多数決的に物事を考えているように思います.だから実際,日本において「多数決」という言葉から生まれるイメージはそんなに悪くないと思います.最も公平な原則だと思われている気がします.

さて,多数決ってそんなに素晴らしいものでしょうか.私は,日本においてこそ,多数決は非常に危険だという気がしているんです.

時々勘違いしている人がますが,多数決は民主主義の原則などでは全くありません.多くの人が自由に意見を持っていて,その意見をひとつに決める必要性があるとき,意思決定を行うための単なるひとつの「手段」だということを認識しなくてはなりません.本当に議論を行った末に,意見がひとつに集約されないのなら,多数決という手段が存在します.しかしもし議論の末に全員が納得する意見が得られたなら,全会一致になりますね.全会一致も手段のひとつですが,こっちのほうがはるかに平和的で意義のある結論です.ただ議論する人にはそれ相応の能力が要求されるでしょう.

多数決は,決定に参加する人間が全く他人に影響されない強い心を持っていて,一切の結託なしに,しかも正しく筋の通った議論がなされた結果であれば,最大多数の幸福が約束されるという意味で,一定の価値を持ちます.しかし,現実的にはそんなことはありえません.少数派がお金を用いたり,情報を操作することで多数を占めることは容易です.最も煮詰められた意義のある意見が(是非はともかくとして)最大多数を得る保証なんてどこにもありません.さらに,日本には厄介な別の問題があります.それは「多数派こそ信用できる」というタイプの考え方です.つまり意見の「内容」で判断しているのではなく,「多数派の意見かどうか」が判断材料になるのです.こうなると,意見を積極的に発する側も「中身のある意見を考える」ことよりも「多数派になること」のほうが重要になってしまい,悲惨な悪循環を生みます.こうして,日本において多数派であることは非常に有利となります.中身ではなく,「多数派であることの力」が生まれるのです.力のある政治家はその状況を非常によく理解していて,揺るがない連立与党,その中の明らかな第一党,そしてさらにその中の最大派閥という構図でもって,頑強な多数派を構築します.構築された多数派の中の少数で政治を動かせるわけです.

日本人は多数決が好きで,多数派に安心感を得易いと思いますが,これは危険なことです.また,必ず「多数派嫌い」の人はいますが,このような人も,ちゃんと多数派の意見のどこがおかしいのかを指摘できずに,とにかく多数派は嫌いだ,と言うだけじゃ,何の意味もなしません.何も考えず多数派を支持していることの反対をやっているだけで,本質的な意味は感じられません.とにかく読売ジャイアンツは嫌いだ,と理由もなく言っているようなものです.

多数決は,きちんと本質的議論がなされて始めて,ある程度意味を持つのです.ただの多数依存は議論を本質から逸脱させてしまいます.多数派の意見かどうかという点を一切考えないようにして,意見の内容こそ真正面から考えるよう努力しなくてはならないと思います.

 

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日本人は利己的か

私はこのブログで,最近「日本人は利己的だ」ということを繰り返して書いてしまっていますが,まとまった説明の記事を書いていませんでした.根拠のない日本人批判(非難)のように感じられた方もおられたかもしれません.ということで「私が感じる日本人の利己性」について,ここでちょっとまとめたいと思います.

「利己主義」の定義
まずは意味を確認します.利己主義とは,自分の利益のことを優先し,他者の利益を無視もしくは軽視する考え方です.自分の利益を細かく計算できていない場合の利己的な行動は,「わがまま」「身勝手」のようなニュアンスのほうが近く感じられます.この記事では,個人に対してだけでなく,集団についても利己的という言葉を使いたいと思います.つまりその集団にとっての利益を最優先にするような場合,それは利己的な集団です.

「利己主義」「利他主義」そして「功利主義」
利己主義の反対は字面で考えれば「利他主義」だと思いますが,「利他」はかなり特殊な状況です.自己の利益は無視し他人の利益のみを考えた行動というのは,存在しないとは言いませんが,一般的ではありません.じゃあ,人間の行動を利己か利他に分類するのなら,誰でも利己的な行動をとるんでしょ?という結論になりそうですが,実はそうではありません.自分の利益のみを追求するのではなく,自分の利益にもなり,かつ他人の利益にもなるような行動をとる人がいます.これが「功利主義」です.シンプルに考えれば,功利主義は利己主義の延長線上にあります.「自分だけ」か「自分プラス他人も」かの違いだからです.私が日本人を利己的だというのは,もっと正確に言えば,功利的な行動にまで発展していない,功利的な範囲が非常に狭い,という意味にもなります.よって,利己性だけが残ってしまうのです.ではこのブログで書いてきたことを簡単にまとめていきます. また,各項目と何かしの関連性のある記事をリンクします.ただ,過去の記事ほど考えが浅い箇所がありますが,ご容赦ください.

1.対話が下手である
自分の考えを相手に伝えるためには,正しい共通語を使い,論理的に説明しなくてはなりません.また聞き手も,相手の言葉を聞いてその意味を正しく理解する能力が必要です.言葉によるコミュニケーションは,功利を発生させるために重要な役割を果たします.なぜなら自分だけでなく,相手の利益にもなるような行動をとるには,相手のことを知って理解する必要があるからです.残念ながら,日本人はコミュニケーション能力が高くありません.例えば,「今日の晩御飯何がいい?」「何でもいいや」...これではコミュニケーションとは言えません.「今日は君が食べたいものでいいよ」と,本当にそう思ったうえで答えるのがコミュニケーションです.

  「対話の欠如」

2.お金の意味
備えあれば憂いなし.日本は世界有数の貯蓄大国です.貯蓄は主に,自分や妻や夫のため,子供たちのために行うものです.家族単位で考えるなら,それは賢明な手法かもしれませんが,社会全体からすると,家族単位で凍結されたお金がたくさん存在します.つまり,社会を動かしているお金は多くはありません.欧米の考え方は,お金は動かすもの(使うもの,投資するもの),動いたお金は社会を豊かにし,それが自分たちにも跳ね返ってきて結局利益がもたらせる,と考えます.このような違いは,欧米の投資家と日本の投資家を比べるとよく分かります.欧米の投資家は,本当にいいものを作る会社,優れたアイデアや技術を持っている会社,未来に対するビジョンを持っている会社を探し出して,投資する人が多くいます.そういう企業は成功する確率も高く,それが成功すれば社会に利益がもたらされて,自分もそれを享受できるからです.日本の場合は,どうやったら儲かるか,株価の動きばかりを気にする人や,戦略ばかりを練って,社会のビジョン,あり方を真剣に考える投資家は少数派です.基本的に金儲けのひとつの方法が株を買うことだと思っている人は多いでしょう.

  「お金について」
  「日本人の利己は功利を生めるか」

3.ホスピタリティ
ホスピタリティという概念を日本語に訳せば「おもてなしの心」になるのでしょうか.日本にもちゃんとこの概念があると思いますが,とにかく現在は希薄化している気がします.ホスピタリティは,ふるまう側のサービスと,受ける側の感謝の気持ちの高度なコミュニケーションだと思います.これが達成された場合,双方がとても気持ちよい時間を過ごすことができます.現在の日本では,客は「金払ってんだから,店員は客に尽くしてくれて当然」と思っていたり,店側は「決められた仕事だけやればいいんだ」と思っていたりします.双方に心の通い合いがありません.ですから,ホテルに節水シャワーヘッドが設置されたりします.

  「ホスピタリティ」

4.ジェンダー
ここには日本人男性の利己性を感じます.社会で生きていく(お金を稼いで食べる)という行為は,日本においては圧倒的に女性が不利ですが,決して平衡点を移動させようとしません.法の整備だけは敷いて,意識は改革されません.変えるには,政治経済の大部分の実権を握ってしまっている男性が変わるしかないのですが,女性の欠点を指摘するという手法で男性社会を守ろうとする男性がとても多いのです.

  「ジェンダー」
  「未舗装路」
  「見落とされる倫理観」
  「無責任な日本人男性」

5.生産者と消費者
日本の相当数の企業は,消費者を騙す方法にたいていの時間を費やしています.商品の本質で勝負しません.住宅業界,アパレル業界など,もう至るところに法律には抵触しないナチュラルな詐欺が存在します.これは企業が自社の利益を最優先しようとする傾向に起因します.社会の豊かさより自社の利益なのです.誇大広告が多いのも日本です.欠点を隠して,長所を並べ立てる広告はよく見ます.時には,自らブームを仕掛けて一儲けしようと考えます.さて一方,消費者と生産者は,表裏一体でもあります.消費者も本質的な理由付けなしに消費行動を起こしますので,問題です.減税とともにガソリンスタンドに並ぶ日本人がいます.100円ショップが大好きな日本人はけっこういます.バーゲンで押し合いをして,怪我をする人がいます.こう考えると,日本の消費者はとにかくお金を節約しようとする傾向に気づきます.貯蓄のためです.これは,上に書いた「お金の意味」の話しにつながります.

  「歪められた市場」
  「日本の住宅業界」
  「贅沢は見方」

6.些細なこと...
仏壇やお墓の花を,お参りをする生きている人間の向きに飾るのはなぜか.なんとなく故人が軽視されているように感じてしまいます.生きている人間が中心のように感じてしまうのです....親が子供に「飛行機が落ちるから静かにしなさい」と機内で注意します.過激な虚偽の理由を持ち出すことで,容易に子供を黙らせるためかと疑ってしまいます.「鬼がさらいに来るよ」「隣のおじさん怒ると恐いから静かにしなさい」も同じです.なぜ静かにしなければいけないのかの正しい説明は,親としては大変な作業です.極端なことを言うのが楽な方法のように感じます....時より「老後が寂しいから子供が欲しい」などという意見を聞きますが,これを利己的と言わずして何と言うのでしょうか.

  「ガソリンついに値下げ」
  「仏様に供える花」
  「飛行機が墜落する」
  「国立公園での出来事」


このように私は,実に様々な場所で,日本人の利己性を感じます.数え上げたらきりがありません.しかしこれは,先にも言いましたが,単に「功利主義にまで発展させられていない状態」ととらえることもできます.功利主義は,個人の利己性をある程度内包させられます.日本人が少しだけ功利主義を理解し,日常の些細な場所で実践できるようになれば,意外に日本社会は変わるかもしれないと思っています.この日本人と利己主義に関しては,今後も考え続けていくべき重要なテーマと考えています.また新しい考え,発見などあったら記事にしたいと思います.

 

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対等ではない関係

これはコブクロが歌う「桜」という曲の出だしです.

   名も無い花には名前をつけましょう
   この世にひとつしかない
   冬の寒さに打ちひしがれないように 
   誰かの声でまた起き上がれるように

大ヒットした曲なので聞いたことがある方もおられるかもしれません.日本人はこういうフレーズにどのような意味を感じているのでしょうか.まあ,この曲が大ヒットするわけですから,心にマイナスのイメージはないのでしょう.

思ったことを少し書きたいと思います.まず「名もない花」から.「まだ名前のついていない新種の花」とかそういう話しではないでしょう.名前は本当はあるんだけど自分は知らない,「名も知らぬ花」という意味なのか...もしくは,何かの比喩になっているようにも感じます.いずれにせよ,私には具体的な意味が分かりません.「この世にひとつしかない」は名前にかかり,「この世にひとつしかない名前」を「名も無い花につけましょう」という意味になるのでしょうか.後半です.名前をつけたら「冬の寒さにうちひしがれない」ようになるのかどうかも私には分かりません.最後に,名前がつけられれば,誰かがその名前を呼べば起きあがることができるだろう,というのが最後のフレーズですね.別の花(?)と間違えることなく,自分を呼んでいる,応援して名前を呼んでくれている,と自覚できるので,倒れていても起き上がることができる...まあ,言葉で具体的に説明せよといわれれば,こんな感じなのかと思います.

まず考えなければいけないのは,花が独立したひとつの命,ひとりでも生きていける命としては扱われていないと感じてしまうことです.「名もない花」は,ひとりでは起きあがれないもの,という前提からスタートしています.これは花に対して少々上から目線的で,私は花に失礼だと感じるのです.もしくは先ほども言いましたが,花ではなく何らかの暗喩でしょう.それから,私がどうしても納得できない展開は,「誰かの声でまた起き上がれるように」という部分の「誰か」です.なんと無責任な,と思ってしまいます.名前をつけましょうと言っておきながら,提案者(?)は「誰かが声をかけてくれたときのために名前をつけましょう」と言っているわけですよ.

とまあ,こう書いてもコブクロは日本では人気歌手グループで,この歌も売れたわけですから,私の感じ方は異端です.しかし,当たり前と思っていることを疑うことも大切です.例えば,この桜の出だしを英語で訳してみてください.私には無理です.見当がつきません.かりに直訳でなんとか訳しても,「なるほどそういうことね」と異文化の人に分かってもらうのは困難でしょう.つまり,日本という社会風土の上に成り立っている特殊な意味合いを含む歌詞だというのはほぼ間違いありません.ユニバーサルではないのです.

コブクロの「桜」はあくまで例で,日本には同様の言葉はいくらか存在します.「名も無き道端の草」「名も無き旅人」なんていうフレーズはどこかで聞くことがあるでしょう.名がないというのは日本人にとってどのような意味を持っているのでしょうか.先にも書きましたが,私はここに,「上の立場からの目線」が見え隠れすると感じます.コブクロの桜は分かり易いです.名をつける側と,つけてもらって呼んでもらわないと起き上がれない花と,どちらが上でしょうか.序列のようなものがあります.「名も無き旅人が残した言葉です」なんていうのも,旅人が誰であったかは誰も知ることができませんが,それを今発信している当人は,それを紹介することで多くの人から認知されるでしょう.「名も無き」に限りません.「小さな虫たちがけなげに生きる姿を見て頑張ろうと思った」というようなフレーズもありますね.「健気(けなげ)」の本来の意味は,強い意志を持っていることで,決して上から目線的な語彙ではないのですが,現代においては上から下へのイメージを持つ人が多いでしょう.「けなげな少女」とは使えど「けなげな叔父さん」とはあまり言いません.まだあります.好き嫌いをしている子供に向かって親が,「世界には貧しくてご飯も食べられない国があるのよ.ちゃんと好き嫌いせずに食べなさい」などと言うことがあります.学校の先生もたまに言います.これもそう.貧困の国(自分たちよりも不幸と見なした上で)を持ち出して,自分たちを励ますとは何という無礼!と思ってしまいます.考え出せばいくらでもあります.

日本人は,とにかく丁寧で,他人を気遣える優しい民族だと,なんとなく日本人自身が思っていそうですが,実は全く逆なんじゃないかと思うことが多々あります.いや,全く逆な日本人がかなりいるということでしょう.まずはそういう認識を捨てて,「互いに対等な関係」を築ける努力をする必要があると思います.そうでなければ,法律や制度以外の場所に潜む,無意識的な問題を排除することはできないんじゃないかと思います.能力を無視した年功序列や,日本のジェンダーの問題が最も分かり易い例じゃないでしょうか.

 

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仏様に供える花

私は子供の頃,とても疑問だったことがあります.そしてそれはしばらく完璧に忘れていて,つい最近,突然思い出しました.そして,その理由が知りたくて,インターネットで調べてみました.キーワードは,「花・仏壇・こちら向き」.

そう,私が不思議に思っていたこと,それは仏様に供えるお花はなぜこちらを向いているのか,ということです.仏花は飾るためのものではなく,供えるためのものです.自然に考えて仏様に供えるものなら,仏様のほうを向けるはずでしょう.なのになぜ,手を合わせる私たちから綺麗に見えるように,こちら向きに花を供えるのかが疑問だったのです.なぜこれが常識になっているのか,という点について...

さて調べてみると,同様の疑問を持っている方はおられるようでしたが,非常に少数のようです.それでも,いちおう回答らしきものがお寺のホームページなどにありました.主なものとしては以下のようなものです.

「供えた花は,そのまま私に注がれている如来さまのお心を表している」
http://www.terakoya.com/butsuji/butsuji_1_11.html

「ためしに一度向こう向きに供えてみてください.なんだか楽屋裏(がくやうら)をのぞいているようで変でしょう.ではこちら向きになおしてみます.やはりこの方がずっときれいで気持ちも落着きます.きれいに飾られると,仏さまの荘厳(そうごん)さもより増すことでしょう.それにお参りする人もきっときれいな気持ちになって,お参りしたという実感がわきます.清々(すがすが)しいこころを仏さまやご先祖さまが受け取ってくださり,その喜ばれたみこころがまたこちらへ伝わって供えた方の喜びになります.行ったり来たりですね.」
http://www.tendai.or.jp/houwashuu/index.php

なるほど!と納得したいところですが,納得できません.生理的にです...泣 例えば,タイは仏教国で,家庭にも簡単な仏壇のようなものがあり,花も供えます.しかし,花は質素なもので,どの方角からも同じように見えるような類です.それを供えるので,仏様側からも参る人側からもそれほど見え方は変わりません.キリスト教でも献花は行いますが,花を手前に茎を向こう側にして置くのが基本で,やはり死者から正しい方向に見えるようにします.あれほどたくさんの花を,手を合わせる自分に向けて供えるのは日本だけではないでしょうか.

上のふたつの回答に示されている「仏様のみこころを示している」という仏教思想はいいのです.私は,自分たちで勝手に豪華にこちら向きに飾って,それで「仏様のみこころ」と言っている神経が理解できません.自作自演です.タイの家庭の仏壇のように,どの方角からも同じように見えるような花を供えて,それを御心と言うのなら,とてもよく分かります.

私はこの仏壇の花の向きから,私が憎んでいる日本的な何かをとても強く感じます.このブログでさんざん書いている日本人の「利己的」な匂いもします.全体を捉えることが下手で,自分に都合のいい解釈をするのです.多くの日本人がこの花の向きに疑問を持つことがないでしょう.つまり,この向きが日本人にとって非常に安心感のある当たり前の形なのです.現代の日本人は,こちら向きに供えた花から仏の御心を感じるようなことも実際はないでしょうし,ただ「そうするものだ」と常識に従って供えているんだと思います.もし供えた花から仏の御心を感じるほど信心深い人がいるなら,絶対にこの向きに疑問を持つと思います.だって,これはどう考えても「何かがおかしい」はずです.

 

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