日本について考えるブログ




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「美味しそう」 :: 2015/01/18(Sun)

僕はよく、料理を目の前にして「美味しそう!」と言ってしまうのだが、これはいいことなのか、不自然なのか、というのが今日の話題。最近、妻から「料理を目の前にして「美味しそう」というのは何か違和感がある」と指摘されたからだ。全く思いもよらないことだったのだが、しかし心当たりが無い訳ではない。

以前、田舎のドライブインのレストランで、運ばれてきた料理を前に「美味しそう」と思わず口にだして言ったのだけど、そこで運んで来た店員がすかさず「美味しそう、じゃなくて、美味しい!です」と言ってきたことがあった。まだ食べてないんだから「美味しい」と言えねえだろ、と心の中で思いつつ、いずれにせよ妙に気分が悪くなったのを覚えている。美味しそうという言葉を否定されたように感じたからだ。

ごく最近だが、これと全く同じやりとりをテレビで見た。食レポの際、レポーターが「美味しそう!」といったのを、店員がやはり「美味しそうじゃなくて、美味しい、です」と否定してた。レポータは「すみません。。」とか言ってたかもしれないが、僕はやはり違和感を覚えた。

そこで妻の意見なのだが、どうも食べ物を目の前にして「美味しそう」というのは失礼な感じがするというのである。上の二例、僕は店員に対して少しむかついたのだが、実はその前に、こちらの「美味しそう」にむかついたってことなのか?だからこちらの感想を否定する形で言い返してきた、とすれば合点が行く。

なぜ失礼なのかというと、こうである。美味しそうというのは一般に、写真で料理を見たり、話を聞いて、美味しそう、行ってみたい、食べてみたい、というふうに使うのだから、今から食べる料理を見て、そこであえて美味しそう、と口にするのは、なんか失礼というか、バカにされているように感じるのではないか、との見解。

まったく同意できない!

というか、同意というより、そんな感覚は自分には無かったというべきか。なぜなら、もし自分が料理を作って振る舞ったとして、客がその料理を見て美味しそう!と言ったら間違いなく嬉しいだろうと思うからだ。

この相違は、「美味しそう」という言葉の推量的な意味にどれほど正確なニュアンスを伴わさせているか、その個人差ということになるのか?いや、それだけか??

ここで考えを進めるために、じゃあ英語はどうよ、と考えてみる。英語で「美味しそう!」に相当する言葉はあるだろうか?と考えると、どうもいい言葉が見当たらないではないか。直訳的に作るなら。

It looks good.
looks yummy!

だろうけど、あまりそんな発言しない気がする。やはり食べてから、ナイス!って言うほうが普通か。

推量、見た目は変だとすれば、じゃあどういうのがいいだろう。彩りが素敵だったり、見たこと無いボリュームとかの感想として、

Amazing
Wonderful!

のほうがしっくりくる。食べる前に、あえて美味しそうという推量(look)はせず、まずは今体験していることの感想を言うわけだ。そして一口食べたら、美味しい!(good!!)と言えばいいわけだ。

なるほど、なんとなく日本語で料理を食べる前に「美味しそう」と言うことの違和感に関して、少し分かって来た気もするが。。

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STAP問題の個人的見解 :: 2014/06/28(Sat)

STAP細胞の問題について最近よく以下のようなコメントを求められるので(研究外の人から)、ここに自分の感想(推測)を書いてみたい。今さらという気もするが。。。


「今回の論文不正でいったい誰が一番悪いの?(誰がクロなの?)」
個人的な見解としては、悪意を持ったねつ造は存在しないと考えている。つまり、本当は存在しないと分かっているものをねつ造して、世の中をだましてやろうとか思った極悪人はいないだろう、という意味。何かSTAPらしき現象は過去に存在していて、それを小保方氏はずっと信じ込んできた。本当に存在するはずなのに、データがとれないか再現がとれなくて、だから都合のいいデータを作って、おっさんたとちとディスカッションしていたのではないだろうか。あと、彼女に想像力が欠如していて、不完全なものを世の中に公表したら、どういう結果を招くか、考えもしなかったのだろう。一方、おっさんたちは現場をおさえないままに、これまたSTAPと小保方氏を信じきっていた。巨額の研究予算や名誉に目がくらんで、正常な判断ができなくなっていたのかもしれない。なんか日本っぽいんだよな。誰も主体的に、きちんと責任をもってかかわっていない。肝心な部分は何かを信じることで逃げてきたのだろう。京極夏彦氏に小説に出てきそう。みんな何か憑いている?(涙)

「じゃあ、STAP細胞は存在しないのか?」
分からない。検証実験を待つしかない。何か面白い現象が実際に存在しているのかもしれないが、もしそうだとしても、もう一度ゼロからそれを解明するための実験を行わなければならないだろう。

「論文の審査は甘いものなのか?」
論文の査読は、そこに記載されている実験や論理的な思考のみで、その結論を導きだすことが充分だと言えるかどうか、を審査しているのであり、はじめから、「このデータねつ造しただろ?」とか疑ったりは多分しない。一種の性善説で動いているので、データの人為的操作等を見破ることは難しいだろう。インパクトのある論文ほど、多くの人の目にふれ、その結果に基づいて新たな研究が始まったりするもの。だから、データをねつ造してだまし通すことは事実上困難。だからわざわざそういうタイプの審査をしないということでもある。

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緩和ケアスタッフに心から感謝 :: 2014/02/11(Tue)

母が1月下旬に息を引き取った。

大腸がんから肝臓の転移が見つかり手術は難しいと言われ、
あと1年くらいである可能性を告げられてから、本当に約1年後のことだった。

年が明けてから急に体力が落ち、
腹部の痛みを訴えるようになってから、緩和医療内科でお世話になることとなったのだが、
この緩和ケアの看護士さん、医師の方々が本当に素晴らしい方々だった。

母に対してとても優しく、そして母の意志を尊重して接してくれるのはもちろんのこと、
私たち家族に対しても、常にまっすぐに、嘘偽りない言葉で接していただいた。

息を引き取る2週間程前に、遺影の写真や、旅立つ時に着る衣服について話をしていただいたおかげで、
素晴らしい写真、やまほどあった着物と帯の中から、最高のものを準備することができた。
おそらく、息をひきとってからばたばたしたんじゃ、こんな素敵なものを準備することはできなかった。

母が人工呼吸器などはいらないと言っていたので、最期は本当に自然に息をひきとったと聞いた。
残念ながら私はその瞬間には間に合わなかった。
しかし、個人的な意見を書くなら、どこからが生でどこからが死だとか、そんなデジタルなもんじゃないと思っている。
肝機能が下がって、意識混濁が出てきたとき、すでにもう母はゆっくりと死に始めていたんだと思う。
逆に、息をひきとった後でも、残りわずかの酸素を使ってまだ細胞はしばし機能していただろう。
だから、呼吸がとまった後だったけど、最後にかけた言葉は届いたかもしれない。そう思いたい。

普段、日常の暮らしの中で死というものを話題にすることは少ないし、
どちらかというと忌み嫌う風潮さえある。
だけど、緩和ケアの方々は、いつもまっすぐに死を意識して、とても明るく接してくれた。
はじめは何となく違和感を覚えなくもなかったが、
今はその意味がはっきりと分かる。
心から感謝申し上げたい。

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憲法改正の是非 :: 2013/07/21(Sun)

僕は憲法9条の改正には反対だ。それは、

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この条文がとても素晴らしいものであると感じるからであり、平和な国際社会の構築に寄与するためのひとつのあり方だろうと思うからである。これにつきる。

憲法改正派はこのように言うだろう。これは日本人が自分たちだけで作り上げたものではない、押し付けられたものだ、と。そして、より現実的に自国を守るための武力行使、つまり集団的自衛権の行使、海外での武力行使を可能にしなくてはいけない、そのためにも改正が必要だ、と。

しかし僕はこのようなことを言われても全く自分の考えは揺るがない。そもそも意見をつむぐための地盤が違うと感じるだけである。

この条文を日本が自ら作っていてもいなくても関係ない。あくまでその内容を考えているだけであり、それに賛同でき、意義を見いだせるかどうか、という視点で見ている。

僕は、武力の行使を強く否定している9条に賛成している。この9条が存在するせいで、中国や北朝鮮に爆弾落とされて、めちゃめちゃにされたらどうなるのか、という意見もあるだろう。それは極論ではあるが、しかしもしそうなったら、僕はそれを受け入れようと思う。人間の愚かさのはけ口が日本に向かった、その結果として。そしてその時も武力を行使して殺し合いをしに行かない。あくまで平和を守るという誇りを胸に強く持つ。マハトマガンジーの「非暴力不服従」の精神だ。

しかし、これはやはり極論だと思う。武器をかざして反撃してこない相手をこれでもかと痛めつけることは、現在の国際社会の中ではほぼ不可能だろう。むしろ、武器を持って殺し合いを始めるからエスカレートするのだと思っている。武器を手にとり領地を守るような行為は、人間の長い歴史の中で子供っぽく感じる。私たちは幼稚化するのではなく、大人にならなくてはならない。この条文が自ら作ったものでなくても、その内容は進歩的だと感じる。

一方、96条の改正の案件。改正に必要な条件の緩和であるが、これも賛成しない。改正の条件は厳しくていいと思う。その厳しい条件もクリアできるほどであって、初めて改正が可能になる、というのが正しいあり方だと思う。現状、9条改正のために総議員の三分の二以上の賛成での発議は微妙であり、国民投票で過半数が賛成するかどうかも微妙だろう。それをより安易に改正が可能になるようにする必要はないと思う。議論が成熟し、多くの国民が積極的に考えた上で何らかの意見をしっかり持った後、もしそれが必要であるのなら、今の改正条件でも自ずと改正できるはずだ。

テーマ:憲法改正論議 - ジャンル:政治・経済

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リフォーム途中経過・オーディオセッティング :: 2013/04/29(Mon)

引っ越しも完了し、段ボールもかなり片付いて、ひとまず「住まい」らしくなってきた。しかしまだ届いていないものや完成していないところも。




写真右奥の木の扉は、手前は押し入れで、奥は書庫になる予定だが、まだ書棚が届いておらず、片付けきれていない段ボールが隠してある。

手前のダイニングテーブルは、妻と二人で倉庫まで行って木材を選んで、職人さんに作っていただいた。無垢のニレ材。木は生きている。届いてからまだ日が浅いのに、環境が急に変わったからか、もうひび割れがあちこちできてきた。もちろん事前に教えてもらっていたことなので想定内。数年たって落ち着いた頃に、一度補修していただけるらしい。こういう時間スパンが素敵。

ダイニングチェアが二脚、それとリビングチェアがまだ届いていない。これらはリッツウェル。値段は高かったが、とても気に入ったし、一生ものだと思って。

http://www.ritzwell.com/concept/index.html

ソファの張地を暗めのものに変更予定とのこと。あと、お揃いでスツールもやってくる(らしい)。

左のコーナーに背の高い植物を置く予定。何を置こうか決められない。

リビングのカーテンはひだ無しで、左右スライドするようなものになる予定。こちらもまだ届いていない。

こんな具合で、まだにぎやかになります。



学生時代にバイトして買ったオーディオもインテリアとして活用。SANSUIのAU-α607MRはまだまだ現役。最近、CDプレイヤーが壊れてしまったので、今回の引っ越しに合わせて、ONKYOのCR-555を購入した。ふたつのアンプを、Luxman AS-5IIIに接続し、ひとつのスピーカにつないでいる。ボタンひとつで瞬時にONKYOとSANSUIが入れ替わるので聴き比べるのが楽しい。現代のJPOPやROCKはONKYOがバランスがいいけど、ジャズやクラシックはやはりスケール感でSANSUIの勝ちだ。また、ライブDVDのような音源もSANSUIがいい。古くなってもいいアンプだ。まあ、価格帯が違うけど。

スピーカーは、これまた長い付き合いのパイオニアのS-UK3。20年の時を経て、本当にまろやかにいい音を出している。変わったスピーカーで、2wayなのだが、クロスオーバーの周波数が高く、1wayのような鳴り方をする。イギリスのスピーカーだけあって、うちにあるCDの中ならベタだけど、古い音源、ビートルズとか、すこぶる雰囲気がいい。ナットキングコール、スタンドバイミーのサントラもこのスピーカーに合っている。

全く合わないのは、、、東京事変とか。涙

テーマ:住まい リフォーム - ジャンル:ライフ

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トリノ2〜食〜 :: 2012/07/15(Sun)

イタリア料理は日本の一般大衆に受け入れらていると思う。パスタやピザやリゾットを知らない人はいない。スーパーマーケットにも輸入のトマト缶や、オリーブオイル、パスタも各種そろっていて、クリーム系やバジル系や、いろんなパスタソースも売られている。イタリア料理は日本の食文化と喧嘩してはいないようだ。

しかし一方で、こんな話も何度か聞いたことがある。それは「海外旅行でイタリアに行って本場のイタリアンを食べたんだけど、あまり美味しくなかった。。。」という談話。具体的には「パスタに芯が残ってた」とか、「味がしなかった」とか「しょっぱすぎた」とか、いろいろ。逆に本場のイタリアンは本当に美味しかった!!という意見の方が聞いたことがないのである。しかし、これらの意見は例外無く観光地。っていうか当たり前だ。イタリアに観光以外で行く機会は少ないだろう。ましてや、パッケージツアーなどに参加するなら、連れて行かれるレストランが素晴らしいという保証はない。

今回は、とりわけ観光地ではないトリノのみの訪問。イタリアにまで行きながら、ミラノにもフィレンツェにも、ヴェネチアにもローマにも行けなかった。それにしても、日本で売られているイタリアのガイドブックはひどい。ほとんどの本でトリノは掲載されていない。実際に、観光客は少ないように感じたし、少なくとも日本人観光客など一度も見なかったように思う。

かように、決して大観光地ではないトリノだが、実は料理は期待できると踏んでいた。フランスの影響を多分に受けているこの地域。ピエモンテ。トリュフやポルチーニの大産地であり、乳製品や加工・薫製肉類も種類豊富。フィアットのおかげで工業地域と思われがちだが、一歩郊外に出ると、堆肥のかぐわしい香りがどこまで続く、見渡す限りの畑、畑、畑。そして何を隠そう、あのワインの王と称されるバローロが生まれる地でもある。あれほどのワインを生む地域なのだ。ワインと共に進化してきた「料理」が存在しないわけがない。そしてそんな料理を生む地域に住む人々は、そういう料理の世界を必ず知っている。イタリア人は故郷を大事にするから、きっと皆、ピエモンテを誇りに思っているはずだ。その中に、料理やワインが入っていないはずがない!(と僕は勝手に思った。)

前置きが長くなってしまったが、そんなわけで食にはおおいに期待してトリノにいどんだ。そして結果は、、、


「素晴らしい!!」


美味しくないものを探すなんて無理でしょ?というほどに1週間全て当たりだった。それは安いレストランでもそう。少しばかり値の張るレストランでもそう。安いスーパーマーケットでもそう。学会会場のランチや軽食もそう。ホテルの朝食もそう。複雑で凝ったものはなく、素材のよさがそのままストレートに出ている料理ばかり。ほどよい塩加減。オイルの香りがよいからまた困る。

そしてワインも美味しすぎます。昼から飲み続けることになったが(これは想定内)、暑い日中に飲むよく冷えた白ワインは最高。残糖を少し感じるフレッシュでドライな白ワインが多かった。炭酸も少し感じる。デキャンタで持ってくるのでどんなワインなのか詳細はほとんどの場合不明。値段は確実に水より安い。500mLで 2.5ユーロくらいのレストランもあったと記憶している。




シチリア風リゾット。ムール貝の中身がでかくて、しかも極めて美味しい。見た目は豪快であまり美しくないけども、味は日本人受けするタイプだと感じる。すなわち、アミノ酸が豊富というか、そういう感じ。。。




こちらは、「アンチョビのパスタ」と言っていたと思うが、出てきたものは「イワシのパスタ」だった。フレークのようになったイワシの身が入っている。本当にアンチョビなんだろうか?臭みはなく、イワシの美味しさを堪能できた。




オリーブとトマトとツナのパスタ。よく冷えた白ワインに合います。盛りつけはやはり豪快。




これはsocial dinnerでの一皿。ラビオリだけど、オイルの香りが素晴らしく印象に残った。ソースは無く、茹で上げたラビオリにオイルとチーズをかけただけだと思われる。




野菜とイカのフリッター?これまた野菜が美味しくてたまらない。イカも普通に美味しい。ほんのかるく塩味がついているように思われたが、基本何もかかっていない。レモンが添えられていたのと、あと巨大なバルサミコ酢が瓶のまま登場して、これをかけろと言うので、かけて食べた。グー!!




ピザは二度食べたがどちらもとても美味しかった。写真の手前の方の黄色っぽいのはアーティチョーク。どう説明していいものか、、、焦げて炭になっている場所まで美味しく感じてしまう。生地の食感、もちもち感も最高。かむ程に味がする。




これもsocial dinnerでの一皿。マス?だろうか。素揚げのマスにビネガーソースがかかっている、このビネガーが鼻にきゅんと来る強さ。しかしながら、これがどうしてやはり美味しい。参った。




トリノではおおむね白ワインだったけども、一度だけレストランで飲んだ赤ワインがこれ。バルベーラ・ダスティ。果実味に溢れ、なかなかに素晴らしい芳香。最初強めの酸を感じたけど、次第に気にならなくなり、旨い旨いを連発してしまった。social dinnerで出たネッビオーロ種の赤ワインよりもこっちの方が美味しいと感じた。バルベーラ種は初めて飲んだのだけど、日本で見かけたら、是非買って飲んでみたい。


トリノは自動車の街でもあり、また食の街でもあった。

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代官山T-SITE :: 2011/12/16(Fri)

「代官山T-SITE」、とても気になる商業施設だ。

****

レンタルソフト店「TSUTAYA」を展開するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)は12月5日、東京・代官山に商業施設「代官山T-SITE」をオープンした。

(中略)

増田宗昭社長の資産管理会社が投資したもので、金額は明らかにしていないが、CCCにとっては「10年に1度の大規模な事業」(関係者)という。にもかかわらず、オープニングイベントを行わないどころか、対外的な公表もほとんど行っていない。

大型書店にもかかわらず、コミックや参考書などの学生向けの書籍はほとんど置いていない。一方で、雑誌は国内外あわせて2300種類に上り、また、旅行、料理、クルマといった趣味の分野や、アート、建築、哲学、歴史、宗教、文学などの書籍を充実させている。音楽フロアには、従来の店舗では少なかったジャズ、クラシックが多数あり、映画フロアでは、DVD化していない映画をDVDにプレスして販売するサービスも行うなど、細かなニーズにも対応する。

(後略)

http://news.goo.ne.jp/article/diamond/business/2011121601-diamond.html

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20111216-00015363-diamond-bus_all

****

このニュースの本文において、「このような新業態に乗り出した背景には、少子高齢化への危機感がある。」と書かれているが、本当だろうか? これは書き手の推測ではないだろうか、と僕は思った。

本家ウェブサイトを見てみたのだが、こちらには違うことが書かれてある。「開業当時に抱いた夢と向き合った結果」だと。開業したのは30年も前のことである。少子高齢化とは無縁の時代だ。

http://tsite.jp/daikanyama/

僕は「開業当時に抱いた夢」のほうにとても共感できるし、そのとおりなんじゃないかと推測する。一時的な流行に迎合したり、「必然」という名の流れを読み切ることで利益を上げようというのではない。ひとりひとりのオリジナルな要望に対して心からのサポートを行い、さらに自らも新しいものを提案していきたい。そういう意思を感じた。

日本人のいわゆる「大人」がこのようなものを求めているのなら、少子高齢化時代を見越した投資かもしれないが、実際そんなことはないんじゃないだろうか。日本では、アートや建築や哲学や歴史や宗教等の専門書を求めている人は決してマジョリティではない。にもかかわらず、多額の投資を行いこのような店舗を展開しようというのだから、高齢化社会への危機感などという狭い話とは思えない。高齢化社会を精神的に豊かに生きて行くための一種の「提案」であり、それを成功させることで利益を得たいと考えているのだと僕は思う。

このような場所は日本には少ない。だからこれは、市民の中に潜在的には存在しているかもしれない「欲求」を想定した新たな市場の開拓でもある。資金力のある企業にしかできない。客層が比較的富裕層に偏りそうで心配だが、誰もが立ち寄りやすい心地いい場所であってほしい。

実は今、関東圏にいるのだけど、時間がなくて今回は立ち寄ることはできなさそう。次回、チャンスがあれば一度訪ねてみたいと思うし、地方都市にも是非展開してほしい、というのは僕のささやかな要望だ。


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日本語の変化か、ただの誤用か :: 2011/09/21(Wed)

言葉は時代とともに変化していくものだろう。卑弥呼の時代の日本語と、現代の日本語では相当に違う。人々の価値観や考え方の変化と共に、また他言語からの影響を受けながら、言葉はゆっくりと変化している。


「ら抜き」言葉が、最近また話題になっていた。

****


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110915-00000613-san-soci

(前略)

 言葉の使用を聞く項目では、「食べられない」と正しく使用しているのは全体では60・2%だったが、16~19歳は58・8%が「食べれない」と間違って使用していた。「来られますか」(正)と「来れますか」(誤)についても、50代以上は正しく使えている割合が上回ったが、40代でほぼ同数、30代以下では誤った使用が上回り、16~19歳では73・8%が間違った使用をしていた。

(中略)

 言葉の意味の調査では、「姑息(こそく)」の本来の意味の「一時しのぎ」と答えたのは15・0%にとどまり、7割が間違った意味の「卑怯(ひきょう)な」としていた。「雨模様」の意味でも16~19歳の62・5%、60歳以上の53・3%が「雨が降りそうな様子」と正しく答えたが30~50代の半数以上が本来と違う意味で回答した。

(引用ここまで)

****

「ら抜き言葉」はもうほとんど定着していると感じる。意識していないと、相手がらぬき言葉を使っても、たいして違和感を覚えない。文法なんてものは物理法則のように絶対的なものじゃないので、人が変われば変わってしまうし、例外はいくらでも生まれるものだ。

さてしかし、大問題なのはニュース記事の後者の方だ。らを抜いたとしても、意味が通じればコミュニケーションに問題はない。しかし同じ言葉が逆の意味になったり、まるで意味が変わったりすることが現代ではよくあって、互いに違う意味で捉えていたら健全な会話が成り立たなくなる可能性がある。ニュースに出ていたものも含めて、ざっと書いてみる。。。



・雨模様
雨が降りそうな様、雨が降りそうなきざしを意味する。雨が降っている状態のことではない。しかし、この言葉は厄介だ。漢語で「模様」に「兆し」という意味はないはずで、これは過去の日本人が斬新なニュアンスを加えて加工したせいだろうか。「今日は朝からあいにくの雨模様」などと言われたら、雰囲気としてはもう降っている感じがしてしまうものであるから、非常に難しい。

・姑息
卑怯やずるいという意味は全くない。その場しのぎのニュアンスの言葉だ。「姑息なやつだ」と言ったら、「その場しのぎが上手いやつ」という意味になるだろうか。いやそもそも姑息は人にではなく、行為にかかるべきもので、「姑息な手段」とは言っても「姑息な人」とは言わないのかも。「姑息な人」と言う場合、既に卑怯の意味で使っている気がする。それにしても、まったく卑怯という意味ではない言葉が勝手にそのような意味に転じるというのは本当に悲しい。ずるい人(卑怯だと感じる状況)が多いということじゃないだろうか。それともその場しのぎをする人に卑怯な人が多いのか?「卑怯」というのはけっこう過激な言葉なので、社会は別のマイルドな、でも卑怯と同じ意味合いの言葉を欲しているのか!?

・気が置けない
気遣いする必要のない親しい間柄の意味だが、これを真逆の意味で捉えている人がいる。しかし、直感的にこの言葉は確かにマイナスの雰囲気がする。否定の「ない」が入っているからだ。言語学者に怒られるかもしれないが、成り立ちとしていい言葉じゃないように感じる。それと、やはり「姑息」と同じで、悪い意味に勝手に転じているのが気になる。信用できない人がそんなに多いのか。。。

・いそいそ
これは、心が浮き立ち喜ぶ様、動作がはずむ様子を表す言葉。いそいそと出かける、は嬉しそうに出かけていく様子を言うのだが、これを「忙しそうに」「せわしなく」と誤解している人がいる。「いそ」を「忙しい」とかけたのだろうか。これもネガティブな意味としての誤用だ。そんなに嬉しいことが少ないのか、そしてせわしないことばかりなのか。。。ま、確かに。涙

・さわり
「どんな話なの?さわりを聞かせてよ」などと使うが、これを導入部分とか、ちょっとだけ、軽く、と誤用されている。「歌のさわり」というと、出だしのことだと思われているが、本当は「最も盛り上がる部分」「重要ポイント」のことを指す。だから意味を正しく理解している人が上の質問に答えたら、「要するに犯人はAで、救いようのない悪人だったってことが最後にばれるんだよ」などと、これ以上ないネタばれが起きる可能性がある。(笑)「さわり」が「触る」、つまり「ちょっと触れる」のようなイメージになっているのだろうか。しかし、そんな中途半端なことはやめて、中身の濃い話をしたいものだ。最初だけちょっと聞いても面白くないだろう。歌は出だしもいいけど、やっぱりサビ、でしょう!?

・すべからく
「タバコをすったやつはすべからく退学だ!」と生活指導の体育教師が言ったとして、その意味は「タバコを吸ったやつは全員退学だ」の意味ではない。すべからくは「すべて」の「すべ」とかぶっているので、そのように誤解されるようだ。本当の意味は「当然そうであるべき、必然的にそうなる」という意味。だから「喫煙した者は当然退学処分だぞ」という意味が正しい。前にネットで「政治家はすべからく馬鹿だ」と書いていた人がいた。言いたいことは分かるけどこれは誤用。そもそも、「すべからく」は「べし(べき)」とセットで使うのが本来の用法。なので「政治家はすべからく(当然)馬鹿であるべきだ」というべきで、そうすれば間違いだと気づくことができる。

・しおどき(潮時)
これを引き際の意味として使う人がいる。もうあきらめましょう、という時、「しおどきだな」などと使うのだが、これも間違い。本当の意味は、最適なタイミング、もっともよい時期、という意味が正しい。そういう意味では、いろいろな状況を加味して、今あきらめるのがベストのタイミングなら、「しおどき」を使ってもいいのかもしれないのだけど、なんて冷静な後ろ向きの姿勢。(笑)もしくは、まだやろうと思えばやれるんだけど、まここいらでやめとくのが波風立たなくて無難でいい、という感じで使うこともある気がする。いや、そういう状況をベストのタイミングと皆思っているってことか!?いずれにせよ、これもネガティブな意味への誤用。

・役不足
正しくは、本人の力量に対して、仕事の内容が簡単すぎる、役割が軽すぎる、という意味。しかしこれを、「力不足」と同じ意味で使う人が多いようだ。つまり本当の意味の逆で、「役割に対して力量が足りない」という意味への勘違い。これもやはり、ネガティブな方向への誤用じゃないだろうか。なんで「役」が、自分の力の意味に変化してしまうんだろうか。。。

・情けは人の為ならず
これも誤用の言い回しとして有名だ。「人に親切にするのは、その人の為ではなく、そういう行為が巡り巡って自分に返ってくるから、親切にするのだ」という意味。利他主義というものは社会ではなかなか存在できないのであるから、これはとてもクールで現実主義的なことわざだと言える。しかしながら、これを「人に親切にしても、その人のためにはならないから、親切にすべきでない」というような意味で勘違いされているらしい。これも残念ながらとってもネガティブな意味への誤用だ。理由はともあれ、正しい意味では人に親切にすることを肯定しているのだけど、誤用ではそれを否定し、親切にしないほうがいいと言っている。


このようにまとめてみると、ネガティブな方向への誤用がかなり目立つ。ポジティブな方向への誤用はほとんど見当たらない。現代日本の世相を映しているのかもしれない。だとするととても残念である。

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やらせという営み :: 2011/09/04(Sun)

問題の本質は、やらせという行為の方ではないと僕は思う。私たちがひとりひとり考えて言葉を公に発するということに対して前向きでない、という日本人の気質こそが問題ではないだろうか。誰も意見しない状況で物事を大きく動かす時、意見を持つ者がやらせという手法を使う。


九州電力のやらせメール問題。北海道電力でも最近噂となっているが。。。。

詳細はこちら。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E9%9B%BB%E5%8A%9B%E3%82%84%E3%82%89%E3%81%9B%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

原発事故という国家的一大事の最中だけに、きわめて由々しき問題として報道された。しかしながら「やらせ」というもの自体、日本ではとりわけ珍しいことでもなんでもない。

重要な事項は会議ではない場所で既に決まっていている、なんてこと、サラリーマンなら感じている人は多いだろう。議論しているように見えて、実際は決定事項の全体承認を得るためだけの場なのである。株主総会もしかり。

やらせの定義は難しい。「やらせ」は、事前に作為的に何らかの状況や事象を作り出し、それをさも自然とそうなったと見せかけるような行為をさすのだろうか。多くの人が「わざとやっている」と分かっている場合は「やらせ」とは言わないのか、多くの人がだまされている場合こそが「やらせ」なのか、ここはグレーゾーンで難しい。多くの場合、だまされている人もいるかもしれないけど、うすうす気づいている、もしくはありえることと承知している人もいるだろう。

僕が大学院の博士課程に在籍していた頃、こんなことがあった。海外から著名な研究者を招いて、研究室内でセミナーが開催された。そもそも日本の学生は(僕も例外ではなかったが)、あまり積極的に発言しない。しかもセミナーの言語は英語。多くの学生がいるにも関わらず、セミナーの後の質疑応答(ディスカッション)の時間に沈黙が産まれることは容易に予想できた。そんな時、教授はセミナーが始まる前に博士課程の学生全員を呼び出し、「君たちはひとりひとつ以上質問をしなさい。絶対必須です。私は何も質問しませんから、いいですね!」と、ずばり「仕込み」を行ったのである。といっても質問内容は自分で考えて英語で質問しなくてはいけないのだから、教育的仕込みでもある。学生側も、本当はいろいろ質問して活気のある議論の場になることが素晴らしいと頭では分かっているので、教授のこの一種の命令は、そんな頭の中にある理想を実現するための強力な触媒となった。

結果、セミナーの後の議論の時間には多くの質問が出た。しかも、1個質問すると気持ちがリラックスするので、次々に質問できてしまうのだ。活発な議論の時間が長く続き、この手の典型的なセミナーとしては異例の活気ある時間となった。話を聞くだけではよく分からなかった様々な苦労話や裏事情なども質問によって明らかになった。なるほどと思うことも多かった。これこそが「有意義な時間」というものだ。

しかし、よくよく考えてみると、やはり一種の「やらせ」なのである。もちろん質問内容まで規定されているわけではないが、質問するように明確に指示されて質問したわけである。その指示がなかったら、誰も一線を超えることができず静まり返っていたかもしれないのだ。海外のその方は、そんな指示があったとはよもや想像できなかっただろう。だからだまされたのである。しかしこの「やらせ」はやらない方がよかったとは思えない。マイナスの要素が見当たらない。

やらせとは、事前に作為的に何らかの状況や事象を作り出し、それをさも自然とそうなったと見せかけるような行為をさす。

このセミナーの例ならば、活気ある議論の場を作為的に作り出したことになる。しかし、活気ある議論は存在すべきだし、それこそが正しいセミナーの姿だと誰もが同意しているから、問題ない。しかも議論の内容まで作られているのではないから、その点は健全である。

一方、今回の原発やらせメール事件はどうだろうか。原発再始動を望む声はけっこうある、ということを作為的に作り出そうとしたのだろう。もし、原発再始動を望む声はけっこうあるはずだ、と誰もが思っているなら、全く問題になることはない。しかし、全くそうではないから大問題だったのだ。ただ、こんなニュアンスを考慮するとどうだろう。つまり、再始動してほしいという考えの社員に対して、上層部が躊躇せずにそのように書けと促した側面はなかったのだろうか。社員だって一市民なのだ。僕は現場を知らないので、これ以上踏み込むことはできないのだが、なんとも微妙だ。


問題の本質は、やらせという行為の方ではないと僕は思う。私たちがひとりひとり考えて言葉を公に発するということに対して前向きでない、という日本人の気質こそが問題である。ひとりひとりが言葉を発することが当たり前になれば、セミナー前に教授が質問するようにと指示する必要などない。九州電力関係社員は自ら再始動が必要であることの論を構築し意見するはずだし、そもそも一般市民が原発再始動に反対の意見を各々積極的に投書すれば、電力会社関連社員の意見の数は誤差程度になってしまうかもしれないのだ。

私たちはじっと動かず眺めているのだ。そして、物事を思い通りの方向へ動かす時、やらせというやり方に依存しているのである。物事が思い通りの方向に動かない時、それを阻止するために、やらせを見つけて批判するという方法に依存している。いずれも、ひとりひとり考えてそもそもの問題に対する意見を公に発しなくても済む方法だ。日本人の気質が変わらなければ、この状況は変わりえないだろうと感じる。

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原子力発電に思うこと :: 2011/07/23(Sat)

僕は原子力発電に依存するエネルギー体系に賛成ではない。

僕は現代の大量消費社会、右肩上がりの経済成長にのみ社会的幸福の尺度を置くことに問題を感じている。現代では、安いものを工場で大量に作り、すぐに使い捨てて新しいものを買ってしまいがちな社会である。そうではなくて、もっと寿命の長い「いいもの」を人手を使って作り、それらに人々が価値を見いだし、相対的に高いお金を払って購入し、大切に愛情をこめて長い時間使う、そういう価値観がもっと社会全体に浸透したら素晴らしいだろうと思っている。職人さんの地位は上がり、そこにお金が投資され、いいもの(長持ちするもの、扱いやすいもの、オーダーメイドのようなスタイル、等・・・)はもっとたくさん産まれてくるはずだ。

こんな経済の回転が実現すれば電力消費量は大幅に減るのではと思う。その時原子力発電を導入しなくても電気をまかなえるようになったらいいと思うし、自然エネルギーによる発電技術ももっと効率的になればいいと思う。

なぜ原子力発電を導入したくないかと言えば、それは原子力発電には明らかに大きなリスクがあり、それを完全にコントロールすることは難しいのじゃないかと僕は感じるからだ。

原子力発電は、人為的ミスにしろ災害にしろ、事故が起きると広範囲の放射能汚染を引き起こすということ、そしてもし事故が起きなくても延々と放射性廃棄物が生み出されることになり、日本はこれを埋める場所もなければ再利用するための確実な技術確立もまだなされていない。これらは原子力発電そのもののリスクだ。これにプラスして、日本人の性格もリスクを増大させるように感じる。危機管理のシステム作りが上手ではない。客観的で正確な情報を共有する類いのコミュニケーション能力も低い。予想外の問題への対処がうまくいかないかもしれない。これは私たち日本人の気質の問題だ。さらには、日本が世界有数の地震国であるというのも同様にリスクを増大させる。これらすべて含めてリスク管理しなくてはいけないのだ。

それでもなお原子力発電にメリットや魅力があるだろうか。おそらく「ある」と答える人はそこそこいるのだろうと推測する。ふたつほど考えてみた。

例えば、「たくさん電気を作って、コストを下げたものをたくさん作って、がんがん消費して・・・」なんて考えの持ち主なら、原子力はいい選択肢なのかもしれない。国の発展と幸福のためには必要なことだと考えているわけで、なんとかリスク管理しようと挑むに値するものとなるのだろう。事実、国は原子力産業に莫大な投資をしてきた。

それから、原子力という純粋な魅力というのもあるかもしれない。実際の原子力の基礎研究や技術研究に対して興味を持って行っている人たちの中にはこんな魅力もあるだろう。もしくは、一般の人であっても、何か途方もなく巨大なものに魅力を感じたり、コントロールできないものをコントロールしようとか、危ない橋だからこそ渡りたいというような人間の知的好奇心や冒険心やそういうものが働く場所である。原子力はそういう心を惹き付けるものでもあるだろうと感じる。


今回の原発事故を機会に国は今後のエネルギー政策に対して大きな舵取りを迫られている。しかし舵取りする場所の近くにはおそらく原発推進の力がかかっている人が多いのじゃないだろうか。だからこの問題に関しては政治家が主導的に舵をとるのではなく、国民投票を実施するべきだと僕は思う。ただ、市民ももっと日頃から原発に対していろいろ考え、意見を交換し合うような風潮が生まれてもいいと思うのだが。


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