日本について考えるブログ




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夫婦同姓は合憲だと最高裁 :: 2015/12/19(Sat)

僕は、選択的別姓は早く導入したほうがいいと、ずっと思っている。
しかし国会で審議する気配は、特にここ最近は皆無だった。

別に別姓を強要するんじゃなくて、別姓か同姓か選べるようにするってんだから、それが最善だと思うけどね。
同姓じゃなきゃだめって言っている人間は、自分たちだけじゃなくて、国民みんな同姓じゃなきゃだめと思っていて、
別姓派は皆が別姓じゃなきゃだめって言っているわけではないのがポイント。
噛み合っていない。
これは、一種の個人主義と全体主義の対立に他ならないのだ。

しかし、今回の合憲判断に真っ向から異を唱えるのは、実は難しいとも思った。
同姓にする際に、どちらか選べることになっており、それで平等が成立している。
さらに、結婚したら同姓にするという感覚が、日本社会の慣例や文化の中に存在するからだ。
現実的には平等ではないのだが、(女性が変更するのが当たり前という社会常識のため)
憲法がどこまで現実の状態をフォローするか、ということになるだろう。
それは各裁判官にゆだねられていたことでもあり、
今回は5人はフォローしたが、10人はフォローしなかった。
結果、合憲。

今回の裁判、趣旨を変えて、
事実婚の人間が法的な婚姻を行えないのは違憲だ、という切り口だったらどうだったかな。
つまり、何らかの理由で、別姓にしたい、せざるをえない場合、
同姓を規定する現在の法律では、法的婚姻の権利が剥奪されているのと同義であり、
これは違憲だろう。と僕は思うのだが。
事実婚でも相続権が認められるなどの判例が出ており、
法律婚と同じ扱いとなってきている。
ならばなおさらだ。

今回の裁判は、結婚した人間にも別姓を認めろ、という切り口だったから、
同姓規定はしかし合憲、となってしまった。
そうじゃなくて、別姓の法的婚姻を認めないのは違憲、
を狙うべきだった!?どうでしょう。


ところで、今回の判断の中で、裁判長は、
「夫婦別姓の裁判について、「司法の場での審査の限界を超えており、
民主主義的なプロセスにゆだねることがふさわしい解決だ」として、
国会で議論されるべきだという考えを重ねて示しました。」
とある。

国会が審議しないから裁判起こしたのに、
また国会で議論しろとは、たらい回しもいいところだが、
この意見が少しは国会に届くことを祈りたい。



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テーマ:社会ニュース - ジャンル:ニュース

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女「車のエンジンがかからないの…」の創作 :: 2015/06/28(Sun)

かなり前に書いた以下のエントリーだが、今になっても時々コメントが来る。

http://erisabeth.blog123.fc2.com/blog-entry-480.html

以下はオリジナルの会話のサンプル。



女『車のエンジンがかからないの…』
男『あらら?バッテリーかな?ライトは点く?』
女『昨日まではちゃんと動いてたのに。なんでいきなり動かなくなっちゃうんだろう。』
男『トラブルって怖いよね。で、バッテリーかどうか知りたいんだけどライトは点く?』
女『今日は○○まで行かなきゃならないから車使えないと困るのに』
男『それは困ったね。どう?ライトは点く?』
女『前に乗ってた車はこんな事無かったのに。こんなのに買い替えなきゃよかった。』
男『…ライトは点く?点かない?』
女『○時に約束だからまだ時間あるけどこのままじゃ困る。』
男『そうだね。で、ライトはどうかな?点くかな?』
女『え?ごめんよく聞こえなかった』
男『あ、えーと、、ライトは点くかな?』
女『何で?』
男『あ、えーと、エンジン掛からないんだよね?バッテリーがあがってるかも知れないから』
女『何の?』
男『え?』
女『ん?』
男『車のバッテリーがあがってるかどうか知りたいから、ライト点けてみてくれないかな?』
女『別にいいけど。でもバッテリーあがってたらライト点かないよね?』
男『いや、だから。それを知りたいからライト点けてみて欲しいんだけど。』
女『もしかしてちょっと怒ってる?』
男『いや別に怒ってはないけど?』
女『怒ってるじゃん。何で怒ってるの?』
男『だから怒ってないです』
女『何か悪いこと言いました?言ってくれれば謝りますけど?』
男『大丈夫だから。怒ってないから。大丈夫、大丈夫だから』
女『何が大丈夫なの?』
男『バッテリーの話だったよね?』
女『車でしょ?』
男『ああそう車の話だった』





ネット上では多くの人が女に嫌悪感を覚えているようなんだけど、僕は全く逆で男に問題ありとしか思えない。女は用があるのに急にエンジンがかからなくなった車を前に、軽くパニックになっているか、もしくは計算高く男に送って行かせようと思っているのか、そんなところだろう。それに比べて、原因がバッテリーかどうかを6回も問い続けている男の方が気持ち悪い。しかも、「トラブルって怖いよね」「それは困ったね」とか口だけで、本当にそう思って言っているようにも思えない。

後半は、男がいらいらしていることに気づいた女性が攻勢をしかける。男性はたじたじで、本当は怒っていたんだろうけど、怒ってないとか繕ってしまって、さらに泥沼に落ちて行く。

女も女でどうしようもないけど、男のあまりの融通のきかなさとコミュニケーションの稚拙さのほうがどうしても目立ってしまって、僕は女より男の方におおいに違和感を覚えるのだ。

しかも、バッテリーかどうか分かったところで、どうにもならんだろうとも思うし。だって、用事にはきっと間に合わないでしょ?

しかし世の中、おそらくネット上の男どもだと思うが、女って困った生き物だというような感想で溢れている。もっと、「男ってこんなに酷くないぞ。誰だこれ作ったの?」って怒るやつがいてもいいと思うに、見つからない。僕は、この会話ではそれくらい男がダメダメに描かれていると思うのだけどね。気づかないんだろうか。

そこで、この会話の男のパートを入れ替えて、もっとこう、女と対等にやり合えるしっかりした男、をテーマに独自創作してみたんだけど、いかがだろうか。。。笑うところあり、で見ていただけるとありがたいですね。以下に4つほど。女性の方はどの男性がタイプでしょうか。。。一番誠実そうなのは?


ストレートな男編:
女『車のエンジンがかからないの…』
男『まじ?バッテリーかな?ライトは点く?』
女『昨日まではちゃんと動いてたのに。なんでいきなり動かなくなっちゃうんだろう。』
男『おい!俺の話を無視するな。バッテリーかどうか知りたいから、ライトを点けてみてくれって言ってんだよ』
女『今日は○○まで行かなきゃならないから車使えないと困るのに』
男『だから車を直さないと困るんだろ?聞こえてんの?』
女『前に乗ってた車はこんな事無かったのに。こんなのに買い替えなきゃよかった。』
男『ほらみろ。だから俺はやめろって言ったんだ。日本車が一番なんだから』
女『○時に約束だからまだ時間あるけどこのままじゃ困る。』
男『タクシーで行け』
女『え?ごめんよく聞こえなかった』
男『だから、俺は忙しいんだから、送って行けない。タクシーで行け。で、今日の夜に車見てやるよ。』

欧米の男性タイプ編:
女『車のエンジンがかからないの…』
男『なんだって!?それは困ったね。バッテリーかな?ライトは点く?』
女『昨日まではちゃんと動いてたのに。なんでいきなり動かなくなっちゃうんだろう。』
男『落ち着いて。君は何も悪くないよ』
女『今日は○○まで行かなきゃならないから車使えないと困るのに』
男『ああ、そう言ってたね。どうしよう。バスや電車じゃ無理な場所だからね。本当に困った』
女『前に乗ってた車はこんな事無かったのに。こんなのに買い替えなきゃよかった。』
男『まったくだ。今度一緒にディーラーに文句を言いに行こう』
女『○時に約束だからまだ時間あるけどこのままじゃ困る』
男『予約は明日に変更できないの?』
女『え?ごめんよく聞こえなかった』
男『あー、、うんよし。分かった。僕が送って行ってあげるよ。今から行くから待ってて。』
女『何で?』
男『君を愛してるからさ』

ぶっ飛び編:
女『車のエンジンがかからないの…』
男『それは困ったね。バッテリーかな?ライトは点く?』
女『昨日まではちゃんと動いてたのに。なんでいきなり動かなくなっちゃうんだろう。』
男『それは昨日車を止めてから今までの間に何か原因となる事が起きたからだな』
女『今日は○○まで行かなきゃならないから車使えないと困るのに』
男『ヒッチハイクで行くってのはどう?』
女『前に乗ってた車はこんな事無かったのに。こんなのに買い替えなきゃよかった。』
男『しょうがない。安かったんだから』
女『○時に約束だからまだ時間あるけどこのままじゃ困る。』
男『そのとおりだね。このままじゃ困るね。何か行動を起こさなきゃいけないよ』
女『え?ごめんよく聞こえなかった』
男『ヒッチハイクで行くのはどう?』
女『何で?』
男『何でって言われても。僕ならそうするかなあ、と思って』

イライラ限界編:
女『車のエンジンがかからないの…』
男『あらら?バッテリーかな?ライトは点く?』
女『昨日まではちゃんと動いてたのに。なんでいきなり動かなくなっちゃうんだろう。』
男『まてよ。現代の車でバッテリー突然死は無いか。。。まだ新車同然だしね。』
女『今日は○○まで行かなきゃならないから車使えないと困るのに』
男『まさか、Dレンジに入ったままってことはない?』
女『前に乗ってた車はこんな事無かったのに。こんなのに買い替えなきゃよかった。』
男『ないか。。。じゃあ、キーをひねって、キュキュキュって音は出る?』
女『○時に約束だからまだ時間あるけどこのままじゃ困る。』
男『おい!俺の言うこと聞けよ。』
女『え?ごめんよく聞こえなかった』
男『はあ。。お前と話してると疲れるわ』
女『何で?』
男『お前が話聞いてくれないから』
女『何の?』
男『俺の話をだよ』
女『ん?』
男『車のバッテリーがあがってるかどうか知りたいから、ライト点けてみてくれないかな?』
女『別にいいけど。でもバッテリーあがってたらライト点かないよね?』
男『まだ分かんないだろ』
女『もしかしてちょっと怒ってる?』
男『怒ってるよ』


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女性より男性が身勝手で感情的? :: 2013/01/13(Sun)

http://galasoku.livedoor.biz/archives/3694944.html

女『車のエンジンがかからないの…』
男『あらら?バッテリーかな?ライトは点く?』
女『昨日まではちゃんと動いてたのに。なんでいきなり動かなくなっちゃうんだろう。』
男『トラブルって怖いよね。で、バッテリーかどうか知りたいんだけどライトは点く?』
女『今日は○○まで行かなきゃならないから車使えないと困るのに』
男『それは困ったね。どう?ライトは点く?』
女『前に乗ってた車はこんな事無かったのに。こんなのに買い替えなきゃよかった。』
男『…ライトは点く?点かない?』
女『○時に約束だからまだ時間あるけどこのままじゃ困る。』
男『そうだね。で、ライトはどうかな?点くかな?』
女『え?ごめんよく聞こえなかった』
男『あ、えーと、、ライトは点くかな?』
女『何で?』
男『あ、えーと、エンジン掛からないんだよね?バッテリーがあがってるかも知れないから』
女『何の?』
男『え?』
女『ん?』
男『車のバッテリーがあがってるかどうか知りたいから、ライト点けてみてくれないかな?』
女『別にいいけど。でもバッテリーあがってたらライト点かないよね?』
男『いや、だから。それを知りたいからライト点けてみて欲しいんだけど。』
女『もしかしてちょっと怒ってる?』
男『いや別に怒ってはないけど?』
女『怒ってるじゃん。何で怒ってるの?』
男『だから怒ってないです』
女『何か悪いこと言いました?言ってくれれば謝りますけど?』
男『大丈夫だから。怒ってないから。大丈夫、大丈夫だから』
女『何が大丈夫なの?』
男『バッテリーの話だったよね?』
女『車でしょ?』
男『ああそう車の話だった』
(引用ここまで)

多分電話での会話だと思うのだが、一般にこれを読んで、女は困った生き物だと(男は)思うらしいのだが、何度読んでも、おかしいのは男だろ。と僕は思うのだが。いかに。

女は感情的だ、自分勝手だ、何を言ってるのか分かりにくい、と言う男はいるものだが、僕は経験上あまりそう感じたことが無い。そういう女性に出会ってないだけ?いや違うだろう。例えば、この会話でもそうは感じない。

****

この会話で、まず女性は車のエンジンがかからなくて困っていることを訴えている。困っているんだから、その解決策を模索すべきだ。もし時間が空いているのなら、「今からならまだ間に合うから送って行くよ」と言えるかも。もしくは、無理なら、JAF等のロードサービスの番号を調べて教えるとか。しかし男性はエンジンがかからない原因に固執している。

原因は、「車のエンジンがかからないの…」の意味の取り違えだろう。

「車のエンジンがかからないの…原因は何だと思う?」ではなくて、
「車のエンジンがかからないの…本当に困ったわ、約束に間に合うようにするのはどうしたらいいかしら?」という意味だと分からなかった点だ。なぜこんな取り違えを男性はやってしまうのか、全く僕には分からない。

女性は辛抱強く、その後も困っているということを訴えているが、男性は気づけない。

女『何で?』

この一言で、女性は男性が発している言葉が、全く流れに沿っていない奇怪な言葉となって聞こえていることがうかがえる。

女『もしかしてちょっと怒ってる?』
男『いや別に怒ってはないけど?』
女『怒ってるじゃん。何で怒ってるの?』

この辺で感情的(な物言い)になっているのは、むしろ男性の方だろう。
バッテリーかどうか知ることができなくてイライラしているのだ。

女『何か悪いこと言いました?言ってくれれば謝りますけど?』

これ冷静すぎ。女性は感情的ではない。むしろ冷静に攻めてる。しかし、男性は、

男『大丈夫だから。怒ってないから。大丈夫、大丈夫だから』

と、取り繕ってしまう。
多分イライラしている。怒っている。俺の言うことをきいてくれない彼女に。なら実直にそう言えばいいのに、言えない男。(涙)何が大丈夫か分からない。

あと、
女『別にいいけど。でもバッテリーあがってたらライト点かないよね?』

が面白い。彼女はもう原因はバッテリーなんだと思っているのかもしれない。だから、男性はここで、何か変だと気づけるのだけど、やっぱりライトがつくか知りたくて仕方ないらしく、

男『いや、だから。それを知りたいからライト点けてみて欲しいんだけど。』

という、とどめの言葉を発してしまう。このちがはぐな会話がどうして生まれているのか、それを探ろうという考えは微塵もない。女性の「バッテリーあがってたらライト点かないよね?」は、男性が何を言ってるか分からないので、探ろうとしているのかもしれないのに。。。

じゃあ、ここで男性はどう言えばよかったか。
「原因がバッテリーじゃない可能性もあるので、それをまず確認したいんだ。もしライトがついたら原因はバッテリーじゃない。」とでも言えばいいのかい?

で、もし原因がバッテリーじゃなかったら、次にどうする?もしこの男が車オタク、メカオタクであったとしても、車に詳しくないと思われる女性に電話先で指示しながら完全に原因をつきとめて解決する事など不可能だろう?

結局、原因がバッテリーかどうかが分かったところで、困っている状況は解決しないのである。もしバッテリーだと断定できたとしても、近くに知り合いがいて充電させてくれない限りは解決しない。JAFを呼べば、どんな原因だって、どうせもっとはっきりその場で分かる。。

すなわち、エンジンがかからない原因を特定することは、この状況下で全く持って
ナンセンス
なのだ。男はまったくもって無意味なことに固執し、一人でイライラして時間を浪費させている。

潜在意識の中で女性はそのことをよく分かっているのではないだろうか。つまり、指示どおりにライトをつけてみたところで、私のこの状況は何も解決するはずないのに、この人はいったい何を言っているのだろう?って感じになるだろうか。。。

オチは最後の、
女『車でしょ?』

だろう。僕は爆笑してしまった。

この会話で発する言葉は、圧倒的に女性の方が筋が通っている。


****

全然関係ないが、僕は車種が気になった。そして、原因も。(笑)

まず、女性は頻繁に車を使っているように見える。長時間放置もなさそう。しかも、最近の車(だと仮定して)なら、ライトつけっぱなし防止機能もきっとある。じゃあ、バッテリーなのか?違うんじゃないのか?

次に、「こんなのに買い替えるんじゃなかった」と言ってるので、少し勇気を出して買った車じゃないかと思う。そう、ヴィッツやマーチじゃなく、例えばちょっとおしゃれな女性をターゲットにした小型車の外車。車がとりわけ好きだというわけではなさそうなので、一目惚れで買ってしまった。ずばり、VWのポロやルポ、Bの1シリーズ、プジョー206、シトロC3あたりが怪しい。そしてこいつらが起こす定番トラブルと言えば、、、、ずばりプラグかぶり!日本の道をとろとろ走って、プラグかぶり気味になって調子を崩した。「アクセル底まで踏んだままエンジンのキーをまわし続けろ!」と言ってやってくれ。(笑)

あくまで推理です。





この男女の会話に関して、以下に創作、追記しました。(2015/06/28)

http://erisabeth.blog123.fc2.com/blog-entry-502.html







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結婚しない理由!? :: 2010/05/25(Tue)

若い世代の結婚しない理由に関する考察.


****

20、30代の結婚しない理由は、男性は経済的理由が目立つのに対し、女性は生活スタイルが変わるのを嫌う傾向にある。

(中略)

 昨年のインターネット調査をもとに、結婚しない理由を分析した。男女とも1位は「適当な相手にめぐり合わない」だが、2位は男性の20代、30代がそれぞれ「結婚資金が足りない」「結婚後の生活資金が足りない」だったのに対し、女性の20代、30代は、いずれも「自由や気楽さを失いたくない」。経済面を心配する男性と、生活スタイルを重視する女性の違いがくっきりと表れた。

(後略)

(詳細は以下のリンクから.)
http://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/K2010052500930.html
http://www.asahi.com/national/update/0525/TKY201005250093.html

****

例によって,調査の詳細が分からない記事だが,それにしても二位の違いは興味深い.

男性の「結婚資金が足りない」「結婚後の生活資金が足りない」というのは,社会常識的な理由だろうか.やはり男性は働かなくてはならないし,経済力を持って結婚に望まなくては妻子を養えない,というような感覚は今でもしっかりとあるのだろうと思う.社会もしくは結婚相手から求められていると感じるのかもしれない.これは「結婚しない理由」というより,条件に達していないので「したくてもできない理由」!?

一方,女性の「自由や気楽さを失いたくない」というのはとてもよく分かる.日本人男性と結婚したら,一般的には食事の準備や家事全般は女性の仕事になるし,お金の収支を管理するのも妻の仕事になる場合が多い.それだけではない.友人と楽しくショッピングや食事に行ったりする,そういう交友関係も薄れて行くものだ.結婚後のこういう生活は「自由」「気楽さ」という言葉とは相容れないように感じる.また,仕事をしている女性なら,自分で稼いだお金を自由に使い生活を楽しむ日々の方が,結婚生活よりも有意義ですばらしいと感じてしまうことは,充分にありえる.

男性は「まだ足りていない」から結婚できない.女性は「これから失いそう」だから結婚しない.どうも微妙な状況だ.

このタイプの男女の問題が解決される想像上の社会はどのようなものだろう...

男性が経済力を気にするのなら,経済力が男性に集中しないような社会になればいい.それは女性がもっと働きやすい環境になり,賃金がもっと上がり,そして夫と同じくらいの稼ぎを家庭に持ってこれるような状況が多く生まれることだ.これで現状男性にかかり続けている経済的プレッシャー(「俺が家族を養わなくてはいけない」というプレッシャー)はかなり減るだろう.ただし,女性がそれだけ働くとなると,男性も家事を覚えないといけない.育児にもしっかりと参加しないといけない,文京区長さんのように...しかしそうすることで,女性の自由や気楽さは維持されるかもしれないから,これは悪くない.

・・・本当にそうかな?

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日本家庭料理再考 :: 2010/05/10(Mon)

最近,食カテゴリーの内容が増えているこのブログ.日本について考えるブログなのに,紹介する料理は概ね全て日本のものではない.

日本について考えたくても,日本のことしか知らなければ何も見えてこない.海外に出て,異文化に触れて初めて見えてくることってある.食文化も同じで,多分日本食ばかりを考えていても駄目で,諸外国の料理を作り,食べて,その成り立ちや構造を知ることから,初めて日本の食文化がいかなるものかが見えてくるのだと思う.

...などと書いてしまったが,これは半分本当だけど,半分は嘘.

実は,僕はなるべく短時間に簡単に料理を作りたいといつも思っている.つまり合理的に作りたいのだ.なおかつ美味しいものを食べたい.

前にも書いたことだが,日本の家庭料理は面倒くさい.面倒くさい割に美味しくないと僕は感じている.

本当に美味しい和食を作るにはそれなりの心構えと時間が必要だ.手がかかる.

まあ,そんなに本格的なものではなく,一般的な日本の家庭料理なら僕も普通に作って食べる.それは豚の生姜焼や魚の煮付けや肉じゃがや...まあ,そんな感じだが,しかしこれだけじゃ満足できないのが日本の家庭料理だ.酢の物とかお浸しとかひじきの煮物とか,あと何品か副菜が欲しいということになる.味噌汁も必要.ご飯も炊かなくてはならない.しかもこれらの調理プロセスはまったくスムーズではなくばらばらだ.時間の無駄も多い.さらには調理した鍋やフライパン,そして盛り付けるお椀や皿の数もどんどん増えて,洗いものもどんどん増える.

とにかく日本の家庭料理は,やる気満々ならいいのだが,ちょっとでも気が萎えていると,面倒くさい.だからこそ「毎日のおかず・超お手軽クッキング!」のような本がたくさんあるのだ.

個人的結論は,日本の家庭料理は合理的ではない,というものだ.忙しい自分が合理的かつ美味しい料理を作ろうとすると,それは自然と日本の家庭料理ではないものになるわけである.

合理的合理的って,うざい奴だと思われるかもしれないが,料理が専門で料理に集中できる環境でないのだから,やはり合理的であるほうがいいと思う.僕はシェフではないのだから...日常の生活の一部として,料理をしているのであって,時には他の用事に追われたり,考え事をしながら,もしくは,家族としゃべりながら料理をするのだから...

まあ,週に3回か4回夕飯を作るだけの僕の場合はまだいい.毎日毎日,朝ご飯と夕ご飯の支度をして,場合によっては子供や旦那のお弁当も作って,そして日中は仕事もしているお母さん方にこそ,もっと合理性が必要ではないかと思っている.しかしジェンダーの問題を考えている時に,料理がもっと合理的にならなくてはいけない,などという話はあまり聞いたことがない.多分言っているのは僕だけだ.おそらく多くの奥様方が僕より遥かに有能で我慢強く,手際よくさばけているからに違いない.

ここまで考えて,カレーライスのルーや麻婆豆腐の素や顆粒出汁がいかに重要なものかが分かる.焼くだけでいい状態で売られているハンバーグも重宝するかもしれない.いろんな野菜や肉や魚を買ってきて,ストレートタイプの鍋用スープを繰り出せば,鍋以上に手軽な料理はない.(しかも,鍋は皿に盛るのもセルフサービス.)これらは,生活の一部の料理として,実は合理化されているのだ.

しかし残念なことに,この合理化は工業的なプロセスによる合理化であって,家庭料理自体が合理的になったのではない.だから,化学調味料に舌が慣らされてしまったり,レトルトなどのゴミを大量に出してしまうことになる.そして,料理として大切な部分をすっ飛ばすことから,料理とは何をすることなのか,不明瞭になっていく.

合理的な料理とはどういうものか,これはこのブログでも時よりさりげなく書いてきた.使う鍋など調理器具が少なく,調理過程が連続的でスムーズであり,素早く美味しく栄養バランスがいいもの.これである.

今回新たに僕がとても合理的だと感じる欧州家庭料理を二品紹介する.

ひとつはイタリア料理のアクアパッツァ(acqua pazza) だ.アサリ貝の砂出し時間を除けば,調理開始から確実に15分で完成する.食材と塩のみ一本勝負.投げる球は必ずど真ん中ストレートで,この料理に暴投(失敗)はない.出来上がる料理は,魚介が持つ旨みをこれでもかと味わえる素晴らしいものだ.

もう一品は,南仏料理の代表,ラタトゥイユ(Ratatouille).夏の料理なのでまだ早いのだが,もう待ちきれない.野菜たっぷりで栄養価も高く,調理時間も短かく,プロセスも合理的.ラタトゥイユをベースにさらなる料理への発展も期待できる.温度や調理後の経過時間によっても表情を変える.ただ,この料理は直球じゃなく変化球だ.ストライクゾーンに入れるのは時に少々難しい.しかも球の変化の幅も大きくてピッチャー本人も投げてみなくては分からない的な面がある.えりざべす考案のせこい裏技と共に紹介する.

つづき → アクアパッツア
    → ラタトゥイユ

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「絆(きずな)」の語源から思ったこと :: 2009/05/26(Tue)

「絆」の語源は,動物が逃げないように繋いでおく綱です.

「選択的夫婦別姓に反対の方の意見」からの続きです.

選択的夫婦別姓反対の人の主要な懸念は,何といっても「別姓にすると家族の絆が弱まる」「家族がばらばらになることを助長する」というものです.それで,「絆」って一体なんだろうか,とふと思いまして調べてみました.

「絆(きずな)」という言葉の語源は意外なものでした.「家畜を逃げないように繋ぎとめておく綱」から来ているようです.動物が自分のもとから離れていかないように繋ぎとめることから,人と人とが離れ離れにならない,断ち切ることができないような結びつきを表す言葉になったと言われています.

正直,そういう意味が語源だと全く想像すらしていなかったので,けっこうこれは驚きです.(私だけでしょうか? 笑)私としては,友情とか愛情とか信頼関係とか,そういうものと等価のイメージだったので...でも実際は全く違ったわけです.いや,そういう意味も現代においてはあるのかもしれませんが,でもとにかく「動物を繋ぐ綱」が現在の「絆」の意味に転じたんだ,というその事実が驚きです.

しかし,よくよく考えてみると,「君と僕とは深い絆で繋がっている」という言い方をしますねぇ.確かに,「繋がって」いるんだ!そういえば,「赤い糸」とか言いますもんね.あれ,私は意味も分からないし,ニュアンスとかも理解できないのですが,ああなるほどって気がしてきます.

夫婦別姓にすると,絆が弱まる,家族がばらばらになる,という懸念ですけど,なんで姓が変わるだけで信頼関係が揺らぐんだろうか,愛情がなくなるんだろうかと,私は理解できなかったのです.でもこの語源が分かって,なるほど,と逆にかなり納得した次第です.

極端な言い方をすると,結婚後の夫婦は綱でくくり付けられているわけです.別れられない様に.笑 愛情とか信頼とか,なんかそういう不確定で形のないものじゃなくて,「綱」なんでしょう.その役割を「姓」が担っていると,そういうイメージで正しいのでしょうか...姓は,縦のつながりも引っ張ってますから,つまり親とかも関与してくるわけで,がんじがらめ状態,まあ綱につながれるイメージは遠からずです.社会常識に従う分には問題は起きないけど,ある程度自由を求めると,綱がきつく締め付けてきて,自由が効かずもがくことになります.

つまりまとめると,結婚後,愛情や信頼やそういうものは衰えていって,その代わりに綱で繋ぎとめるかのようにして,勝手な行動を起こしにくいようになっているんでしょう.「お互いを好きで,大きな信頼関係が築けているから,結婚して一生涯を共に過ごす」のではなくて,「結婚しているから一生涯共に過ごさなければならない」ってことになるのか!?現代は一応自由の時代ですから,愛想尽きれば別れてもいいのですが,それを難くする役割を綱が担うわけでしょう.なるほど,別姓反対派が言っている,「別姓を許すと,別姓が増えて,どんどんばらばらになる,少子化もさらに進む」というのは,姓という名の綱が無くなって,女性の自由度が上昇して,結果的に愛想尽かされて男性は捨てられる運命が見えてくる,という意味にもなるのでしょうか.

うーん,私は一人勝手に,かなり合点がいっています.なるほど,この問題は,「愛」という概念がこの国に希薄なことに起因しているのかと....まさに前にこんな記事を書いたのですが...
こちら→http://erisabeth.blog123.fc2.com/blog-entry-83.html
ここに繋がるとは思っていませんでした...笑 Mr. childrenの「しるし」.

もう重苦しくなってきたのでやめます.
もし参議院でこの法案審議されたらまた何か書くことにします.

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選択的夫婦別姓に反対の方の意見 :: 2009/05/23(Sat)

私は選択的夫婦別姓に賛成ですが,反対の人の意見をいまだににちゃんと理解することができません.批判しているのではなく,ただただ理解に到達できないのです.先月末,民主党がこの法案を参議院に提出したそうなので,この機会にもう一度,選択的夫婦別姓法案の紹介と,私の考え,および,なぜ反対の人たちの意見を理解することができないのか,その要因について分析して書きます.

選択的夫婦別姓は,結婚しても夫婦間で姓を同じにするかしないか,選択できるようになる制度です.現状,法的に婚姻すれば,わずかな例外を除いてほとんどの場合女性が男性の姓に変わることが社会的に求められています.もちろん,多くの人はそれにことさら異を唱えていません.しかし,日本において姓はほぼ名前と等価であり,このようにして姓の変更を社会から強制される女性は,人によっては実生活における問題と精神的な苦痛,自己喪失感を伴う場合があり,選択的夫婦別姓はそのような問題の緩和に貢献できるだろうと思います.

また,この法案には,婚姻最低年齢や再婚禁止期間に関する著しい差別的規定の改正も盛り込まれています.日本の民法がこのような男女差別的規定を含んでいることに関しては,国連などからも度々指摘を受けているようです.日本が民主主義国家を自認し,倫理観を大切にした,より多くの人々が住みやすい国家を目指すなら,この点は早急に改正すべき項目だと思います.

私は選択的夫婦別姓法案に賛成です.なぜなら,上述のような,姓を変更させられ自己喪失感を感じる女性の気持ちに共感をおぼえるからです.また,姓を変更することで仕事や実生活において不便を強いられることもありますし,そのための免許証やカード類など様々な事務手続きを踏まなければいけないのも姓を変更する側だけであり,人によっては不条理に感じるだろうと思います.男性は,自分のこととして考えてみれば,これがいかに大きなことか分かるでしょう.女性なら受け入れられる,ということではありません.男女とも,姓なんてどうでもいい人もいれば,自分の姓に愛着を持ち,それを変更させられることに苦痛をおぼえる人もいるだろうと思います.現代の結婚は,「家系」のイベントでもありませんし,政略結婚でもありません.個人が個人を好きになり結婚する場合がほとんどで,お見合いであっても個人の気持ちは尊重されるでしょう.結婚によって政治に参加して自己の存在意義を確認するなんてことも現代にはありません.だから,各々の個人の気持ちを問題の中心におけばこそ,この問題は表出していると感じます.

しかしこの法案は長らくもみ消され状態でした.決議されることもなく...もはやこのまま葬り去られてしまうのかと思っていたのですが,最近再びわずかに光が差してきたようです.

http://www.dpj.or.jp/news/?num=15817

「民主党は24日午後、選択的夫婦別姓制度の導入を柱とする「民法の一部を改正する法律案」を共産党、社民党、無所属議員との共同で参議院に提出した。(以下,省略)」


選択的夫婦別姓には,明確に賛否両論があります.ですが,国民の意見が完全に割れているというよりは,一部に著しく反対の人と賛成の人がいて,残りの人々はあまり興味がないのだろうという印象を持っています.世論調査では,だいたい賛否は拮抗しているようです.ただ,世代を考慮すると,若い人ほど賛成しており,また性を考慮すると男性よりも女性のほうが支持しています.

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ある事柄に対して,賛否両論がある場合,たいていはそのどちらにも「なるほど,まあ確かにそうだな」と思える部分があるものです.例えば,最近話題になった定額給付金.あれ,私は基本的に賛成でしたが,反対している人の意見もよく理解できました.ばらまき,といわれれば,まあそうとも言えるのかな,と.もっと別に使い道があるだろう,といわれれば,確かにあるかもしれない,と考えをめぐらせることは可能でした.今流行の新型インフルエンザ.状況が明らかになっている今,私はマスク着用の必要性など全く感じませんし,海外渡航を止めるほどの事態でもないと思いますが,しかしマスクを買いに走り,海外旅行を中止する人の気持ちももちろん理解できます.

ところがです.私はこの選択的夫婦別姓の問題に関して長いこと関心を寄せていますが,本当に一度たりとも「確かに現行制度のほうがいいかもな」と考えられたことがないのです.法改正に反対の人の意見を読んでも,頭の中に「?」が増えるだけで,一向に理解できないのです.なぜなのでしょう.つまり,反対派の方の意見の構造が見えてこないわけです.

まず最初に,賛成と反対の人々の立ち位置が全く違う,ということを認識する必要があります.一瞬,別姓か同姓かという対立問題のように見えますが,そうでは決してありません.なぜなら,この法案は「選択的」だからです.この法案に賛成の市民は,「別姓がいい人も,同姓がいい人も,問題なく結婚できる制度にしましょう」ということに賛成しているのです.つまり,多様な価値観を尊重する,ということに賛成という意味になります.一方反対派の人は,「現行制度のまま,結婚したら例外なく同姓になるということでなければいけない」と主張しているわけです.個人的な希望ではなく,他人を含めて社会の構成員全員,結婚して家庭を持てば必ず姓は統一すべきだ,それこそ家族だ,と主張しているのです.ですから単純な対立関係ではありません.

私は,何はともあれ選択的夫婦別姓反対の論拠を探ります.そうすると,「別姓にすると,家族の一体感が損なわれ,絆が薄れ,家庭崩壊へとつながる」という意見が目立ちます.あとは,「子供が困るから.子供が可哀相だから,子供の姓が違うと混乱が起こるから」という意見にも出会います.

しかし,私はここでもやはり理解ができません.そして,反対派の論理には明らかに大きな混乱が存在していることに気付くのです.繰り返しますが,この法案は「選択的」なんですよ.家族の一体感を姓が同じであることを通して感じている人は,当然同姓を選べるのです.ですから,私は改めて「なぜ必ず日本の全家族が同姓でなくてはいけないと思うのか,全家族が同姓であるという現在の条件が,なぜ個々の家族の絆が薄れないために必要だと予測できるのか」と問わなくてはなりません.夫の姓に変わることで不安や自己喪失感を感じる女性でさえも,結婚したら同姓でなくては家族の絆は薄れるのだと本当に思うのでしょうか.この部分に関して,論理性のある見解をまだ聞いたことがありません.

私の考えではむしろ逆で,絆は強まることさえあると思います.もしこの法案が実現したなら,別姓家族と同姓家族が混在することになるでしょう.今まで同姓を強要されていた家族が別姓になれるのですから,その家族は姓に関しては社会からの抑圧はなくなり,安心して婚姻して暮らすことができるようになるでしょう.一方,同姓希望の家族は今までどおりでいいのです.ですから,各々の家族の幸福度の社会全体の総和のようなものを考えれば,むしろ上昇すると思うんです.万が一,別姓がどんどん増えていったなら,それは潜在的にそれだけの人々が別姓を望んでいたことになるわけで,そういう問題が露呈し,実際に別姓にすることで解決していくのですから,やはりいいことだと思います.つまりこの法律は,市民の意思決定にゆだねるという自由をもたらします.

次に子供の問題ですが,この理由も私は理解できません.この理由には,語られない前提として「子供も当然同姓を好むはずだ.同姓でないと安心できないはずだ」という価値観があると思います.なぜこのような論理の飛躍が生じるのでしょうか.考えてもみてください.子供はこの世に生まれてきて,親や社会からいろんなものを吸収してその中で育って行きます.狩猟民族に育てられれば,立派な「狩人」に育ち,過去の日本の村に生まれたならば,しっかりとした共同体意識を持った「村人」になっていくものです.だから,別姓の夫婦の間に生まれたら,両親と似たような価値観を身に付けることになるかもしれませんが,それは別に子供が「可哀相」ということではありません.なぜ,子供が可哀相とか混乱が起こるという予想が生まれるかといえば,「当然同姓(自分の意見)が正しい理であり,子供もそういう価値観であるはずだから,子供はきっと混乱するでしょう」という論理なのかと思いますが,これでは説得力は全くありません.(しかし,この類の論は日本では当たり前にそこらじゅうにあります.)子供ははじめから意見や定まった観念を持って生まれてくるわけではありません.考えるべきは,子供が生まれ出てくるこの日本社会(家庭)が,どのような器であるべきかという部分であり,それをいかなる先入観も除いて考えなくてはいけないのです.

結論として,なぜ私が選択的夫婦別姓反対の人の意見が理解できないかというと,その中に,自己の希望や好みを完全に廃した,客観性のある意見というものを見出すことができないからなんだと思います.

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ところで,私はそもそも家族の絆は姓が同じであることで生まれているとは感じないのです.私は,同棲している人,もしくは結婚前の恋人同士の段階のほうが,結婚した後の状態より深い愛情と絆で結ばれていると感じること,あります.とりわけ日本では...そう考えているうちに,そもそも「絆」とはどういう意味なのだろうか,という疑問にぶつかりました.愛情とか思いやりとか信頼関係とか,そういう言葉とは,似ているようで全く違うように思います...改めて次回,「絆」について考えて見ます.どうやら私の「絆」の理解は間違っているようです.汗

以前に書いたエントリー → 「選択的夫婦別姓」

関連記事:議論にならないのはなぜ
     :自分の世界から出ようとしない
     :素直のあり方を考える

つづき → http://erisabeth.blog123.fc2.com/blog-entry-241.html

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  1. ジェンダー
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ジェンダー問題の解決に向けて :: 2009/02/15(Sun)

ジェンダー,男女平等に関する諸問題を日本において解決の方向に向かわせるには,フェミニスト(どちらかというとフェミニスト側の人)と反フェミニスト(どちらかというと反フェミニスト側の人)が,互いに言葉を交わさなくてはいけないと思う.

私はこのブログで,ジェンダーというカテゴリーを作って,いろいろ書いています.どちらかというと,男女平等を主張する,フェミニストの立場に立って書いていると自認しています.

フェミニストの主張.それは,男女平等です.平等であることは,現代の民主主義国家としては当然内包されるべき理であり,人々は性に関わるいかなる差別も受けるべきではないでしょう.社会が作りだした性差(ジェンダー)に対して,それを無くすべきだと私も思います.現状日本では,生き方の自由度において男性有利だと感じるので,これを何とかしなくては女性のほうが不幸感を感じることが多いだろうと思います.ですから男女平等は正しい理だと思います.

ところが.私は日本一般のフェミニストの意見にだけ賛同しているわけではありません.フェミニストの中にはずいぶん過激で偏った見方もあるように思い,時に嫌悪感を感じることもあります.逆に,反フェミニストの方の考えであっても,共感できると感じること,あります.反フェミニストのよく主張する意見として「平等など幻想だ.男女に差はある.もっと男性や女性がそれぞれの性の特徴を生かして輝ける社会(役割分担がなされた社会)を作るべきだ」というようなものがありますが,なるほど的お得ているのではないかと思います.男女は全く違いがないなんてことは決してない.それは多分正しいだろう.だから,それぞれの性に合った役割があるのだと言われれば,それはあるとも思う.

私は何を考えているのかというと,「このふたつの対立しているかのように見える思想が同居する社会は可能なんじゃないか」と常々思っているわけです.

私が考える「男女平等」と「男女差」の言葉の意味と,なぜそれらが同居できるのかを説明したいと思います.

私は,男女平等の「平等」は数値のことを言っているわけではありません.人が感じる「安心感」や「幸福感」のようなもの,これが男女ともに同じくらいになるべきだと思っています.これが私の言う「男女平等」です.日本の法律は男女に差を作っていません.当然です.しかし,実際はあるはずの権利が女性であるばかりに虐げられている場合は多いでしょう.これが女性の「不安」や「不幸感」を生んでいると思うわけです.原因はこの社会にある社会常識であり,それを形成させてしまっているのは,私たち日本人の意識です.ですから,意識改革以外にこの問題を解決する手立てはありません.人々の自由意志というものに対し,日本人はそれが男性であれ女性であれ,敬意と尊重を持って,その人にエールを送ることができる,そんな思想が必要です.

一方,男女差の「差」の方はどうでしょう.これは作るものではなく,もしあるのなら「はじめからある」と私は思っています.だから平等な社会が実現しても,数値がフィフティ・フィフティになるわけではないだろうということです.男女「差」は平等な社会の中においても矛盾なく存在できると思います.欧州社会を見てみると,あちらは,性差に基づく差別は日本に比べたらかなり少ないけど,じゃあ専業主婦はほとんどいないのか?と聞かれたら,答えはNoです.でもこれは,日本のように社会常識のひとつとして女性に専業主婦を強制した結果ではないだろうと思うのです.専業主婦をやめて働こうと女性がするなら,再就職活動において男女差別を感じることはほとんどない素地を社会は持っていると感じます.適性があれば女性だってリーダーシップをとることもできるでしょう.そこに男だから女だからという記号的識別は日本よりはるかに少ないはずです.

私が言いたいのは,3点です.

1.フェミニストの中には,平等であることを,数値や記号に頼りすぎている人がいるように感じます.数値目標では何も生まれません.「男女」じゃなく「女男」という言い方を作るようなことはただの言葉遊びです.大切なことは中身,私たちの精神が男女で同じくらい安心を感じられるような社会にすべきなのであって,そういうことは,反フェミニスト的思想の中にもあるのだということを知るべきです.

2.反フェミニストは,自己の信じる「理想の社会」を万人に強いてはいけません.現在の男女平等思想の上に成り立つ法や社会制度の上において,性差に基づく何らかの強制を敷くことは,社会が根本的な矛盾を抱えたままで進んでいくことになるのだということを知らなければいけません.

3.フェミニストも反フェミニストも,自己の主張の拠り所が自己満足や自己防衛であってはいけません.そのような拠り所は両者を水と油のように分かちます.フェミニストと反フェミニストは,互いに歩み寄り握手を交わし,どうすれば多くの人が幸福で安心できる社会となるのかを真剣に話し合わなければいけません.それ以外にこの分断を決定的に取り除くことはできないと思うのです.

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と言ってはみたものの,「歩み寄り」...これはしかし今の日本人の現状を見ていると難しいだろうなぁ.親子だって価値観がいったんずれたら会話さえ成立しなくなる燦燦たる状況だから...多くの日本人は鉄格子の檻を自らの周囲に設けて,「私はここが好きだ.ここからは一歩も動かないぞ!」と言っているように私には思える.だからたまに自由に動き回れる人がいても,檻の外に誰をも連れ出すことができない...

突然ですが,禅が言うところの「悟り」が必要だと思います.頓悟でなく漸悟で.小さな悟りの積み重ねです.ただ,悟りというのは言葉にすると泡のごとく消えてしまう.難しいものです.

江戸時代の有名な禅僧,白隠が,修行者に対して言った有名な公案なのですが,ご存知でしょうか...

「隻手に声あり,その声を聞け」

(意味:両手を打ち鳴らすと音がする.では片手ではどんな音がするか,分かったら(悟りに達したら)報告しに来なさい)

「隻手の音声」へつづく

関連記事:自分の世界から出ようとしない
      :議論にならないのはなぜ?
      :結果主義と過程主義

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子供が欲しくないと思うことはおかしなこと? :: 2009/02/12(Thu)

個人が子供が欲しいとか欲しくないと思うことは自由です。現代では、子供を産みたくないと思ったとしても、それはおかしなこと(正しくないこと、道義に反すること、異常なこと)ではありません。

子供は欲しくない、子供は産みたくない、と思っている女性は現代にはいます。でもそのようなことはあまり誰にでも打ち明けられることではありません。「女性は当然子供が欲しいと思うもの、当然お母さんになりたいと思っているもの。それこそが女性の幸福だ」という常識が日本社会にあると感じているからでしょう。ですから、そういう人は社会との間に間違いなく齟齬を感じています。男性の中にも子供は欲しくないと思っている人はいると思いますが、男性の場合は社会との間にそれほど大きな軋轢は生じにくいのではと思います。

私は、子供が欲しくないと女性が思っても、何ひとつ変なことだとは思いません。漠然とした理由であっても私はその理由は理解できるし、全くそうだなとむしろ共感してしまうことも多いです。

例えば、

これからの未来に大きな不安があって、そういう未来を生きていくことになる我が子を思えば、とても不安で子供を産みたいと思えない、という理由。。。

実感として幸福というものを全く生きていて感じられないから、子供を産みたいなんて到底思えないえないという感覚。。。

いい会社に就職することができ、仕事も人間関係も充実していて、社会に自分の能力が貢献できているから、結婚して子供を産むことよりも仕事を通して世の中の役に立つほうが自分に合っていると思う、という理由。。。

子供を産んでいったん仕事を離れると、もう二度と社会復帰できないんじゃないかという不安。。。

子供を産むことに何の意味も見出せない、という理由。。。

子供が欲しいと本気で思えるような信頼できる男性にめぐり合えないから、子供が欲しいなんて全く考えられない、という理由。。。

自分のことで手一杯なのに子育てなんて無理、という理由。。。


これら全て,おかしなことではないと私は思います.

多くの人は、子供を産むこと、子供が欲しいと思うことは当然だと思っています。簡単な言葉で言うなら「そういうものだ」と思っているのでしょう。だから結婚したら子供が生まれるのは当然だと考えて、「子供は何人が理想?」「お子さんはまだなの?」なんて質問が普通に飛び出してきます。

「そういうもの」というのはどういうことでしょうか。これにはふたつの意味が存在すると思います。

一つ目の意味。それは生物としての「本能」。人間は生物であり、子孫を残そうとする、これは生物として当然です。これを本能と言うなら、確かに本能と言えます。本能には逆らえないので、「そういうものだ」「自然なことだ」と思いやすいのです。

しかし,「本能」とはこういうものだと定義したり説明したりする行為は、私は何か危ういものを感じます。

私たちに本能はそりゃあります。食べなきゃ生きられないので、食欲はとても根源的な本能です。睡眠もそうでしょう。いろいろと複雑なことを考える人間ではありますが、自己の生命維持にかかわる部分には人間も大きな本能依存の性質を持っています。

一方、私たちの行動が全て「本能」という言葉で説明できるなんて幻想を抱いてはいけません。食や睡眠のような緊急の問題から離れていくと、いわゆる「社会性」と呼ばれるものの中に本能は融合して存在していると感じます。私たちはだから性欲のままに行動したりはしません。男女が惹かれあうのは、最初から互いの子供が欲しいからという理由であるわけではありません。危険だと分かっていても、誰か取り残されていないか心配で火事の中に飛び込もうとする人はいるでしょう。

緊急性のない「子供が欲しい」という気持ちも、決して「本能」のような言葉で説明できるほど単純なものではないはずです。いや、子孫を残すという本能は、けっこう多様性を持っているものだろうと思います。他の生物を観察してみると、生物は常に増殖するだけではなく、巧みに数(population)を減らす仕組みを持った種もたくさんいるものです。そういうことも生きていくには必要なことだったりするからです。

もう一つの「そういうものだ」の意味。それは日本古来からの自然信仰と関係すると思います。つまり子供が生まれることは、私たちの知性でコントロールするようなものでなく、自然の一部だと実感していたわけです。「じねん」(あるがまま)ということで、それは霊的であり美しいもの。だから過去において子供は産むものではなく,授かるものでした。

ところが私たちはもはや神霊とともに生きているわけではありません。実感できる状況にありませんから、せいぜいこの手の信仰は知識として持っている程度と言わざるをえません。すなわち「授かる」という言い方はただの知識です。実際はもはや子供は授かるのではなく、作っています。子供を「作る」のであれば、それは目的が必要だったり、条件が整っていなくてはいけないし、子供がいる生活に期待や明るさを見いだせなくてはいけない。それはもちろん、生まれてくる子供のことを思えばこそ、でしょう。そして何か問題が生じそうであれば、懸念があるならば、リスクを回避するために子供は作らないでおこう、というアイデアは当然のように訪れうるものだと思います。

私は「子供が欲しい」人が正しくて、「子供が欲しくない」人はおかしい(もしくは可哀相な人だ)というような考え方は、現代においては非常に偏った見方であり、極めて倫理観に欠けると思います。

※追記:2009年12月にこのようなニュースが出ています
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091205-00000078-jij-soci

関連記事:見落とされる倫理観
    :霊的世界(1)

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お金を使うことは,稼ぐことと等価である :: 2009/01/11(Sun)

お金を稼ぐ行為と,使う行為は,経済全体で考えれば同じ価値を持つ行為です.稼ぐほうが偉いという価値観は,家という枠の中だけで機能する偏重した価値観です.

「お金を稼ぐこと,使うこと」からのつづきです.)

日本では,汗水垂らして稼ぐのは男性,そしてそのお金を使うのは女性という構図があるように感じます.そして厄介なことに,日本では「お金を稼ぐ」行為のほうが「お金を使う」行為よりも尊重され,上の立場だと思われています.つまり,使うためにはそのお金が必要なわけで,それは労働を行って稼いでいるのだから,稼ぐ方が偉いのは当たり前だろう,と思われているわけです.本当にそうでしょうか?

では,この問題をふたつの視点から考えて,いずれの視点から見ても,稼ぐほうが偉いという結論は出てこないことを示します.さらに,なぜ稼ぐほうが偉いと,当然のように錯覚するのかを説明しましょう.

まず,私たちが「生きていくうえで本当に必要な行為」は,お金を稼ぐことと使うことのどちらでしょうか.このふたつの行為を仮に分けて考えてみます.そうすると,これは紛れもなく使うことのほうが大切です.なぜか.それはこの社会で,生きていくために必要なものは,すべてお金を使って購入しなくてはならないからです.食料や衣服を購入しなくてはなりません.住む場所も買ったり借りたりしなくてはいけない.つまり,この社会では,「生きる」はそのまま「お金を使う」ということ.稼ぐという行為だけやっていても,生きてはいけないでしょう.貯金が増えていくけども,お金を使わなかったら餓死してしまう.現実的に生きることに直結しているのは,お金を使う行為のほうです.このように論を組み立ててみると,大切なのはむしろお金を使うほうで,そのためには仕方なく稼ぐ行為をしなくてはいけない,と捉えても,特に矛盾は生じないことが分かります.

では生きるため,ではなく,豊かさのためだったらどうでしょう.つまり高価なアクセサリーを買うとか,旅行をしたいとか,オーディオにこだわりたいとか,そういう営み.実はこれも上の考え方と全く同じになります.豊かな生活を送るためのその行為自体は,お金を使う行為の方であり,そのためには稼ぐしかないというだけです.やはり稼ぐことばかりを行っていても,決して豊かさは手に入りません.預金通帳の額がいくらあっても,消費行動を行わなければ,アクセサリーも高級オーディオも手には入りません.

さて次は全く違う視点です.この経済にとって,消費行動とは何を意味するでしょうか,という見方です.例えば,炊飯器が壊れたので新しい炊飯器を買うことにしたとします.これは消費者の視点で考えれば,例えば5万円のお金が手元から旅立って行き,代わりに最新の炊飯器が我が家にやってくる,ということだけですが,社会全体としてはそれだけの意味ではありません.旅立っていったお金たちは,その炊飯器を製造しているメーカーの利益を生み,そこから社員の給料が支払われているのです.もし,消費者が誰もそのメーカーの電気製品を買わなかったらどうなるでしょう?そりゃあ,そのメーカーは倒産して,社員は全員失業します.社員だった男性Aさんは,帰宅後妻に,会社がつぶれたよぉ,これからの生活どうしようぉ...涙 と,悲嘆にくれながら打ち明けなければならなくなるでしょう.稼ぎがストップします.要するに何が言いたいかというと,稼ぐ行為を支えているのは,お金を使う行為なんです.こう考えると,お金を使う行為を軽視することはできないはずです.お金を使う行為は紛れもなく経済を動かしているんです.

私は,お金を使う行為のほうが稼ぐより偉いというつもりはありません.お金を使う行為もとても大切だということだけです.この社会で生活していくにはどちらの行為も不可欠であり,不可分な行為だということ.まあしかし,これに対して「え!?そうだったの?知らなかったなぁ~」なんて言う人はあまりいないんじゃないでしょうか.「それはそうだよね.分かっているよ,そんなこと.」と思う人のほうが多いでしょう.

じゃあなぜ,お金を使うことが稼ぐことより下に見られるのでしょうか...それはとても簡単です.「家」と「独占欲」があるからです.

まず「家」.家の中だけで考えてみてください.この中にお金を持ってくる人が一番偉くなる.あたり前です.何はともあれ,お金がなくては使う行為は行えません.家の中だけの世界ならお金は一方通行.入ってきて出て行くだけ.この入ってくるほうが滞れば,家計は破綻しますから,当然稼ぐ人が偉い,という論が成り立ちます.たったこれだけです.次に「独占欲」.これは,お金を家単位で独占しようとする欲です.これは,前のエントリーの2番,貯蓄に当たります.稼いだお金より使ったお金の額が少なければ少ないほど,家の中に独占的にお金を匿うことができます.この欲が(額よりも欲が),日本では非常に強いのです.

いいでしょうか,これは甚だ視野の狭い見方です.現実にこの社会で起きていることは,家の中のことだけではありません.なぜ稼ぐことができるのか,それは消費行動があるからです.家の外側ではお金は旅をして,発想や技術を生んだり植物を育てたりしながら,また稼ぎ人の収入源となって戻ってきているのではありませんか.この家の外側の流れを軽視して,家の中だけで物事を考えて,稼ぐ人のほうが偉いと思えることの,なんと視野の狭く貧しいことか.

以前,恋のから騒ぎ(テレビ番組)の冒頭で紹介される偉人の名言で,「お金を稼ぐのは男性の仕事,お金を使うのは女性の仕事である」というのを聞きました.不覚にも誰の名言だったか忘れてしまいましたが,日本人ではありません.これはさすが名言と言われるだけのことはあって,含蓄のある言葉です.「使うことも仕事」なんです!この経済において,本質的に労働だけが仕事ではなくて,消費行動も社会に対する仕事なんだということ.そうでないと経済は回らない.

もし男性がお金を稼ぎ,女性がそれを使うという構図があるとして,これらふたつの行為は全く等価な価値を持つ行為だということを,改めて認識する必要があります.

関連記事:日本人は利己的か
      :値札を見てはいけません

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