バスの中での出来事

私は職場までバスで通っているのですが,ちょっと今日はひどいと思うことがありました.(少なくとも,私にとっては...)

帰りのバスに乗ると,高校生がちょうど部活帰りの時間で,込み合っていました.疲れてる生徒は寝ていたり,友達どおしで話している生徒もいるのですが,残りの生徒は,特に女子生徒はだいたい何をしているかというと「携帯でメール」です.まあ,こんなの今や当たりまえで,携帯電話はもう日本人にとっては不可欠なコミュニケーションツールなわけです.

バスの中では,一応「乗車中は電源をお切りください」ということになっていています.(札幌のこのバス会社は,マナーモードじゃなく,電源を切るように放送しています.)だからこれは違反ということになります.しかしですね.バスに乗って携帯電話の電源を切る作業をしている人を私は見たことありません.正直,私も切っていません.マナーモードにならしている人はもちろんいると思います.いきなり携帯が鳴って慌ててマナーモードにする人もいます.でも正直な話し,小声で話し始めたり,何悪びれず大声で応答するおじさんやおばさん,私は何度も見たことあります.むしろ高校生たちは,常に静かにメールしかやっていません.

今日の運転手は高校生に対してとにかく威圧的でした.信号待ちでバスを止めると,マイクを使って「今,携帯電話を使っている人はすぐに電源を切ってください.バスの中で携帯電話は禁止です.お客様の迷惑になるので止めて下さい.」と言うんです.そして生徒がバスを降りる時も,説教をするんです.「携帯電話の電源はちゃんと切ってください.守れないんですか?」みたいなことを言うわけです.しかもマイクを通しているのでお客さんはみんな気づきます.生徒たちはなんとなく,むかついた感じの表情ですが,でも一応小声で「すみません...」と言って降りていきます.そりゃあ見ず知らずのおじさんに,沢山の人が乗っているバスで怒られたら,むかつくか,ショックを受けるんじゃないかと感じます.「なぜわたしが?」と思うでしょう.あれは一種の見せしめです.

私としては,彼女らは人前であのように注意されなければいけないほど悪いことをしているとは全く思えません.もう,運転手に何か言ってやろうかと本気で思いましたが,まあ,今日は...機会を逸しました.汗

私は携帯でメール打っても「人の迷惑」になんかほとんどなっていないと思います.大声で騒いでいるわけでも,電話しているわけでもない.文庫本を読んでいるのとどこが違うかと言えば,たいして違いません.だから,携帯メールをしている高校生を見て,迷惑だと思っている乗客はそんなにいないはずです.なぜ高校生を責める必要があるでしょう.もしこの件に問題を感じるなら,高校生を責めるのではなく,携帯をこれだけ普及させ,携帯に依存してしまうような日本人の気質であって,それはもっと広い視野で日本というものを考えなければいけないことです.

それでも「車内では電源を切る」と決まっているわけだから,それを違反した場合怒られてもいいんじゃないか,という意見もあるかもしれません.確かにそうです.でも,そういう意味では私はそもそも「車内では電源を切る」という「規則」の存在の意味が分かりません.切っている人なんてほとんどいないはずです.高校生じゃなくてもメール打っている人は大勢います.つまり形式化されただけの規則で,大切な中身が伴っていません.テレビニュースでは,そういう決まりを無視して,美味しい汁を吸っている大人たちの醜態が日々流れているんです.決まりはあっても無いようなもの,というのは珍しくありませんし,「形式」と「実際」の大きな違いがこの日本に存在することくらい,高校生はもうよく理解しているはずです.総合判断で,バスの中でも携帯でメールくらいいいだろう,と思っているはずです.

それから,この件でもうひとつ考えなければいけないのは,高校生への愛です.これがバスの運転手からかけらも感じられない.もし愛があって注意するなら,それは本当にいい(正しい)と思います.しかしそれなら,例えばマイクを通さず,生徒が降りるときに「携帯は車内では禁止だから電源切ってちょうだいね.」とでもさりげなく生徒に言うべきでしょう.それなら,「運転手の真剣な気持ち」が生徒に伝わるかもしれません.

私には,今日の出来事は,年配者が行う未成年者への「陰湿ないじめ」にしか思えません.すごく気分が悪いです.こうやって若者は歪みを作られていくんだなぁ,と感じます.非常に悲しいです.

 

飛行機が墜落する!?

先日,飛行機に乗ったときの話です.私のすぐ後ろの席に親子連れの客が座っていました.両親と3歳くらいと思われる男の子の三人連れ.そして,席についてしばらくすると,子供が大きな声を出して騒ぐようになってしまいました.まあ,こういうことはたまにありますよね.さすがに,飛行機の中という狭い空間で,しかも客もそこそこ乗っていたので,親は自分の子供に「静かにしなさい」と注意します.しかし,今回の親の注意はなかなか面白い言葉だったんです.どういうものかというと,「静かにしなさい.騒ぐと飛行機が落ちちゃうよ.」最初は全く気にならなかったのですが,子供が大声を出すたびに,「しっ!飛行機落ちちゃうから静かにしなさい.」と言っています.ある時から急に可笑しくなってきてしまって,心の中で「いやぁ,さすがに落ちんやろう」なんて思ってしまったのですが,その後も親の繰り出す注意は決して「落ちるから静かにしなさい」以外の内容は出てこないのです.飛行機が上空に達して,子供が静かになるまで,たぶん10回以上は「飛行機落ちちゃうから静かにしまさい」を聞いたと思います.

これは,なかなか不思議な注意の言葉です.なぜ「お客さんの迷惑になるから静かにするのがマナーなのよ.だから静かにしなさい.」というような意味の言葉を言わないのでしょうか.これを考察すると深い世界に入っていきそうなので,今日は止めます.笑

よく考えてみると,この手の話しは他にもたくさんあると思います.例えば「静かにしないと鬼がやってきてさらっていっちゃうよ」とか「となりのおじさん怒ると恐いから静かにしなさい」とか,そういう類の注意です.すべてに共通していることは,内容が虚偽であること,そして子供がいけないことをしているという自覚を促さないことです.第三者を加害者に見立てて,子供を弁護しつつ,でも被害に遭っちゃうのは避けなければいけないから,静かにしようね,と助言しているんですよね.悪いのは堕ちる飛行機,鬼,となりのおじさんです.

まだ幼い子に「マナー」とか「公共の場」なんて言っても分からないよ,という人がいるかもしれませんが,だからと言って,飛行機墜落,鬼,おじさんを持ち出すことの意味があるのでしょうか.本質を隠して,子供だからと言って騙しているように私には感じるんですよ.鬼にさらわれる,それは恐いから騒ぐのは止めよう,みたいに子供が本当に思ってしまうとしたら.これはとんでもない騙しです.一方,親はそう言ってるけど,鬼なんていないよ,と思っているなら,これほどバカにされている言葉はないわけです.だから子供への愛のようなものをこういう注意からはどうしても感じられません.私は,子供には難しいにしても,なるべく分かり易くちゃんと説明すべきだと思います.そして,ここで騒ぐのはいけないことだ,とちゃんと指摘してあげる必要を感じます.それこそが教育というものでしょう.もちろん優しく,愛をもって.英語のeducation(教育)の意味は,その人の能力を開花させる手助けをすることです.子供へのこうした正しい注意もまさにこの教育の意味になると思います.人間は人への思いやり,配慮,という考え方を生まれながらに持ち得ると思いますが,それをちゃんと引き出させてあげるのは親の役割だと思うんです.

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練習という名の悪魔(後編)

子どもたちから「自主性」を奪うもの,それは日本の学校教育だと思います.私は残念ながら,現在の日本の教育現場を知りませんが,まあ話を聞いて推測するに,私が子供だった頃とたいして変わってない気がします.

まず日本の一般的な小学校や中学校でやること,それは「知識の強要」と「強制的な学習(練習)」です.例えば,私は漢字練習帳に同じ漢字を何度も書く宿題をやらされた記憶がありますが,こういう練習帳は今も店頭で売られているので,きっと同じことをやっているのでしょう.自分から「繰り返し書いたら覚えられるのでは」と発想したのならやってみる価値がありそうですが,強制的に練習帳に何ページも漢字を書かされたところで,抑圧以外の何者でもありません.これを「抑圧」と感じずに「自分のためになる宿題なんだから真剣にやらなければ」と自主的でない宿題に対して自主的感覚で打ち込める生徒はどれくらいいるでしょう.まあ日本人の大人は子供たちに「君たちのためを思っての宿題なんだよ」と思っているようですが,この発想そのものが高圧的であり,子供への愛のようなものがありません.

しかしまあ,勉強に関しては多少の強制力が必要なのかという気もするので,ここは一歩引いてよしとしましょう.それよりもっと大問題な「練習」があります.それは,学芸会での劇の練習や,運動会の行進や整列の練習,それから卒業式の練習などです.これらほど子供の人権を無視した練習はありません.心から劇を楽しむなんてことはありえないでしょう.むしろ劇に興味のある子供ならなおさらです.何のために劇をやるかなどはたいして説明されません.セリフを覚えさせられ,大声でみんなの前で演じる,そうすると親が褒めてくれたりする,「○○ちゃん,今日は頑張ったねぇ〜」と.ただそれだけです.時には3人同時に大声で同じセリフを叫ばされたりしますね.何なのでしょうか...運動会においても,本番で一所懸命に走ったり応援したりするのは楽しいかもしれませんが,「赤組入場!」と言って行進してグラウンドを一周して入場するのが楽しい,意味があると思っている子供がいるでしょうか.大人たちは「意味がある」からそういうことを子供にやらせているのでしょうか.ならばどういう意味ですか?と問いたいです.嫌々でありながらもやらなければいけないほど大切な意味が行進や整列の練習にあるでしょうか.それから,卒業式の練習です.入学式は練習などしないのに,なぜ卒業式は練習するのでしょう.卒業証書授与の練習をなぜしなければいけないのでしょうか.子供たちは卒業式の練習をしたい,練習する意味があると思っているでしょうか? 

よーく考えてみると.学校で「練習」をたくさん「させられる」時は決まって,保護者が見にくるようなイベントなのです.ですから端的に言えば,これら「練習」の意味は,「親に学校のぶざまな状況を見られないように,軍隊的方法でもって子供を縛る」ことにあります.言いすぎでしょうか.私は全く言いすぎとは思っていません.先生一人一人がそういう具体的なことを実は考えている,とかそういうことはないと思うのですが,集団的・組織的にそのような意味づけが行われているのではないかということです.親も親ですね.そういう運動会の中にいる自分の子供の姿を見て喜んでしまいます.ビデオカメラを回しながら,自分の子供の映像をコレクションし,満足する父親がいます.これら親が見に来る学校行事というものの現場は,大人の子供に対する「集団いじめ」だと私は感じます.しかし恐ろしいことに,子供も親もそういう状況を全く理解できていません.確かに「悪意」はありません.そうやって「作られた」運動会や卒業式に涙してしまうこともあるわけですから...しかし本当に「空しい」という以外の言葉が見つかりません.

最も多感でさまざまな事を周囲から吸収する子供時代に,学校の環境がこれでは話しにならないのです.「考えること」ではなく徹底的に「形」と「従属」を「強制的練習」でもって教え込まれるのです.そう,そういうことを子供たちは教育されているんですね.苦笑 というわけで日本における主体性のない行動,思考の停止,パターン依存は,学校における「練習」という名の意味なき「強制」が主要な原因である気がしています.もしそうなら,教育現場を変えることはかなり効率的に日本を変えられるのではないかという気もします.日本人の学力レベルを上げるのではなく,主体性を向上させるための「教育改革」です.そのためには,まず子供が学校という空間でリラックスでき,抑圧ではなく自由を感じることが大切です.そのためには何が必要か具体的に考える必要がありますが,少なくとも運動会や卒業式の練習が不必要なことだけは明白だと思っています.

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練習という名の悪魔(前編)

いきなりですが「練習」とは何でしょうか.いつもどおりまず定義から入りたいと思います.練習とは,自らの技能を研くために繰り返しその動作や行為を行うことです.野球の練習と言えば,野球の技術をもっと磨き,より高度な美しいプレーが可能になるように自分の身体能力を高め,そして慣れさせていくことでしょう.ブラインドタッチ(touch typing)の練習と言えば,キーボードを見ずに文字入力ができるように,そのために必要な基本姿勢を習得し,指先の感覚を研ぎ澄ましていくことでしょう.

練習は英語でpracticeです.この単語は動詞としても「練習する」の意味がありますが,実際は「習慣的に行う」「実践する」「実行する」「企む」というニュアンスを伴っています.つまり,極めて自主的な動作を示す言葉です.そうですねぇ.嫌々やる練習では,技能の大きな向上はそれほど見込めないでしょう.もっと上手になりたい,という主体的な向上心が練習の動機付けなのです.似た単語でtrainやexerciseという単語もありますが,こちらはやや使役的意味も含みます.これは日本語でいうなら,稽古,訓練,特訓のほうがニュアンスとして合っているのかな,と思います.よって,この記事では「練習」を「practice」の意味で捉えることとします.

さて,日本において「練習」と聞くと,なんとなくうんざりした気分になることありませんか? なぜでしょう.私の感覚では,だいたい日本においては,「よし,練習しよう!」と自発的に思う時より「しっかり練習しなきゃだめよ」と他人から言われる場合の方が多いような気がします.特に年齢が若いほど...前者は,他人はともあれ自分に厳しくなくてはいけません.本気で技術を磨こうというのであれば,「練習」は苦痛を伴う可能性大です.スポーツでも音楽でも,「練習」という動作が楽しくて仕方ないというようなことは滅多にないでしょう.むしろ練習の末に自らの技術の向上を実感できたときにこそ,喜びがあるのだと思います.後者は自分はともあれ他人に厳しい言葉です.先にも言いましたが,練習は自発的行為によって最大の意味を持つはずで,それを他人が「練習しろ」と言うことは,本来の練習の意味合いからずれているような気がします.

私のこれまでの人生の印象として,日本人は「自分に厳しく他人に甘い」より「自分に甘く他人に厳しい」傾向を感じます.で,こう言う自分も,自己に甘くなることってけっこうあります.苦笑 時々「自分に厳しく他人に甘い」人に出くわします.ほとんどの場合そういう方は人間として尊敬できる人であり,器の大きな人であり,周りからとても慕われていますね.強い自主性,能動的向上心というのは人間を常に成長させる要素なのだと感じます.

さて,日本における「練習」ということば.この単語を最初に聞いたのはいつ頃でしょうか.幼稚園に入る前のまだ幼少期に,親から「練習しなさい」と言われることは滅多にないでしょう.いや,自転車に乗る練習をするかなぁ...でもこれは練習のきっかけは親であれ,自分の世界が広がるわけですし,「自転車の練習は本当に苦痛だった」なんてことはあまりないでしょうね.笑 むしろ自転車に乗ることは楽しいし,自発的にもっと上手く乗りたいと思うかもしれません.まさに本当の「練習」です.

しかしながら,そのような本来の「練習」という精神は,その後次第に消えていきます.子供たちは小学校,中学校,高校と進む中で,とんでもない「練習」にたくさん出会うことになります.自主性を育みうる子供たちの可能性が,「練習」によって摘み取られていく過程が日本の教育現場の中に見え隠れします.

この話は「後編」に続きます.後編はこちら


 

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先生という職業の難しさ

私は子供のころから生き物が好きで,特に昆虫に夢中になりました.昆虫という生物は,私に強い好奇心を起こさせる不思議な存在で,寝ても覚めても虫網を持って野山を駆け回ったことを憶えています.特に美しい模様を羽に持つ蝶や,空間を急旋回・急加速しながら自由に飛びまわるトンボ,複雑でいて繊細な音を発する蝉やコオロギなどに惹かれていました.同じ年代の男の子が夢中になるカブトムシやクワガタムシにはそれほど惹かれなかったのはなぜなんでしょうね...笑

そんなわけでしたから,モンシロチョウの幼虫がアブラナの仲間の植物なら何でも食べることはファーブル昆虫記を読んで知ってましたし観察済みだったのですが,小学校の理科で出てくるモンシロチョウの幼虫の食べ物は決まって「キャベツ」.テストであえて「大根の葉」と書いた私も私ですが,×をつけた先生も先生ですわ.そして先生にそのことを話したら「大根じゃなくてキャベツでしょ?教科書に書いてあるでしょ?ちゃんと勉強しなさい」と言われたように記憶しています.子供ながらに真実はこの世の中には受け入れられないっぽいな,と悟った最初の出来事かもしれません.そう,結局○にはなりませんでしたからね.小学校低学年くらいでしょうか.

私の知人は,音楽の和音のクイズで同じようなことを経験しています.先生が和音を弾いて,音の組み合わせを当てるというクイズです.そしてその時の先生の説明は,「まずドの音を聞き分けて,次にミ,ソ...と聞き分ける.そうすると,ドとミとソの音が同時に鳴っているのが分かるでしょう?」というものだったそうなのですが,実際の和音を聞いてそのように分解することはできない,どう頑張って聞いてもドミソの和音にそれぞれ「ド」「ミ」「ソ」の要素は存在しないと思った知人は,先生にそう言ってみたそうです.すると先生は,あんたはバカねぇ,と言わんばかりの雰囲気で,ドとミとソを今私は弾いているんだから,聞こえないなんてことはないでしょ?と,全くもって自分は正しいと思っていたように見えたそうです.

「ド」「ミ」「ソ」を同時に鳴らしたとき,もはや「ド」「ミ」「ソ」が存在しない,という事実は,高校の物理学を学んでようやく理論的に説明できます.異なる周波数を持つ波動関数の和は,もはやそれぞれの波の波形を持っていません.万が一脳が,「学習」という特殊な能力でもって「「ド」「ミ」「ソ」が同時に鳴っている時の音がこの和音の音色だ」と関連付けられたなら,「ド」「ミ」「ソ」がばらばらに鳴っているように「錯覚」することは可能かもしれませんが....

先生という職業は,おそらく最も難しくてしかも責任の重大な仕事だと思います.先生は,なんだかんだ言っても,生徒に教えなければいけません.ですから,なんとなく生徒よりも上のポジションから見下ろしがちになります.特に大学や高校より小学校や中学校でそういう傾向になるでしょう.しかし,知識万能,多様な考え方ができるなんて人間には限界があります.先生も人間ですから.ですので,少なくとも生徒の声に「耳を傾けることができる」という能力は必要だと思います.自分が知らないことを生徒が知っていることもありうるはずで,そういうことに対しては理解と同意が必要です.これを私は,「生徒への敬意」だと感じます.敬意を示されれば,先生は真に尊敬される存在になると思います.生徒は尊敬する先生の話をもっと聞くようになり,日本人の学力レベルもひょっとしたらもっと上がるかもしれません.

   

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教育の意味と役割

ゆとり教育は間違いだったとか,そういう話を最近よく聞きますね.まあ,結果的に全体的学力水準の低下がゆとり教育と相関があるのであれば,まあ,ちょっとやりすぎだったのかもしれません.しかし,私の個人的感覚からいうと「?」.まず今回は,そもそも教育とは何だろうか,ということを考えてみたいと思います.(我ながらいきなりデカイ話題ですなぁ.笑)

教育とは,英語ではeducationです.これの語源は「その人間の才能を引き出すこと.引き出す助けをすること」です.間違ってはいけません.数学の難しい問題を解けるように訓練することではありません.多くの知識を蓄えて将来に備えることでもないんです.(それはこの国では「受験勉強」と呼ばれます.)人の才能ってそれぞれです.もちろん算数が好きな人もいるでしょうが,音楽に長けている人,絵が上手な人,運動が上手な人,料理が好きな人,いろいろです.しかし,今の日本の教育現場はそのようにはなっていません.おしなべ平均的に主要教科の点数がいいことを目指しているうちに,自分の才能に気づかないまま大人になり,何をしていいのか分からず,ひとまず携帯電話を取り出すのが今の日本人のありがちな姿ではないでしょうか.私は,例えば次のような大胆な仮説をたてます.「日本の自動車デザインが陳腐なのは,デザインが日本の教育現場において評価される主要科目に入ってないから.」これじゃあ,デザイナーとしての才能がある人もその道に自信をもって進むことができません,そもそも日本に生まれたこと自体はずれくじを引いたも同然ですね.日本はスポーツの中でも野球は世界的に見ても強い国ですが,あのスポーツは長く日本人からその価値を認められているんです.才能がある人はちゃんと気づく機会があるんですよ.だからレベルが上がって,メジャーリーグ選抜を相手に勝てる力を持てるのです.

さて,自分の才能,いやもっと簡単に言ってしまえば,自分が楽しいと思えること,好きなことをみつけることほど素晴らしいことはありません.そういうことに対しては,前向きにとことん打ち込むことができますし,普段考えないような細かなことまで考えをめぐらし,その結果,まだ誰も知らないことを発見したり,創ったり,表現したりできる可能性があると思うからです.そしてそういうことは,この国の例外なくすべての分野のレベル向上を促すことになります.つまり教育は,潜在的に国のレベルを決めるほど重要なことだと思うのです.教育により日本は根本的に改革される可能性があります.風力発電の羽根をとめることができるかもしれません.ただ,じゃあ「教育を改革するのは誰か」というシリアスな問題は残るのですが...一方,教育が今後さらに崩壊すれば国の根底となる根っこが腐るも同然だと思います.私としては,ゆとりがあったほうがいいかどうかを議論している場合ではないと思うのですが.文部科学省のみなさん,もう少し教育とは何か考えてください.ということで私の意見としては,まずは主要教科至上主義を廃止する,成績表を「国語・算数・理科・社会・・・」の順でなく「図工・社会・家庭科・・・」と適当な順番にしてみる.どうでしょうか.そういうわけにはいきませんか...

   

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国立公園での出来事

以前にとある国立公園での出来事です.そのとき,私はキャンプで一泊した翌朝で,これから帰路につこうかという時でした.ふと見ると幼稚園に通っているくらいの小さな子供が,虫網を持ってトンボを追いかけていました.あたりにたくさん赤トンボがいて,どうもトンボが好きなようで熱心に追いかけているようでした.実は私も昆虫は好きで,虫に興味があって夢中になる姿は,ある意味自分の昔を見ているようで,ちょっと懐かしくもあったわけです.

そんなときです.突然すごい怒号が聞こえてきました.あまりにすごかったので,びっくりして何が起こったのかと振り向くと...なんと!どうやら私の近くにいる子供に向かっているではありませんか.国立公園の管理人らしきおじさんは接近してきて,私の前を通り過ぎてその子の前まで行き,「ここで昆虫採集なんかしたらだめだろ!」と,ちょっとすごい見幕で子供に怒っています.驚いているのもつかの間,どうやら父親らしき人物が走ってきて,しきりにその管理人らしき人物に頭を下げているのです.そして管理人らしき人は「とにかく国立公園では昆虫採集は禁止ですから.いいですね!」と言い残し去っていきました.その後,子供はちょっとショックだったようで,「ねえ,なんでとっちゃだめなの?ほかの場所ならいいの?」みたいなことを父親に聞いているようでしたが,父親は妙に不機嫌な様子で,「とにかくもう行こう」みたいな感じではっきりとも答えず,二人で去っていきました.まあ,その後の親子の会話は何があったか分かりません.

はい.では私の不満爆発大会を始めますよ.笑 まず.この公園管理人.むちゃくちゃです.まず「国立公園だから昆虫採集してはいけない」というのは本質を全く逸脱してます.それは極論すれば「法律で決まっているので人を殺してはいけない」といっているようなものです.これはおかしいでしょう?次.子供にこんなに怒ることはないですよ.だって,貴重な昆虫を大量に採集する標本コレクターや,夜中に高山植物を盗掘する人間からこそ生物を守るべきであって,ある意味こんな小さな子供がちょっと網を振ったところで自然はびくともしないですよ.むしろ,子供のころのこういう自然の中での遊びは子供にとってはマイナスではないはずです.それを,この管理人のせいで暗ーい思い出にされてしまったわけです.しかもよく意味も分からないまま...

父親も父親です.あんたが不機嫌になってどうする?子供がかわいそうでしょ.子供にフォロを入れてあげて欲しいですよね.「今のおっちゃん怖かったね.」とでも.笑 そして管理人がだめな分,父親がちゃんと説明もしてあげなきゃいけないですよ.

よく子供は正直だとか言いますが,大人が馬鹿なんじゃないですか.大切な部分は一度もでてきません.確かに難しいかもしれないですが,国立公園が何なのか,そしてどうして生き物をとらないようにみんなで取り決めをしたのか,ということを説明しようと試みなければいけないんじゃないでしょうかね.子供はたぶんそれを求めているのに,誰もそれには答えようとしないんです.ああもう.なぜもこんなにもどかしいんでしょうか.

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