日本について考えるブログ




スポンサーサイト :: --/--/--(--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. スポンサー広告
体罰の是非・げんこつの是非 :: 2012/04/28(Sat)

学校教育における体罰は法律で禁止されている。法律で禁止されていなくても、僕は「体罰」には反対だ。自分はやらないし、受けたくもない。しかし、厳密な話をすると、「「全く実りのない体罰」には反対だ」が正しい。

体罰を必要だと主張する人は、現代にも少なからずいる。そういう人の中には、体罰を受けて感動した、という人がいるようだ。一人では気づけなかった、言葉では伝わらなかったけど、先生ががつんと殴ってくれて、本当に自分は悪いことをしていたんだと心底気づいた、目が覚めた、だから先生には感謝している、みたいな。。。

かくいう自分も、小学2年くらいの子供の頃、その当時仲のよかった友達と、よからぬことをして、それが親にばれて、父親にがつんとやられた覚えがある。その翌日、学校でも職員室に呼び出され担任に説教されたけど、先生の説教と親の体罰、どちらが印象深いかと問われれば、親の体罰である。感動はしない。でも、自分のことを思ってくれた結果だと感じたのは、圧倒的に体罰のほうで、別にこれで親子関係が崩れた訳でもないので、意味があったと思っている。

げんこつにしても、びんたにしても、体罰に意義を見いだすなら、それは相手のことを思って行うものである点だろうか。結果的に相手のためになると信じて行う一種の「善行」なのだ。自分に付き従わせるための暴力では決して無い。それが体罰は必要だと言っている人の感覚ではないだろうか。しかしながら、自分が相手のことを思って行ったつもりでも、相手にとってそれが暴力だと捉えられたら全く意味がない。そういう意味で、価値観を含めて人間と人間の信頼関係が構築されている間柄でないと、げんこつを発動することはできないと思う。


****

しかし、こう書いておきながら、全く違う視点からこの問題を考えたい。体罰を受ける側からの視点。。。どういうことかというと、「なぜ体罰で自分が悪いと気づいて感動したりすることができるのか?」ということである。これは僕にとっては極めて不思議な感覚だ。

上に書いた自分の悪事に関しても、げんこつ食らっても僕は感動などしない。なぜなら、悪いこととは言え、自分が考えてやった結果だし、言い分もあるからだ。

何事に関してもそうだと僕は思う。何かしの「考え」をもって行った行為なのであれば、それが仮に一般には悪いことであったとしても、もしくは後になって悪いことだと気づかされたとしても、だからと言って自分の行為を完全に否定することはできない。高校のトイレでタバコを吸って、それは社会的には、健康的には、法律的には、いけないことではあるけど、吸った本人にとっては「やるべきこと」だったんじゃないの?と僕は思うのである。だから、もし体育教官室で体罰受けて、「目を覚ませ!」と愛情を持って言われても、効果はない。考えて行った行為はすなわち、眠ってなどいないってこと。

しかし教師の体罰に感動し、感謝する人もひょっとしたらいるかもしれない。そういう人の心の奥底には何があるのだろうかと考えてみた。

ひとつは、上下関係のようなものを求めるが故かな、と思う。言葉で注意されたり、なぜいけないのか説明された場合、こちらだって弁解したり、持論を唱えることもできるだろう。言葉は相互のコミュニケーションの道具だから。しかし、体罰とは一方的なので、そういう余地がない。悪は自分で善が相手と受け入れて、自分を相手の下にすっかり置くことになる。潜在的に、序列関係や上下関係、何かへの帰属を求めている人には、そういうことでも安心をえられる人にとっては、体罰は魅力的で美しいものなのかもしれない。

他の可能性として、思考停止故、というのはどうだろうか。何も考えていない人。友達もやってたのでなんとなく自分もやってみた、、、のようなタイプ。何も考えないで悪さをしたのなら、それが本当に悪いことだと、真に気づかさせてくれた相手に対して感謝するかもしれないだろう。勝手気ままな自分を力でもって正しい道に戻してくれたことに感動するのかもしれない。まあしかし、このケースも上の上下関係や帰属意識につながるような気もする。何も考えていない人は他者依存の性質があり、そんな自分をだめな人間だと位置づけた上で、大きな存在の下に自分の身を置きたいのかもしれないから。。。


自由に考え、自分の意志で行動する人々が暮らす社会、また、そういう人間を育てていこうとしている社会において、体罰のような概念は是非を問う前に存在する事自体が無理だろうというのが、僕の考えである。
スポンサーサイト

テーマ:子育て・教育 - ジャンル:学校・教育

  1. 教育
  2. | trackback:0
  3. | comment:2
手本とは? :: 2011/04/17(Sun)

お手本に心ときめかなくては.

僕は,学校の授業の書道の時間が嫌いだった.というのは,僕がきっと筆で字を書くということが大好きだったからだろう.

今の時代,生まれて最初に手にする筆記具はやはり鉛筆やボールペンであって,毛筆ではない.自分もそうだった.だから,初めて硯で墨を磨り,筆に墨を含ませて半紙に字を書こうと筆を下した瞬間のあの自由,そして自由故の不安感が忘れられない.何をどう描くも自分の手に全てがかかっている.いや,手だけじゃない.腕,いや体全体が筆を動かすために必要とされているように感じた.しかしどうしたらいいのか分からない.案の定,とんでもなく下手な字になった.

それでも毛筆にはまってしまった自分は,習字セットを家でも開いて字を書いていた覚えがある.好きな字を,好きなように書くことが楽しかった.自分の気持ち次第で,字の表情が変わるのが面白かった.鉛筆で書いてもこんなに表情は変わらない.

そんな具合だったから,小学校の習字の時間の「お手本」というものは,ただの参考程度に思っていた.「青空」という毛筆のお手本は,いろんな人が青空をそこそこ上手く書けるためのガイドラインとして,標準的な上手さで書かれてあるもの.これを参考にしつつ,自分の好きなように青空と書けばいい,と勘違いしていたのである.

ところがどうも,そうじゃなかった.まず,あのお手本は,お手本どおりに真似して描くべきものだということに気づかされた.なぜなら,先生が「朱墨」なるもので,お手本に近くなるように字を修正するのである.人が書いた字をその上からオレンジの墨で修正するという行為に衝撃を受けて,それでもう書道の時間は嫌いになった.僕は今でも朱墨を見ると気分が悪くなる.こういうのをトラウマというのだろうか.

手本とは何だろうかと考えてしまう.手本はとても整っていて標準的だ.誰からも下手な字だとは見えないように書かれている.だから,下手な字を書きたくなければ真似をすればいいのだろうか? 僕はそうではないと今でも思っている.真似をするとむしろ下手な字になるように感じるのである.同じように真似して書こうとするよりも,整って見えるポイントはどこなんだろうか,と考える方がいい.そしてそのポイントを念頭にあとの場所は好きに書く,その方が達成感がある(ただし,一般的にはこっちの方が下手な字だと見なされるかもしれないけども...).だから,やっぱり僕にとって手本はガイドライン.参考にするべきものであって,それ以上でも以下でもない.

自分は日本では相当の変わり者だった.しかしそれは今だから分かっていること.当時はどうしてこんなに自分は理解されないのだろうと不信に思っていた.

僕は何かを表現したりすることが好きだった.このタイプの人間は日本の教育現場では本当に苦痛...を超えて心底辛いんじゃないだろうか,とそう思う.自分がそう感じていたように...何かを創作するということにあまりに日本の教育現場は理解がなさすぎる,ように思う.

僕の場合,幸運にも(幸運なんて言っていいのか分からないが...)科学も大好きだった.自由に表現することはたいてい嫌われたが,科学的なことに対する突飛な行為は否定されなかった.夏休みの宿題でルリタテハという蝶を卵から成虫にまで育てて日記をつける,なんてことは常識からはずれた行為だと思うのだが,こういうことはひとまず受けていた.

今,僕の手本はユーチューブである.そう,クラシックギターを本格的にやりはじめた今,上手い方の演奏を動画で手軽に見ることができるのは感動的だ.少し前まではこんなことは不可能だっただろうから,まさに今この体験は奇跡的なのだ.しかし手本にするとは言え書道のお手本みたいに整った演奏ばかりじゃなく,とっても個性的でかっこいい演奏とか型破りな演奏とか動画の中には何でもある.こういうものは真似するなといわれても,ちょっと真似てみたくなったりするものだ.

ああ,なるほど,学校の書道の時間のあの「青空」というお手本に僕は興味をひかれなかったのだ.まねしたくならなかった,ということかもしれない.

今の学校の習字の時間.どんな感じなのか僕は分からないが,同じ字で複数種類のかなりイメージが異なるお手本を用意するというのはどうだろうか.自分がときめくタイプのお手本がその中にあれば,きっと楽しく真似できる,かも!?そして真似しながら上達も見込めるってものだ.

ブログランキング・にほんブログ村へ  

テーマ:教育 - ジャンル:学校・教育

  1. 教育
  2. | trackback:0
  3. | comment:4
言い訳が聞きたい :: 2011/03/06(Sun)

意義のある「言い訳」もしくは骨のある「弁明」が好きです.

小学生の頃,毎日のように遅刻してくるクラスメイトがいた.毎日先生に叱られて,その度に日替わりで何か言い訳をしていたのを覚えている.言い訳をして,嘘をつくな,言い訳するなと先生に再度叱られ,ごめんなさいと謝って終了する.もうこれはほとんどコントのようなものだった.今日はどんな理由が飛び出すのかと誰もが楽しみなのである.これは真剣な弁明ではない.だからもちろん全て嘘だと誰もが分かっていたけど,一度だけ道に蛇がいたから遅れました,という言い訳があって,いいわけするなと言ったら,鞄から本物の生きた蛇が出てきたこともあった.(笑) クラスはパニック! (注: ただし,僕の生まれ育った場所では蛇はそれほど特別ではありません.) でもこれも蛇が道をふさいでいたのではなく,逃げていく蛇を追いかけて捕まえているうちに遅刻したのだろうから,やはり嘘だったろう.(笑)

にしても,この毎回繰り出されていた遅刻の言い訳は,今思えばハイレベルな言い訳なのかもと感じる.日本には卑下の文化があるから,それとうまくからめて,なおかつ場の空気を和らげ人を心地よくさせ,最終的に謝罪に着地する.遅刻の理由はみんなを笑わせる,「芸」だったのかなぁ...

「いい訳」という言葉は非常に難しいニュアンスがあると感じている.例によって辞書を調べてみると,そこには「筋道を立てて説明すること,自己の事情を説明して,弁解をすること」とある.つまり,辞書の上ではほとんど弁解・弁明と同じ意味ということになる.

これは語源を考えると妥当だ.古語で「いひわけ」は状況を説明することの意味である.またそれだけでなく謝罪する意味もある.これはおそらく庶民の間の言葉ではなく,身分や序列と関係した言葉だ.昔,何か問題を起こした人間は,役人に呼び出され何のいひわけもせぬまま罰せられた.ここで「何があったのか申してみよ」と言われれば「ははあ...実は○○ということがございまして...本当に申し訳ありませんでした」となる.○○がいかに不可避な致し方ない事情であったとしても,それでも悪いのは私です,申し訳ありませんでした,と結ばれるわけだから,「いひわけ」は謝罪の意味もあるのだと思う.状況を説明するというのは謝罪する機会が得られたとも言えるだろうか.

しかしながら,現代日本人はそんな言い訳さえもできなくなってはいないだろうか.

社会人になっても遅刻する若者というのはけっこういるようで,僕が知る知人の会社の部署でもそれが問題となっていた.そしてついに上司が遅刻を指摘した.どうして毎日遅刻するのか,何か理由はあるのか,と...そうすると延々と「すみません」を繰り返すばかりで,何の説明もなかったという...もちろん生きた蛇も出てこない.

ああ,たのむから言い訳してくれ.これが僕の心の叫びだ.できることならもっとハイレベルな弁解も聞きたい.その上司だって何か説明が聞きたかったわけよ.説明を聞くことができれば,何か対策を考えたり,アドバイスもできる.そうやって人は前に進んでいく.

今話題の,入試カンニングで逮捕までされてしまった学生も,是非ともこっちが考え込んでしまうような言い訳や弁明をしてほしい.これは僕の個人的な,でも熱烈な希望だ.僕は社会のルールや規則に平々凡々と従って何ひとつ疑問に思うことなく過ごしている人よりは,そこから逸脱して何か問題を起こす人の方がずっと魅力的に思っている.そういう人は世の中の常識や当たり前のことに対して,敏感に「何か」を感じ取っている感性が鋭い人だと思っているからだ.しかしそういう人が「すみません.私が悪かったです」を繰り返していては何も生まれない.是非自分の行動に意味や理由を見出し,たとえ非が自分にあることは避けられないくても,他者に対して新たなことに気づかせてくれる素晴らしい弁明や言い訳が僕は聞きたい.そんな言い訳は,ちょっとずつ社会の構成をずらして動かしていく力を持っていると僕は思っている.

テーマ:教育 - ジャンル:学校・教育

  1. 教育
  2. | trackback:0
  3. | comment:4
好き嫌いに関する考察 :: 2010/07/04(Sun)

食べ物の好き嫌いがある=駄目なこと
ってことはない.


日本では,何でも食べることができて,好き嫌いが無いことが良しとされる.だから,学校給食で,好き嫌いが激しい人は時に拷問のような状態になる.昼休みもずっと一人残されて,嫌いな食べものと葛藤,なんてことになるのだ.特に,日常誰でも食べるようなものが嫌いだったりすると非常に辛い.

小学校の時,クラスに椎茸が全く食べられない人がいた.しかし,学校としては「頑張って残さずちゃんと食べなさい!!」というスタンスだ.残す,捨てる,なんてことは言語道断である,と...椎茸なんて1週間の給食で数回はどこかに入っているから由々しき問題だ.

斯く言う自分も,給食では嫌いなものがひとつあった.それはグリーンピース.これも週に1回は必ず何かに入っている...ハヤシライス,カレーライスは言うに及ばず,八宝菜とか肉じゃがにも入っていた記憶がある.何とか頑張って食べていたが,気持ち悪くなると錠剤のように飲み込んでいた.

そんなわけで,グリーンピースにはトラウマがある.新鮮で美味しいものは大丈夫なのだが,3色ミックスベジタブルの中のグリーンピースは今でも吐き気を感じることがある.昔給食で味わった嫌なグリーンピースの味がして,脳がそのように情報処理してしまうようで.

食べ物の好き嫌いにはいろいろなタイプがある.簡単にまとめてみる.

生理的な理由:
食感や味や匂いや形態,さらにはそれから連想する何かが耐えられない,というもの.例えば,魚の生臭さや,セロリの香りは吐き気がするとか,ピーマンの苦さがとても変だ,とかそのような理由...次に食感.これも重要な要素で,椎茸をはじめキノコ類が駄目な人は,あの何とも言えない食感を気持ち悪いと思っている場合が多い.また,食べ物の形態から嫌悪する人もいる.ブロッコリーやカリフラワーの姿が気持ち悪くて食べられないとか,そういうタイプ(多分,感受性が豊かな人です.).極端な例を出せば,シロウオの踊り食いが無理だったり,芸能人が熱帯ジャングルで昆虫を食べられずに騒いでいるのも,たいていは生理的な理由.

アレルギーなどの理由:
体が食材のある成分に反応して,抗体(生態防御蛋白質)を過剰に生産してしまうことをアレルギー反応という.蕎麦や胡瓜やセリ類が多いが,アレルギーはどんな食材に対しても起こりうる.パンを常食する国の人には小麦アレルギーなんてものもある(これは悲惨です).子供の頃はアレルギーだと理解できず,大人になってなるほどアレルギーだったのかと気付くこともある.または大人になってからアレルギーになることもある.

体質的な理由:
アレルギーと似ているけど違う体質的な理由.例えば,生の玉ねぎを食べると,後味が気持ち悪くて気分が悪くなる,とか,チーズを食べると気持ち悪くなる,とかそういう現象.これはアレルギーではなくて,食材のある成分を分解する消化酵素の量に個人差があることに由来する場合が多いと思う.お酒は好きだけど一口しか飲めない,というのもこの理由.生野菜が全く食べられない人というのもいるが,僕はこれも体質的理由に入るんじゃないかと推測する.そういう人は体質的に普通の人が野菜から摂取する栄養素も肉からだけで賄えるようになっていたりするかもしれない.生に限らず野菜全般が食べられない人もいるが,植物に共通の何かの成分を代謝する酵素が少ない,とか,何かそういう可能性もありうる.もちろん農薬が心配でトラウマになっている人は,体質じゃなく生理的要因だが...

宗教的理由:
日本にはほとんどないけど,こういうのもある.


とは言え,子供の頃の好き嫌いの多くは,自分が不味いと感じるものは食べたくない,という率直な欲求だろう.ピーマンが嫌いなのは,ピーマンの味が嫌いだから食べたくない,というシンプルな意思表示,というわけだ.上記の理由の中では「生理的理由」になるのだろうか.

現代では別にピーマン食べなくても栄養失調になるわけでもないので,極論すれば食べなくてもいい.しかしそれは駄目だと厳しく叱って,で子供もさらに反抗心が強まって,,,という悪循環もあるかもしれない.

子供は食べ物の味に対してけっこう敏感なのだろうと感じる.ピーマン,人参,春菊,セロリ...こういう香味野菜が持つ独特の香りは,たいてい植物が独自に作る二次代謝産物由来だろう.味覚臭覚というのは経験するうちに理解して習得していくものとされているので,経験回数が少ないうちは,このような野菜の味は大人よりも過剰に激しく感受するのである.この感覚は経験が増えるうちにある意味鈍っていくのだ.

そういう意味では,好き嫌いがやたら多い子供がいたら,「うちの子は鈍感じゃないわ!」と思うべき.笑 いや,それくらいのゆとりが大人には欲しいものだ.そうすれば給食の拷問はきっと無くなる.

好き嫌いをなくさせようと大人が努力できるとしたら,例えばピーマンだったら,適当な野菜炒めじゃ駄目で,あの苦い風味が生きたかなりハイレベルな料理が必要かもしれない.しかしそもそも苦味も美味しさだと経験で習得されていくので,嫌いな子供にすぐに分かれと言うのは難しいものかも...一方,好き嫌いをしている身になって考えるなら,自身の好奇心を磨く以外に方法はない.ピーマンの美味しさを探すのは他でもない自分なのだ.

ブログランキング・にほんブログ村へ  

テーマ:子育て・教育 - ジャンル:学校・教育

  1. 教育
  2. | trackback:0
  3. | comment:6
言葉と文化は一体 :: 2009/02/28(Sat)

外国語の習得は,単語や文法を覚えようと思ってもうまくいかないのだろうと思います.言葉は,その国や民族の文化や思想と深い関係があるから,それを知ろうとすることも必要でしょう.日本語を流暢に話す外国の方は,例外なく日本人の考え方や文化をよく理解しておられると感じます.

先日,ギニア出身の人と飲む機会がありました.ちょっとしたきっかけで彼とは知り合ったのですが,研究関係以外の外国の方と話す機会は最近は減ったこともあり,とても楽しい時間を過ごしました.

彼は,もう日本語を完璧にマスターしていて,会話はすべて日本語だったのですが,それにしても改めて凄いことだな,と思います.彼は日本に来て確か7年になると言っていましたが,ギニアで日本語の教育を受けたわけではもちろんないわけで...スペイン語をほとんど知らない私がスペインにいきなり行って,7年住んだらスペイン語がぺらぺらになるか,正直なところ自信はありません.

彼と話していて,文化と言語は本当に一体なんだなぁ,と改めて感じました.日本語を完全にマスターするということは,それは日本的な習慣や考え方をマスターすることでもあるのでしょう.「あんまり気にしていても始まらないよね.」とか「僕だって同じだよ.」とか「いやいや,それは本当に悪いので割り勘にしましょうよ.」とか,すっごく日本人的なことを彼は,正しいタイミングで使ってくる.しかも無理してではなく,すごく自然に.

まあこれは彼に限らず,日本語を流暢に話す外国の方は皆そうだと感じます.

一方,自分に目を向けてみると,やはり思い当たることがあります.海外であちらの人とばかり毎日毎日英語でしゃべっていると,自分の性格が少し変わっていることに気づくことがあるのです.端的に言えば,中途半端な「遠慮」のようなものがなくなり,何事にも理由付けを行って自主的に行動し発言するようになる.そしてそれは英語という言葉ととても合っている気がします.

自動車デザイナーの奥山清行氏も自著の中で述べられていました.長期休暇で日本に帰国するとき,飛行機の中で自分の頬がゆるみ,日本人に戻っていくのを感じる,と.笑 ああ,そうなんだろうなあ,とすごく思いました.

英語をしゃべる時に性格が変わらなきゃいけないほど,日本が特殊環境であり,気持ちが内向きなのでしょう.そして,文化や思想と言語は一体のものであるなら,日本人がこれほど英語が苦手なのは,文法が違うからとか,発音が全く違うからというよりも,むしろこの文化思想の隔たりが主な要因であるかもしれません.であるなら,小学校から英語教育をやっても無駄であることは自明ですね.笑 小学校も高学年なら,みんなもう立派な日本人だ.

私の研究室のメンバーが家族で2年ほどドイツ・ミュンヘンに行っていたのですが,ドイツ語会話を習得することはやはり難しいようです.まあ,職場には外国人だらけで基本的に皆英語をしゃべるので,ドイツ語は上達しないというのもあると思います.しかし,一番下の小学校に上がる前の子供は,ドイツ語のテレビを見て楽しく笑えるし,何と言っても発音がすばらしくいいのだそうです.たった2年で!そして,食の好みにも変化が...肉が大好きになってしまって,「肉が欲しい,肉が欲しい」と言うのだそうですよ.周囲の環境を感じ取り,学び吸収する能力というのは,小さな子供ほどすごいものです.一方,上の子は小学生なのですが,ドイツ語は全く身につかなかったのだそうです.ひょっとしたら,ソーセージはもう見たくないと思っているかもしれません.笑

ブログランキング・にほんブログ村へ  

テーマ:語学の勉強 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 教育
  2. | trackback:0
  3. | comment:4
泣き止まないなら置いていくよ! :: 2009/02/21(Sat)

泣き止まない子供に対して親が言う「泣きやまないなら置いていくよ」という言葉は,「金を出さないなら殺すぞ」と同じ構文.つまりこれは,親が子供を従わせるために「脅迫」しているのであり,子供に対する人権侵害ではないのですか?

スーパーマーケットなどで,時より見かけるのですが.子供が駄々をこねていて,泣いている.そうすると苛々が頂点に達した母親が,「泣き止まないならおいていくよ」と言うのです.それでまた子供の泣く声の音量が一段とパワーアップ.それで,本当に置いていこうとするお母さんがいます.

そして最近,ついに本当に怒って子供を置いて一人で帰っていった母親を目撃してしまいました.まあ,本当に帰ったんじゃないと思うんだけど,しばらく母親は現れない.子供はもう何がなんだか分からなくて大泣き.それで,すぐ近くでお惣菜を売っていたおじさんが店から出てきて,子供に話しかけ,お母さんを呼んでもらおうと言って,多分迷子センターかどこかへ連れていきました.それで,しばらくした後に放送が流れました.

「迷子のお知らせをします.○○からお越しの○○ちゃんのお母さん.至急....」

・・・・・

本当にこの国は狂っているのか?とここまで思うのは自分だけなのでしょうか.でも本当にこういうのは私はありえないと思う.お惣菜屋さんの優しさを感じる対応だけが救いです...

私はよく聞く「泣き止まないなら置いていくよ」には本当に憤りをおぼえる.まず「置いていく」という言葉.子供はモノなのか?置いていくという言葉,そんな使わないでしょう.しかも真剣な意味で人に対して他に使いますか?私は子供に言っているこの言葉は冗談には聞こえない.たいてい親もすごい剣幕でいらいらしているんですから.

そう.真剣に置いていくぞ,と脅しているのです.「泣き止まないなら置いていくよ」は「金を出さないなら殺すよ」と全く同じ構文になっていること,誰も自覚してないんだろうな.つまり,これは脅迫ですよ.脅迫.こんなことを,小さな子供に向かって親が言って,そして泣かせているわけです.

どんな事情があろうと,こんなこと言っては決していけません.子供の人権はどこにやら.

しかし最後に全身の力が抜けてしまったのは,「迷子のお知らせをします」という放送.どこが迷子じゃ.子供は迷子になんかなっていない.「○○ちゃんのお母さん.○○ちゃんがお母さんを探しています.至急...」と放送しなければいけない.実際,そういう放送私は聞いたことありますよ.どうして迷子にさりげなくすりかえられるのでしょう.子供は全部見て聞いて,そしてこの日本社会のことをこうして知っていくんだろうな...涙

関連記事:練習という名の悪魔
      :飛行機が墜落する?
      :国立公園での出来事

ブログランキング・にほんブログ村へ  

テーマ:子育て・教育 - ジャンル:学校・教育

  1. 教育
  2. | trackback:0
  3. | comment:4
バスの中での出来事 :: 2008/07/06(Sun)

私は職場までバスで通っているのですが,ちょっと今日はひどいと思うことがありました.(少なくとも,私にとっては...)

帰りのバスに乗ると,高校生がちょうど部活帰りの時間で,込み合っていました.疲れてる生徒は寝ていたり,友達どおしで話している生徒もいるのですが,残りの生徒は,特に女子生徒はだいたい何をしているかというと「携帯でメール」です.まあ,こんなの今や当たりまえで,携帯電話はもう日本人にとっては不可欠なコミュニケーションツールなわけです.

バスの中では,一応「乗車中は電源をお切りください」ということになっていています.(札幌のこのバス会社は,マナーモードじゃなく,電源を切るように放送しています.)だからこれは違反ということになります.しかしですね.バスに乗って携帯電話の電源を切る作業をしている人を私は見たことありません.正直,私も切っていません.マナーモードにならしている人はもちろんいると思います.いきなり携帯が鳴って慌ててマナーモードにする人もいます.でも正直な話し,小声で話し始めたり,何悪びれず大声で応答するおじさんやおばさん,私は何度も見たことあります.むしろ高校生たちは,常に静かにメールしかやっていません.

今日の運転手は高校生に対してとにかく威圧的でした.信号待ちでバスを止めると,マイクを使って「今,携帯電話を使っている人はすぐに電源を切ってください.バスの中で携帯電話は禁止です.お客様の迷惑になるので止めて下さい.」と言うんです.そして生徒がバスを降りる時も,説教をするんです.「携帯電話の電源はちゃんと切ってください.守れないんですか?」みたいなことを言うわけです.しかもマイクを通しているのでお客さんはみんな気づきます.生徒たちはなんとなく,むかついた感じの表情ですが,でも一応小声で「すみません...」と言って降りていきます.そりゃあ見ず知らずのおじさんに,沢山の人が乗っているバスで怒られたら,むかつくか,ショックを受けるんじゃないかと感じます.「なぜわたしが?」と思うでしょう.あれは一種の見せしめです.

私としては,彼女らは人前であのように注意されなければいけないほど悪いことをしているとは全く思えません.もう,運転手に何か言ってやろうかと本気で思いましたが,まあ,今日は...機会を逸しました.汗

私は携帯でメール打っても「人の迷惑」になんかほとんどなっていないと思います.大声で騒いでいるわけでも,電話しているわけでもない.文庫本を読んでいるのとどこが違うかと言えば,たいして違いません.だから,携帯メールをしている高校生を見て,迷惑だと思っている乗客はそんなにいないはずです.なぜ高校生を責める必要があるでしょう.もしこの件に問題を感じるなら,高校生を責めるのではなく,携帯をこれだけ普及させ,携帯に依存してしまうような日本人の気質であって,それはもっと広い視野で日本というものを考えなければいけないことです.

それでも「車内では電源を切る」と決まっているわけだから,それを違反した場合怒られてもいいんじゃないか,という意見もあるかもしれません.確かにそうです.でも,そういう意味では私はそもそも「車内では電源を切る」という「規則」の存在の意味が分かりません.切っている人なんてほとんどいないはずです.高校生じゃなくてもメール打っている人は大勢います.つまり形式化されただけの規則で,大切な中身が伴っていません.テレビニュースでは,そういう決まりを無視して,美味しい汁を吸っている大人たちの醜態が日々流れているんです.決まりはあっても無いようなもの,というのは珍しくありませんし,「形式」と「実際」の大きな違いがこの日本に存在することくらい,高校生はもうよく理解しているはずです.総合判断で,バスの中でも携帯でメールくらいいいだろう,と思っているはずです.

それから,この件でもうひとつ考えなければいけないのは,高校生への愛です.これがバスの運転手からかけらも感じられない.もし愛があって注意するなら,それは本当にいい(正しい)と思います.しかしそれなら,例えばマイクを通さず,生徒が降りるときに「携帯は車内では禁止だから電源切ってちょうだいね.」とでもさりげなく生徒に言うべきでしょう.それなら,「運転手の真剣な気持ち」が生徒に伝わるかもしれません.

私には,今日の出来事は,年配者が行う未成年者への「陰湿ないじめ」にしか思えません.すごく気分が悪いです.こうやって若者は歪みを作られていくんだなぁ,と感じます.非常に悲しいです.

 

  1. 教育
  2. | trackback:0
  3. | comment:5
飛行機が墜落する!? :: 2008/02/14(Thu)

先日,飛行機に乗ったときの話です.私のすぐ後ろの席に親子連れの客が座っていました.両親と3歳くらいと思われる男の子の三人連れ.そして,席についてしばらくすると,子供が大きな声を出して騒ぐようになってしまいました.まあ,こういうことはたまにありますよね.さすがに,飛行機の中という狭い空間で,しかも客もそこそこ乗っていたので,親は自分の子供に「静かにしなさい」と注意します.しかし,今回の親の注意はなかなか面白い言葉だったんです.どういうものかというと,「静かにしなさい.騒ぐと飛行機が落ちちゃうよ.」最初は全く気にならなかったのですが,子供が大声を出すたびに,「しっ!飛行機落ちちゃうから静かにしなさい.」と言っています.ある時から急に可笑しくなってきてしまって,心の中で「いやぁ,さすがに落ちんやろう」なんて思ってしまったのですが,その後も親の繰り出す注意は決して「落ちるから静かにしなさい」以外の内容は出てこないのです.飛行機が上空に達して,子供が静かになるまで,たぶん10回以上は「飛行機落ちちゃうから静かにしまさい」を聞いたと思います.

これは,なかなか不思議な注意の言葉です.なぜ「お客さんの迷惑になるから静かにするのがマナーなのよ.だから静かにしなさい.」というような意味の言葉を言わないのでしょうか.これを考察すると深い世界に入っていきそうなので,今日は止めます.笑

よく考えてみると,この手の話しは他にもたくさんあると思います.例えば「静かにしないと鬼がやってきてさらっていっちゃうよ」とか「となりのおじさん怒ると恐いから静かにしなさい」とか,そういう類の注意です.すべてに共通していることは,内容が虚偽であること,そして子供がいけないことをしているという自覚を促さないことです.第三者を加害者に見立てて,子供を弁護しつつ,でも被害に遭っちゃうのは避けなければいけないから,静かにしようね,と助言しているんですよね.悪いのは堕ちる飛行機,鬼,となりのおじさんです.

まだ幼い子に「マナー」とか「公共の場」なんて言っても分からないよ,という人がいるかもしれませんが,だからと言って,飛行機墜落,鬼,おじさんを持ち出すことの意味があるのでしょうか.本質を隠して,子供だからと言って騙しているように私には感じるんですよ.鬼にさらわれる,それは恐いから騒ぐのは止めよう,みたいに子供が本当に思ってしまうとしたら.これはとんでもない騙しです.一方,親はそう言ってるけど,鬼なんていないよ,と思っているなら,これほどバカにされている言葉はないわけです.だから子供への愛のようなものをこういう注意からはどうしても感じられません.私は,子供には難しいにしても,なるべく分かり易くちゃんと説明すべきだと思います.そして,ここで騒ぐのはいけないことだ,とちゃんと指摘してあげる必要を感じます.それこそが教育というものでしょう.もちろん優しく,愛をもって.英語のeducation(教育)の意味は,その人の能力を開花させる手助けをすることです.子供へのこうした正しい注意もまさにこの教育の意味になると思います.人間は人への思いやり,配慮,という考え方を生まれながらに持ち得ると思いますが,それをちゃんと引き出させてあげるのは親の役割だと思うんです.

関連記事:国立公園での出来事
      :教育の意味と役割

 

テーマ:子育てについて - ジャンル:育児

  1. 教育
  2. | trackback:0
  3. | comment:2
練習という名の悪魔(後編) :: 2008/02/09(Sat)

子どもたちから「自主性」を奪うもの,それは日本の学校教育だと思います.私は残念ながら,現在の日本の教育現場を知りませんが,まあ話を聞いて推測するに,私が子供だった頃とたいして変わってない気がします.

まず日本の一般的な小学校や中学校でやること,それは「知識の強要」と「強制的な学習(練習)」です.例えば,私は漢字練習帳に同じ漢字を何度も書く宿題をやらされた記憶がありますが,こういう練習帳は今も店頭で売られているので,きっと同じことをやっているのでしょう.自分から「繰り返し書いたら覚えられるのでは」と発想したのならやってみる価値がありそうですが,強制的に練習帳に何ページも漢字を書かされたところで,抑圧以外の何者でもありません.これを「抑圧」と感じずに「自分のためになる宿題なんだから真剣にやらなければ」と自主的でない宿題に対して自主的感覚で打ち込める生徒はどれくらいいるでしょう.まあ日本人の大人は子供たちに「君たちのためを思っての宿題なんだよ」と思っているようですが,この発想そのものが高圧的であり,子供への愛のようなものがありません.

しかしまあ,勉強に関しては多少の強制力が必要なのかという気もするので,ここは一歩引いてよしとしましょう.それよりもっと大問題な「練習」があります.それは,学芸会での劇の練習や,運動会の行進や整列の練習,それから卒業式の練習などです.これらほど子供の人権を無視した練習はありません.心から劇を楽しむなんてことはありえないでしょう.むしろ劇に興味のある子供ならなおさらです.何のために劇をやるかなどはたいして説明されません.セリフを覚えさせられ,大声でみんなの前で演じる,そうすると親が褒めてくれたりする,「○○ちゃん,今日は頑張ったねぇ~」と.ただそれだけです.時には3人同時に大声で同じセリフを叫ばされたりしますね.何なのでしょうか...運動会においても,本番で一所懸命に走ったり応援したりするのは楽しいかもしれませんが,「赤組入場!」と言って行進してグラウンドを一周して入場するのが楽しい,意味があると思っている子供がいるでしょうか.大人たちは「意味がある」からそういうことを子供にやらせているのでしょうか.ならばどういう意味ですか?と問いたいです.嫌々でありながらもやらなければいけないほど大切な意味が行進や整列の練習にあるでしょうか.それから,卒業式の練習です.入学式は練習などしないのに,なぜ卒業式は練習するのでしょう.卒業証書授与の練習をなぜしなければいけないのでしょうか.子供たちは卒業式の練習をしたい,練習する意味があると思っているでしょうか? 

よーく考えてみると.学校で「練習」をたくさん「させられる」時は決まって,保護者が見にくるようなイベントなのです.ですから端的に言えば,これら「練習」の意味は,「親に学校のぶざまな状況を見られないように,軍隊的方法でもって子供を縛る」ことにあります.言いすぎでしょうか.私は全く言いすぎとは思っていません.先生一人一人がそういう具体的なことを実は考えている,とかそういうことはないと思うのですが,集団的・組織的にそのような意味づけが行われているのではないかということです.親も親ですね.そういう運動会の中にいる自分の子供の姿を見て喜んでしまいます.ビデオカメラを回しながら,自分の子供の映像をコレクションし,満足する父親がいます.これら親が見に来る学校行事というものの現場は,大人の子供に対する「集団いじめ」だと私は感じます.しかし恐ろしいことに,子供も親もそういう状況を全く理解できていません.確かに「悪意」はありません.そうやって「作られた」運動会や卒業式に涙してしまうこともあるわけですから...しかし本当に「空しい」という以外の言葉が見つかりません.

最も多感でさまざまな事を周囲から吸収する子供時代に,学校の環境がこれでは話しにならないのです.「考えること」ではなく徹底的に「形」と「従属」を「強制的練習」でもって教え込まれるのです.そう,そういうことを子供たちは教育されているんですね.苦笑 というわけで日本における主体性のない行動,思考の停止,パターン依存は,学校における「練習」という名の意味なき「強制」が主要な原因である気がしています.もしそうなら,教育現場を変えることはかなり効率的に日本を変えられるのではないかという気もします.日本人の学力レベルを上げるのではなく,主体性を向上させるための「教育改革」です.そのためには,まず子供が学校という空間でリラックスでき,抑圧ではなく自由を感じることが大切です.そのためには何が必要か具体的に考える必要がありますが,少なくとも運動会や卒業式の練習が不必要なことだけは明白だと思っています.

関連記事:練習という名の悪魔(前編)
      :贅沢は見方 by 東京事変

 

テーマ:教育問題について考える - ジャンル:学校・教育

  1. 教育
  2. | trackback:0
  3. | comment:4
練習という名の悪魔(前編) :: 2008/02/08(Fri)

いきなりですが「練習」とは何でしょうか.いつもどおりまず定義から入りたいと思います.練習とは,自らの技能を研くために繰り返しその動作や行為を行うことです.野球の練習と言えば,野球の技術をもっと磨き,より高度な美しいプレーが可能になるように自分の身体能力を高め,そして慣れさせていくことでしょう.ブラインドタッチ(touch typing)の練習と言えば,キーボードを見ずに文字入力ができるように,そのために必要な基本姿勢を習得し,指先の感覚を研ぎ澄ましていくことでしょう.

練習は英語でpracticeです.この単語は動詞としても「練習する」の意味がありますが,実際は「習慣的に行う」「実践する」「実行する」「企む」というニュアンスを伴っています.つまり,極めて自主的な動作を示す言葉です.そうですねぇ.嫌々やる練習では,技能の大きな向上はそれほど見込めないでしょう.もっと上手になりたい,という主体的な向上心が練習の動機付けなのです.似た単語でtrainやexerciseという単語もありますが,こちらはやや使役的意味も含みます.これは日本語でいうなら,稽古,訓練,特訓のほうがニュアンスとして合っているのかな,と思います.よって,この記事では「練習」を「practice」の意味で捉えることとします.

さて,日本において「練習」と聞くと,なんとなくうんざりした気分になることありませんか? なぜでしょう.私の感覚では,だいたい日本においては,「よし,練習しよう!」と自発的に思う時より「しっかり練習しなきゃだめよ」と他人から言われる場合の方が多いような気がします.特に年齢が若いほど...前者は,他人はともあれ自分に厳しくなくてはいけません.本気で技術を磨こうというのであれば,「練習」は苦痛を伴う可能性大です.スポーツでも音楽でも,「練習」という動作が楽しくて仕方ないというようなことは滅多にないでしょう.むしろ練習の末に自らの技術の向上を実感できたときにこそ,喜びがあるのだと思います.後者は自分はともあれ他人に厳しい言葉です.先にも言いましたが,練習は自発的行為によって最大の意味を持つはずで,それを他人が「練習しろ」と言うことは,本来の練習の意味合いからずれているような気がします.

私のこれまでの人生の印象として,日本人は「自分に厳しく他人に甘い」より「自分に甘く他人に厳しい」傾向を感じます.で,こう言う自分も,自己に甘くなることってけっこうあります.苦笑 時々「自分に厳しく他人に甘い」人に出くわします.ほとんどの場合そういう方は人間として尊敬できる人であり,器の大きな人であり,周りからとても慕われていますね.強い自主性,能動的向上心というのは人間を常に成長させる要素なのだと感じます.

さて,日本における「練習」ということば.この単語を最初に聞いたのはいつ頃でしょうか.幼稚園に入る前のまだ幼少期に,親から「練習しなさい」と言われることは滅多にないでしょう.いや,自転車に乗る練習をするかなぁ...でもこれは練習のきっかけは親であれ,自分の世界が広がるわけですし,「自転車の練習は本当に苦痛だった」なんてことはあまりないでしょうね.笑 むしろ自転車に乗ることは楽しいし,自発的にもっと上手く乗りたいと思うかもしれません.まさに本当の「練習」です.

しかしながら,そのような本来の「練習」という精神は,その後次第に消えていきます.子供たちは小学校,中学校,高校と進む中で,とんでもない「練習」にたくさん出会うことになります.自主性を育みうる子供たちの可能性が,「練習」によって摘み取られていく過程が日本の教育現場の中に見え隠れします.

この話は「後編」に続きます.後編はこちら


 

テーマ:教育問題について考える - ジャンル:学校・教育

  1. 教育
  2. | trackback:0
  3. | comment:0
次のページ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。