日本について考えるブログ




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ヴィスワ川 :: 2010/04/26(Mon)

憂鬱だ.心が酷く重い.思考が停止して何も考えられない.何の感情さえも沸いてこない.

何もかもが鉛色なのである.

旅とはこんな気持ちになるものではない.初めての国で,初めての風景を眺め,初めての人々と出会い,大いに心動かされ,きっと充実した時間を過ごす,いつもそう信じていた.

しかしそんな身勝手な常識は粉々に粉砕された.

街行く人々は,誰ひとり僕に気を留めてはいない.ここに重苦しい一人の日本人が歩いていることに誰も気付いていない.もちろん,もし声をかけられたとしても,僕は会話さえできない異邦人だ.ほんのわずかのポーランド語は知っている.だけどもそれは全く役立たないだろうことは,自分自身が一番よく理解している.せいぜい店に入り,何かを注文し,値段を訊いて,ありがとう,と言うだけのものだ.ジェンクーイェン,プシェプラシャム...そんな言葉を繰り返したところで,何がコミュニケーションなものか.

今日は朝から重たい雲が垂れ込めていた.寒風が吹きすさみ,粉雪が舞っては僕の体温を奪った.それでも僕は,ひたすらにワルシャワの街を歩いた.旧市街歴史地区,王宮,そしてショパンの生家も訪れた.欧州で一番美しいと言われるワジェンキ公園にも足を運んだ.すべては予定通りだった.でも僕は満足なんかこれっぽっちもしていない.歩きながら僕は,ずっと心に重石をかかえ続け,そしてその質量は少しずつ増えていた.

ヴィスワ川の流れに目をやる.川は分厚い曇天を映し,どこまでも鉛色である.これ以上に重苦しい色などどこにあるだろうか.

確かに僕は知っていた.知っていてこの場所を訪れた.この国の歴史のこと.そしてこの街で起きたこと.

1944年8月1日.ドイツ占領下にあったワルシャワには光が差しこんでいた.ナチスからの開放を目指すソ連軍がすぐそこまで進軍していたからだ.開放が間近と誰もが希望を胸に抱き,ポーランド軍はそれに呼応して蜂起した.祖国ポーランドを愛するが故に,多くの人々がソ連軍の到着を待たずに自ら立ち上がったんだ.それはきっと魂からあふれ出た何かだった.勝利はもちろん目の前にあるはずだった.

ところが...現実の世界で待ち受けていたものは,人間の歴史上並ぶものなき,狂気に満たされたおぞましい出来事だけだった.

ワルシャワ市街地を目前にしながら,ソ連軍は進軍を停止し,ヴィスワ川を渡らなかった.ソ連はポーランドを裏切り,目の前でワルシャワを見殺しにした.ドイツ軍はソ連が進行してこないと見るや,徹底的にワルシャワの街を破壊した.それは抵抗したことへの狂気的懲罰だった.雨のように爆弾を落とし,それでも満足せず建物という建物をダイナマイトで徹底的に破壊し,火炎放射器で焼き尽くしていった.しかしソ連は,それでもヴィスワ川を渡らなかった.レジスタンスに参加した多くのポーランドの民はテロリストとして延々と処刑され続けた.ひたすらに延々と...死者はついに20万人を超えた.

翌年,廃墟と化し力を失ったワルシャワに待ち受けていたものは,ソ連による入れ替わりの占領だった.残っていたレジスタンスは,今度はソ連によって自由を標榜するテロリストとして扱われる.ソ連は自由という二文字を,決して許しはしなかった.

でもこれは単なる知識にすぎない.知識は辞書の丸写しであり,冷え冷えとした言葉の羅列である.だから僕は知識から想像し,想像から生まれた映像に色を付けていた.ワルシャワの街に僕は無意識に色を塗っていたのだった.

だが,今僕が歩いているこの街は全てが鉛色だった.知識が現実世界と交差した時,全ての色を失った.石も空もコンクリートも工事中を示す看板も,ポルスキフィアットも,みな色彩を忘れていた.この断絶を埋め合わせることは僕には到底できない.想像できなかった.全て嘘ばかりじゃないか.本当のワルシャワはもう消えてなくなっていたんだ.

そうだ,早くホテルに帰ろう,明日は朝早い.クラクフに向かう鉄道のチケットは7時発なのだ.

仕事帰りの雑踏に紛れ,僕はトラムのプラットホームに立った.

そのときである.背後に人の気配を感じたのもつかの間,僕は強い力で背中を押され,突然大きく前につんのめった.大きな怒号が背後から聞こえる.すぐさま振り向いた僕は,そこに一人の老人の姿を認めた.明らかに彼は僕を見て,そして僕にポーランド語で再び何かを叫んだ.何だと言うのか?彼は何を僕に伝えたい?

冬の寒さをとてもしのげるとは思えないぼろぼろの衣服.そして乱れた頭髪...改めて彼の姿をしっかりと目に映した僕は,その老人の右手に刃渡り10センチ近くはあるナイフが握られていることに気づいた.

脳が萎縮する.体中の血液が行き場所を探して騒ぎはじめる.言葉で考えるよりも先に,体が硬直する.

彼は僕にゆっくりと近づいてくる.そしてナイフを僕の顔の近くにゆっくりとかざす.酷いアルコールのにおいが鼻を刺す.危ない!言葉でそう思った刹那,再び叫び声を上げた彼はそのナイフを一気に振りぬいた.


ナイフはただ空を切っただけだった.

脅迫されているのか?違う.殺されかけているのか?それも違う.一度膨れ上がった恐怖が胸の中で圧縮される...何かがおかしい.何かがかみ合っていない.この状況を危険とせずに何を危険としよう?ならば,一目散に逃げればいいじゃないか.酒に酔っているこの老人は僕にきっと追いつけない.簡単じゃないか.なのになぜ僕は今逃げようとしない?足がすくんでいるから?いや,そうじゃない...そうだ.そうなのだ.周囲の市民はなぜ騒がない?

少しだけ冷静を取り戻した僕は周囲に目をやった.雑踏はまるでここに僕と老人がいることに気付いていない.大声と刃物まで登場していながら,なぜ誰も騒がないのだ?

僕の視線は再び老人を捉えた.すると彼はナイフをゆっくりと左手に持ち替え,少しよろめいたように見えた.しかし彼の瞳は,全くぶれることなく僕を真正面から見据えていた.

――暖かな瞳だった.

彼は再び声を張り上げる.しかし次に僕の耳に届いたその音声は,間違いなく英語だった.

「プラウド!プラウド マイ カントリー!ポーランド!ヴィクトリー!」
そんなふうに聞こえた.

トラムが到着し,多くの人々がその中に吸い込まれていく.やがて扉が閉まり,トラムはゆっくりと発進していった.僕と老人だけが鉛色のプラットホームに取り残された.

それから彼は,ゆっくりと訛りの強い英語で語り始めた.それは戦争での自分の英雄伝だった.語りながら,ナイフは力強く何度も空を切った.

彼はとても誇らしげに,自慢するように語った.彼はそのナイフひとつで自分の身を守りぬいた.そのナイフで敵に切りかかり,祖国のために戦ったと言った.家族や友人や子供たちや,愛する人を守るため,そのナイフは祖国のために戦っていた.見るとそのナイフは酷く錆びていた.僕は当時のことを訊こうと何度も試みた.しかし僕の言葉は彼の耳に入らず宙を舞った.彼はただ,私は祖国を愛している,ポーランドを誇りに思う,我々は最後には勝利したのだ!そう何度も繰り返した.

いつの間にか手にしていた強い酒をあおった彼は,そのボトルを投げ捨て,それから静かに微笑んだ.そしてゆっくりと右手を上げると,どうすればいいのか分からず困惑する僕をホームに残し,よろめきながら去っていった.

ああ,ただの酔っ払いだったのだろう.

脱力した僕が立つホームに,次のトラムがゆっくりと到着した.強烈な金属をかきむしるブレーキ音が鼓膜を刺し,僕は我に返りトラムに乗り込んだ.そして混雑した車内で人々をかきわけ,運転手が座る前方へ前方へと移動した.

トラムはゆっくりとした歩みで動き始める.周囲の道路をポルスキフィアットがすごい速度で追い越して行く.急ブレーキを踏んではクラクションを鳴らし,幅寄せをしてはトラムすれすれに横切る車も見える.でもトラムは,その質量で圧倒的に勝っていることを知っているようで,堂々とゆっくりと進む.

急に霰が降り始める.バチバチと窓ガラスに霰が当たり,跳ね返る.霰はすぐに雪に変わって,道路は瞬く間にうっすらと白くなり,遠くの信号機は雪に霞み,道路と空気との境界は溶けた.トラムは淀みなくゆっくりと進み,交差点を右に曲がった.そこは旧市街歴史地区だった.戦後に再建された若々しい建造物群.淡いピンクや緑や黄色の建物が目に入ってくる.しかしそれはきっと,破壊される前の建物と同じに違いなかった.雪明りを受けた建物は美しく,目を閉じてももう,ワルシャワの街は鉛色ではなかった.初めて見るワルシャワの街だった.

僕は老人のことを思った.この雪の中,無事に家に帰れるのだろうか.いや,帰る家はそもそもあるのだろうか...彼が最後に見せた笑顔を思いうかべながら,静かに僕は気付いた.最後に彼が挙げた右手は...たぶんそれは「敬礼」だった.それからしばらく,僕は敬礼の意味について考えていた.

トラムはゆっくりと,ヴィスワ川を渡った.

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テーマ:ショート・ストーリー - ジャンル:小説・文学

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