世界遺産に落書き

「岐阜市立女子短大の学生6人が、世界遺産登録されているイタリア・フィレンツェ歴史地区のサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に落書きをしたとして、大学から厳重注意処分を受けた。」

http://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/K2008062403650.html

いやー,やってくれましたね.日本の女子大生,いわゆる暴走というやつでしょうか.周りが見えてないのか,わざとなのか,その辺はさっぱり分からないですが...苦笑

ところで,重要なのはここからです.大学側は事態を重く見て,イタリア当局に謝罪し,修理費用を払わせてくれと申し入れたそうですが,断られたそうですね.反省してもらえればそれでいいと.

多分,世界遺産を管理しているイタリア当局は,本当にそう思っていると思います.だって,落書きされることは想定外だったでしょうから.彼女たちもいろんなストレスたまっていたかもしれないし,この件の重要な部分は,お金の問題なんかじゃないということです.管理者にも守れなかった責任があると感じているかもしれません.やった日本の女子大生に思慮が無いのはもちろんですが,そこを積極的に責めても「進歩的でない」と考えているのだと思います.これこそ,私の感じる「相互理解のある関係」です.イタリア当局と大学の問題でなく,落書きをした女子大生もこの関係の輪の中に入っていると感じます.

いいでしょうか.ここで大学が費用をイタリアに支払って「あなたたち,もう二度とこういうことをしないようにしてください.いいですね.」と厳しく注意して済ますのなら,場合によってはまたやりたくなりますよ.「なんか,むかつく.」というやつです.これを権力による「抑圧」と言うんです.イタリア当局のように「反省してもらえればそれでいい」と紳士的対応であれば,彼女たちも本当に反省して,もう二度とこういうことはしないんじゃないだろうか.と私は本当に思います.

とにかく日本という社会は,このような抑圧を少しでも排除する努力をしなくてはいけないと思います.いい国にしていくには,こういう所からだと思うのです.

 

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秋葉原通り魔事件

数日前,秋葉原で悲惨な事件が起きてしまいました.この件を今朝のある局のニュースが伝えているのを偶然見たのですが,あまりに空しい気分になったので,ちょっと書きたいと思います.

キャスター「どうしてこういう事件が起きてしまうのでしょうか.そしてどうしたら防げるのでしょうか.」
解説者「こういう事件を起こす人は社会にうまく適応していない人で,社会全体が敵なんです.事件を起こす前に何かのサインがあると思うので,それを見過ごさないようにしなくてはいけません.それに早く気づくことで事件を防げるかもしれません.」
キャスター「なるほど.ありがとうございました.」
(短く要約するとこんな流れでした.)

どんなサインがあるというのか?どうやったら見過ごさずにすむのか?凶悪事件にまで発展してしまうかもしれないサインだってどうやったら分かるのか?分かったところで,まだ起こってもいないのに,どうやって防ぐのか?...開いた口がふさがらない,とはこのことです.ありがとうございました,じゃないでしょう.私には何ひとつこの解説者の言っていることが理解できません...

こういう話はやはり上から目線的で,善と悪を初めから決めてかかっているかのように感じます.自分たちが善で,社会に適応できない人が悪だという前提をメディアがやっているのです.こんな恐ろしい事件を起こす人間ですから,非難されて当然でしょうけど,それでも,「なぜこのような事件が起こったのか」ということを真剣に考えるなら,そこには客観性が絶対に必要です.もし社会に適応できないことが理由のひとつだとしても,「なぜそのような人をこの社会は生んでしまうのか」というような視点は重要であり,その突っ込んだ最も大事な部分がいつもないのはどうしてなのでしょう.

余談ですが,こういう凶悪犯罪者が,死刑になってそれが執行されて終わりというのも,実は同じくらい私は虚しく感じます.私は,一生かけて犯罪者に,「なんでこんなことになったんだ」と問わなければならないと思っているんです.そして,その様々な理由から,社会のあり方を考え直していかなければいけないと思っています.そうすることで,社会に適応できず自暴自棄になって起こるこの手の犯罪に関しては,少しでも減らせるのではと感じます.死刑に抑止力が見出せないという理由で,国連では死刑執行停止の決議案が採択されていますが,本当に抑止力がないのなら,死刑には何の意味もないと本当に思います.

関連記事:死刑執行停止の決議案を国連が採択

 

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ガソリンついに値下げ!

ついにガソリン税などの暫定税率期限切れで,街中のガソリン価格は下がりはじめました.テレビのワイドショーはやや浮かれモード.市民も基本的にガソリン代が安くなったことを歓迎しているようですね.様々なウェブサイトで実施されたアンケートでも,多くの日本人がこれを支持しています.「家計がたすかる」というやつです.ここ札幌のガソリンスタンドの店頭価格も,店によっては1リッターあたり約20円くらい安くなっています.

しかしここでちょっと考えておきたいのですが,ガソリンにかかる税金を引き下げるというのは現在の世界的潮流からみて珍事以外の何ものでもありません.別に世界の流れに合わせなければいけないという意味ではありませんよ.この流れには理由があり,それを無視して動いている日本の状況に少々疑問を覚えるということです.今,世界経済は,地球温暖化・環境問題という,未来に対して大きな不安を提示する大問題と取り組んでいます.資本主義経済の要は「成長」であり,石油に大部分を依存したエネルギー体系のもとでは,経済成長が続く限り,石油消費も順当に増えていくでしょう.もちろん科学技術の向上によって,あらゆるものの石油消費率は改善していますが,それでも石油の消費を減少させていくことは簡単ではありません.なぜなら,効率が上がっても,燃やす燃料を減らすのではなく,同じ量の燃料でより多く生産し利益率を上げようとするのが,企業としては妥当な選択肢だからです.ですので,環境問題,およびもっと長期的に見た化石燃料の枯渇も視野に入れるなら,明らかに市場経済は失敗が約束されています.このことは現在,世界の先進国各国が頭を悩ましている大きな問題です.

ひとつのシンプルな回答は,古典経済学で出てくる「ピグー税」です.ある経済主体が何らかの経済活動を行う際に,市場の原理とは全く無関係に経済主体の外部に損失をもたらすことがあります.このような場合は,政府が介入し,その経済主体に課税することで,社会厚生はできる限り向上させられます.この税金のことを,提唱した経済学者ピグーの名にちなんでピグー税といいます.現在,社会活動によって燃料が燃焼され二酸化炭素が排出される状況はまさにこの状況です.これに歯止めをかける(抑制する)ためには,ピグー課税は今でも有効な手段です.

ガソリン税は,まさにピグー税としての意味を持っています.ですので,道路を作る必要があるかないかという,極めて不透明な議論の前に,「税率を引き下げる」という選択肢はなくてもよかったんじゃないか,と思っています.しかも欧米と比較し場合,日本でのガソリンにかけられている税金は決して高くありません.つまり,このまま道路を作るために税金を徴収するか,一般財源化して他のことに税金を使えるようにするかの二択がより妥当だっただろう,と思います.ガソリン税の減税は,現在の地球情勢を無視した国策と言われても仕方ありません.

欧米の動向などを見ていると,環境問題・地球温暖化は切迫した問題です.次のサミットの主要議題も温暖化問題でしょう.日本人も分かっているはずですが,どこか切迫感がありません.日本の環境問題への取り組みは他の国より進んでいる,という空気が国内にはある気がします.しかしその差は急速に縮まり,もはや環境に対する「意識」は完全に欧米に抜かれた感があります.今朝,ガソリンスタンドに群がる人たちを見ていてそう思いました.家計のことしか考えていないのか,と思えてしまうのです.考えてもみてください.例えばガソリンが1リットルで10円違えば,100リッターで1000円の差です.人にもよりますが,1ヶ月に100リッター使ったとしても,1000円しか差は出ないのですよ.外食かお酒か,携帯電話代か,とにかく何かちょっとしたものを控えるだけでこれくらいの額は充分に戻ってきます.現在の日本の一般的な金銭感覚なら絶対に取り返せると感じます.しかし,そういう考え方をせずに,1円でも安くと昨日まで我慢し続けて,今日になってガソリンスタンドに駆け込む人たちをテレビが映しているのを見ると,なんて貧しい国なんだろう,と感じてしまうのです.私だけなんでしょうか,そんな感じ方をしてしまうのは...泣

まあ,そもそも政府がぱっとしないのも問題なのですが...苦笑

 

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人と車を分離しない!

私は前に,ドイツアウトバーンの速度制限撤廃に関する話しを記事にしましたが,今回もドイツからの面白いニュースを発見しました.少し前のニュースですが,こちらです.

http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-27816920070911

簡単に説明すると,ドイツ西方のボームテという街で,街の繁華街を貫くメインストリートを中心に,信号や車線,停止標識,歩行者用の歩道およびそれらを区別する縁石を取り除くことを決定した,というニュースです.車と人を区別しないことにより,双方とも互いにより注意を払うことになるので,結果的に交通の安全性が高まる,という理論に基づいているのだそうです.交通安全の向上目的で標識を取り払うという考え方は「Shared Space(共有空間)」と呼ばれ,オランダ人の交通専門家ハンス・モンデルマン氏が考案,EUも基本的にこの考え方を支持しているといい,今回のボームテの道路改造費用の半分をEUが負担するのだそうです.

これは素晴らしいですね.アイデアも素晴らしいですが,それを実施してみようという街が現れることも素晴らしい.そして,それにEUが多額の援助を出すというのもすごいし,多分こういうことを実施してもいいような,自己責任を持って行動できるであろうドイツ人もすごい.さすが,速度無制限道路のある国だなぁ,と思います.

ところで日本でこういうことをやったらどうなるでしょう.まず,法案が通らないでしょうが,(笑)仮に実現したとして安全性が高まるでしょうかね...微妙な気がします.日本ではとにかく「交通ルールを守ろう」は重要な標語で,絶対的地位があります.決まりをまず作って,その決まりを守ることだけ考えようというのが日本の発想です.ですから,歩道を取っ払ったりなんかしたら,結構無秩序になるだろうと思います.ボームテのような試みが成功するには,歩行者もドライバーも自転車も,個人個人がちゃんと責任のある行動をとらなくてはいけません.そういう責任ある行動を基盤として実現されるボームテのストリートは,私の描く理想の空間だという気がします.しかも,ニュース記事では触れられていませんが,歩道や妙な標識や,そういう街の景観を害しかねない種々のものが消えるのです!これは相当に洗練された雰囲気が街に宿ることでしょう.実施されるのはこれからのようですが,実際に事故率が低下することを願わずにはいられません.

関連記事:ドイツ・アウトバーンに学ぶ

 

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日本サッカーの弱さ

こんな記事を見つけました.

http://number.goo.ne.jp/soccer/japan/698/20080228-1-1.html

日本サッカーは世界的に見て決して弱小チームではありませんが,それでも南米や欧州の強豪と対等に戦えることを願うサッカーファンにとっては,まだまだストレスのたまる試合が多いことでしょう.苦笑

さて,このニュースでアルゼンチンのサッカー育成のエキスパートであるトカリ氏は興味深いことを言っています.それは,「日本のサッカーはテンポが速すぎる.私なら,もっとテンポを落として人が走るよりボールが走るサッカーにしたい」という趣旨です.なるほど,これは極めて合理的です.もしこれを実践できたなら,選手は疲れることなくボールを支配することになるからです.まあしかし,これはとても難しい要求ですね.無限に変化する状況の中で,パスを出す側も受ける側も同一の最良の答えを見つけ出し,そのための行動を同時に起こさなければなりません,しかもあくせくと走りまわることなく達成しなくてはなりませんから,アイデアは相当に洗練されたものでなければならないでしょう.走らない代わりに,その分たくさん頭を使って考えろ,ということになるはずです.うーん.こういうことって日本人には難しいだろうなぁ.笑

私が日本代表チームを見ていて思うこと,それはやっぱり「思考の無さ」です.奇抜なアイデアなどという高次元な話しではありません.例えば,サイドを突破してボールを中央に入れるも,そこには味方が誰もいない,とかいうシーンを日本代表はよくやってしまいます.中央にまだ誰もいないのを知りつつもボールを入れているのなら,これは責任転嫁ですね.「俺はいい場所にボールを入れたよ.なんで誰もいないんだ」という意味合いに感じます.一方,まだ誰も走り込んでいないということを確認していないのなら,それは論外でしょう.まあでも責任転嫁が目的なら,確認するしないは関係ないのかもしれません...苦笑 サイドを突破した選手がやらなければいけないこと,それは,中央に味方が走り込んでいるかどうかを目で確認し,もしいるなら誰に合わせてボールを出すのかを考え,最良のパスを出すこと,もしまだ誰もいないのなら,パスを出しても意味がないので,例えばボールをキープし続けて味方が上がってくるのを待つとか,いったんボールも戻して攻撃を組み立てなおす,などという合理的判断です.残念ながらそういう合理性をまだまだ日本のサッカーからは感じないです.特に重圧のある日本代表チームからは...

さて,驚くのはこの記事を書いた記者の見解です.この記者は,トカリ氏の示唆を,テンポが速い遅いの問題にすりかえてしまい,しかもテンポの速さを「攻め急ぎ」「せわしなさ」と誤訳し,しかも「せわしなさ」は欠点ではなく「長所」だと言いたいようです.日本らしいサッカーを迷わず実践しよう,というのが結論です.はっきりとは書いていませんが,「トカリ氏の言っていることは気にせず,自分たちの信じる日本らしいサッカーの道を進もうよ,その先に必ずや勝利がある!」というように感じます.ああ,この閉鎖的な空気はなんとかならないものでしょうか.なぜトカリ氏の言葉の意味を考えようとしないのでしょう.そして,ちゃんと考えることをせずして,この記事を書く自信はどこから湧いてくるのでしょう.サッカーというスポーツは,考えることなしには絶対に強くなれない,ということを多くの記者も解説者も本当は分かっていないのではないだろうか,と疑いたくなります.だからサッカー中継で,「シュートで終わることが大切」とか「いい形はできていると思いますよ」とか「体を張ったプレーですね」とか,そういう精神論的な言葉をたくさん聞かされることになります.正直なところ,うんざりです.(^_^;) サッカーは精神論で片付けられるほど簡単なスポーツではないと思うのですが...私はもっと洗練された解説を聞きたいです.涙

 

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イチローの考え方

昨年末のニュースに関する話です.ちょっと今さらという気もするのですが,お許しください.笑

で,そのニュースはというと,野球における一塁へのヘッドスライディングに関する話です.昨年の野球五輪予選はずいぶん盛り上がりましたが,あの時,ソフトバンクの川崎選手が一塁に向かってヘッドスライディングしたことに対して,イチローが激怒.川崎に説教をしたというニュースです.例えばこちらをご覧ください...

http://www.nikkansports.com/baseball/p-bb-tp0-20071228-300737.html

ちょっと詳しくない方のために解説します.野球では,打者は一塁を駆け抜けることはOKなので(二塁・三塁は塁から離れるとタッチアウトになりますが...),駆け抜けるのが一番セーフになる確率が高いわけです.スライディングでは地面との摩擦のせいで速度が落ち,駆け抜けるほうが速いことが確かめられています.おまけに,ヘッドスライディングは怪我をするリスクも大きいし,どう考えても一塁へのヘッドスライディングは「無意味」ということになります.これをイチローは「かっこ悪いことはやめろ!」と言ったのです.どうでしょう.一塁へヘッドスライディングする選手を見て,どのように思われますか?かっこ悪いでしょうか.それとも気合を感じてより一層頑張れ!と応援したくなるでしょうか.そう,ここが分かれ道なんですよね.

一塁へのヘッドスライディングに唯一のメリットがあるとすれば,それは後者のような考え方の人間が集まったチームの場合でしょう.それならばいわゆる「士気が高まる」というような効果をもたらすはずです.ヘッドスライディングしている仲間を見て,俺も頑張らねば,という具合に皆が真剣にプレーし始めるとしたら,確かに意味がないとは言いません.しかしですねぇ,やはりどう考えてもこの一塁へのヘッドスライディングには,私にとって日本的で厄介な匂いがするのです.

まず第一の問題点.一塁へのヘッドスライディングは,極論すると「カミカゼ特攻隊」とたいして変わらないという点です.生産性がほとんどない自己犠牲の精神という意味です.プロ野球選手にとって怪我は選手生命を奪いかねないものであることを知りながら,それでもヘッドスライディングをして仲間の士気を上げる必要があるでしょうか?しかも駆け抜けた方が速いわけです.全く「知性」を感じないじゃないですか.ヨーロッパ諸国で日本語の代表格は今でも「Kamikaze」なんです.「今の時代の話じゃないよねぇ,勘違いしないでほしいなぁ」なんて悠長なこと言ってはいられません.おそらく日本人の行動にあのカミカゼ的振る舞いをヨーロッパ人は感じるのではないでしょうか.「命を投げ打って敵陣に飛び込むことにつながる思想」のことを言っているのだと感じます.それから第二の問題点,それは「責任逃れ」でしょう.なぜか.もし普通に駆け抜けてアウトになったら,「あいつはなんで初球から打ったんだ?もっとボールを良く見て,投手にプレッシャーをかけなきゃいけない場面なのに...」などと問い詰められそうです.しかしヘッドスライディングをかませば「気合いれて頑張ってるな.アウトになったけど仕方ない」というように肯定され,責任を追及される可能性は(日本では)かなり低くなります.よって責任を回避するための「俺は頑張ってるぜ!」という過剰な自己アピールという意味合いを否定できません.いや,意識してやらないにしても,社会が受け入れてくれるならそういう自己防衛が生まれても仕方ありません.

「イチローの美学」などとテレビでもてはやされていますが,本当に「美学」でしょうか.私は前々から「美学」という言葉を使うことに納得がいきません.イチローの考え方は,いつも合理的かつ能動的で,そして自分がどういうタイプの人間かをよく熟知しているなぁ,と思いますが,言ってみればそれだけです.すごいのは思想じゃなくて,やはり野球の技術のほうだと思うんですね.もちろんそういう思想によって野球の技術にも磨きがかかるのだろうと思いますが.まあ,これを「美学」と言わなければいけないほど,日本人の感覚は合理性に欠け,受動的だということでしょう.

「自分で無意識にやっていることを,もっと意識しなくてはならない.」
「世の中の常識を少しでも変えることは,人間としての生き甲斐でもある.」
「数字に満足してはいけない.なぜなら数字は内容を反映しているとは限らないから.」
これらイチローの言葉は野球に向けての言葉です.しかし,この社会で日々生活する時にもこれらの言葉は重要な意味を与えてくれると感じます.日本人はこういうことを「天才の世界の言葉」ではなく,現実的に意識しなくてはいけないと思います.

   

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死刑執行停止の決議案を国連が採択

今日,国連総会で「死刑執行の一時停止を求める決議案」が可決・採択されました.これに賛成したのは大多数が欧州で,アメリカ・日本・中国などは強く反対しています.

これを機会に,ちょっと素人ながらに私の意見を述べたいと思います.私は,基本的に死刑反対派です.なぜ私が反対の立場をとるかというと,現在の死刑存続論理由のひとつである「死刑による犯罪抑止力」に疑問を持っていること,および,事件はすでに起こってしまっているのであり,犯人を死刑せしめたところで何も変わらないし何の発展性もない,という2点です.

私は死刑に抑止力はないような気がします.死刑に値する重大犯罪を起こそうとしている人間が,もし捕まったら死刑だからやめとこう,とか,10人はやめて1人だけ殺そう,などと果たして思うでしょうか?実は今日採択された国連の決議でも,欧州勢の死刑停止の根拠は,死刑に抑止力は見出せないから,だそうです.そして2点目.こちらは人の思想や宗教観に極めて大きく影響する問題です.やはり報復論的に考えれば死をもって償ってもらうしかない,となるのでしょうか.しかし,被害者の方の考えは,事件から日が経つに従い「なぜあのような事件が起きたのか」「どうやったらこの事件を防げたのか」「今後同じようなことが起きないようにするにはどうしたらいいのか」という方向に移っていくと言われます.結局,犯人が死刑執行されても,この疑問を解決する方向性とは無関係であり,全く霧は晴れません.むしろ,もうこの世の中にあの事件の真相を知る人間は一人もいなくなる,という状況になるし,死刑後はみな事件のことを忘れていってしまう現実が待っています.つまり,今ひとつ死刑執行に意味を見出せないのです.

賛成派の反論が聞こえてきそうです.例えば「税金を使って凶悪犯罪者の世話を一生するのか?」とか「刑務所は足りてないんだぞ」とか.もう私から言わせればこれらの考えは論外です.こんな自分本位な考えで死刑賛成しないでほしいです.日本というこの社会が凶悪犯罪者をもし生んでしまったなら,それは国家として責任を負うことはあってもいいと思いますよ.ちゃんと議論した末の結論なら,もちろん国家予算をそこに割くことは問題ないと私は思います.次に遺族感情.これは最も難しいところです.「もし自分が被害者なら,犯人を死刑にして欲しいと思うだろう」と思っている人が多いから,日本は死刑賛成に根強い支持があるんだと思います.しかし,上にも述べたように基本的に何の解決にもなりません.それから法的に賛成派のもっとも大きな根拠は「犯罪抑止力」です.これが疑われるなら,死刑の法的根拠は大きく崩れるんですね.そして現在は崩れかけています.

私は「死刑廃止」は人間社会の進むべき方向性だという気がしています.人間の歴史には「いかにして苦しめて殺すか」ということをひたすら追及した時代もあります.それが,殺される側はなるべく苦しまずに,でも見せしめ度の高いギロチンというものが発明されました.それでもわずか数百年前には世界中で死刑が毎日のように行われていて,それを公開したりもしていました.そしてついに今日,国連の死刑一時停止の決議,今日は歴史的な1日です.

ところで私は今日,歴史的1日を忘れてしまうくらいぎょっとするアンケート調査結果を知りました.これは鳩山邦夫さんが「死刑の自動化」に言及したときのアンケート結果です.



もちろんこれは母集団に偏りがあり,客観性のある結果とは言えません.しかも回答している人は「死刑賛成派」が多数でしょうからね.しかし,それを差し引いてもこれは驚くに値する結果ですよ.というか鳩山さんはちゃんと賛成派の代弁をしてたんだって,ちょっと興味深くもある...苦笑

自動化は,最も何も考えなくてすむ方法です.例えば毎週金曜に一人ずつ,判決を受けた日が早い順に執行,とか.これは「日本人の思考停止状態」ゆえの思考放棄.そして,自動でシステム化してしまえば,ある日のある囚人に対する執行に対して責任の所在は曖昧になる.つまり「日本人の無責任さ」の露呈でしょう.このアンケート結果には,本当に背筋がぞっとします.私の感覚では,もう完全に狂っているとしか言えません.もはや死刑が確定した人間を「人間」としてみていないという証明です.そして,意見や議論や主張の介入を入りにくくし,選択肢を消す去るという思想です.

   

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星野JAPANとナショナリズム

「ナショナリズムの原点〜星野JAPAN〜」という記事を読みました(産経新聞社編集委員の清水満さんのブログです).昨日と一昨日の野球日本代表五輪予選,その韓国戦と台湾戦からは,ナショナリズムの匂いを私も感じました.異常な高視聴率ですね.私ももちろん見てしまいました.笑 世界に通じる日本の野球,そして相手が同じアジアのライバルとなれば,まあ燃えないわけもないでしょうが...ただ,私はこの機会に,このような類のナショナリズムについて一歩引いて冷静に考えなければいけないと思うのです.

ヨーロッパ人はサッカーで戦争をしているんだという人がいますが,まあ概ね同意です.今回の野球もそういう例えが適切かどうか難しいところですが,まあ血を見ぬ戦争なのでしょうか.ただ私が最も危惧するのは,試合前と後で視聴者の気分が変化してやしないか,という点です.つまり,一週間前はなんとも思っていなかった人たちが,解説者や仲間の盛り上がりに乗じて気分が高揚し,最悪の結果,試合後に「やったー!!日本勝ったー!!ざまみろ韓国!!」みたいなことが起きてないか,それがとても心配なのです.なぜなら,そこに一切の「個人による主張」や「ポジティブな意識」を感じられないからです.野球が本当に好きで日本を応援しているなら,「ダルビッシュのスライダーと台湾打線の戦いを見たい!」とか,何かしテーマみたいなものってあると思うんですよね.そしてその結果日本が勝ったとしても「やったー!!日本勝ったー!!」で終わりだと思うんです.ざまみろ台湾なんて感情は絶対出てきませんよ.

ちょっと別の話ですが,私がとても嫌いなのはバレーボールの応援です,実は.「日本チャチャチャ」と,もうあれは何なのでしょう??真剣に勝負している選手たちの周りであんなふうに騒ぐのはありなんですかね.日本チームはあの応援に慣れていると思いますが,わざわざ日本まで遠征して戦っている外国の選手は,あの応援をどう感じているのか,ちょっと恐いですよ.デリカシーのかけらも無いというか...すでに日本で試合をしている時点で地の利があるわけだから,もう少し静かに試合を見て楽しめないのでしょうか.目の前には世界屈指のプロ選手のプレーが繰り広げられているんですよ!!

もっと日本人は大人になるべきです.相手チームへの配慮,試合を見る時のポリシー,美学のようなものを体得すべきです.これが欠けているうちは,スポーツでナショナリズムは危険すぎます.何も考えてないので,そのナショナリズムがどういう思想と融合するか知れたものではないですから.

   

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大野投手コーチに乾杯!!

これはサンスポが11月29日付けでネットに配信した記事です.



 『闘将、しかられる』の巻−。

五輪アジア予選初戦(12月1日=相手未定)の予告先発を明言した日本代表・星野仙一監督(60)が一夜明けた28日、前言を撤回した。理由は大野豊投手コーチ(52)の大反対。「怒られてしまった」とさすがの星野監督も苦笑いだ。一方で3試合の先発ローテを決めた指揮官は「貝」になって、北京キップ獲得を目指す。

 良く言えば「勇気ある決断」。悪く言えば朝令暮改。台中球場での練習中、星野監督が報道陣に歩み寄った。すでにトホホ…の表情だった。
 「大野に怒られてしまった。予告先発はできん。即座に却下されてしまった。『(国際大会は)そんなに甘いモノじゃありません』といわれてな。アカンかった…」
 1次リーグの勝者と対戦する初戦限定の予告先発を明言したものの、まさかの大反対で前言をあっさり撤回。いつもは落とす方の「カミナリ」をちょうだいしたとあって、苦笑いを浮かべた。


誰もが,ちょっと微笑んで読み流す記事.どちらかというと癒し系ですか...野球に詳しく無い方のためにちょっと説明すると,北京オリンピックを目指す日本野球チームの監督は,怒りっぽくて厳しい星野仙一監督.その星野さんが,次の試合で投げるピッチャーを予告する(つまり対戦相手に,日本チームは誰がピッチャーとして投げるのか教える)と言ったわけです.野球は普通,ピッチャーの癖やタイプによって打者や打線を変更したりする情報戦的部分があるので,これは「相手をなめている」のか「それくらいしても勝つくらいの気合いが必要だ」と自分たちを奮い立たせているのか,まあそんな感じだったのでしょう.しかし,年下の大野投手コーチに,「国際試合をなめたらいけない,監督は何を考えているんですか!」と抗議されたというニュースです.

普通じゃないかって?いや.異常です.この記事を読んで何が残るでしょうか?大野さんのことは何も残らないでしょう.そう,星野監督の記事なんですよ.しかも,「星野さんは国際試合をなめていたことにコーチから抗議を受けた」という記事じゃあないでしょ?私はこう感じます.「星野監督は後輩のコーチに指摘を受けても,それを受け入れるだけの度量の広い男だ」「間違いをすぐに認める冷静な監督だ」.そして「勇気ある決断」などと状況をすりかえてます.決断したのは星野さんかもしれませんが,指摘したのは大野さんです.なのにこの記事では星野監督の株だけはたぶん上がります.「普段は恐い監督さんなのに,こんな一面があるんだ」ってなるんですね...実際は先発予告なんかやらかして,国際試合をなめてかかって,負けるかもしれなかったんですよ!!! なのになのに,今回の件の主役である大野さんは読者の記憶にはほとんど残りません.

「大野投手コーチの冷静かつ勇気ある進言は,気合一本の星野ジャパンを救ったかもしれない」と書くべきでしょう.別に星野監督を悪く言うわけでは毛頭ありません.星野さんは気合の闘将,それは個性であるし大切にすべきことですから.それよりも大野さんの冷静な進言にもっとスポットライトを当てるべきです.それから最後にもう一点.タイトルの「しかられるの巻」は非常にいただけない.なぜなら真剣に進言した大野さんを侮辱しているから.面白おかしくすりかえるな!

で,このような記事がまかりとおるのは,あきらかに地位や年齢による階級を無意識にみんな作り出しているからだと思います.星野仙一という人は,それこそ犯罪でも起こさない限り,メディアから保護され,たたえられ続けるでしょう.そして予想ですが,大野さんもこの記事を読んでむかつくことは別になかったんじゃないでしょうか.「星野さんは目上の立派な方」なので.

今回は誰もが絶対気にせず微笑んで通過してしまいそうな記事に,あえてもの申しました.日本のメディアの記事はこんなに歪んでいます.記事を書く方は「真実」を書いてください.「真に起きたこと,そしてその客観的意味」.それだけでいいので.そしたら読者も自然と客観的に考えるようになるでしょう.

   

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ふくろだたきの構図(2) 亀田親子の場合

日本人はたいてい本質を見失います.そして,話題の論点をうまいことすりかえて,相手が劣勢になることようにしむけて集中砲火を浴びせ撃退します.これが社会学的にどのような意味を持つのかは研究者に任せるとして,とにかくそんな場面に出くわすたびに,情けなくなってしまいます.

最近,芸能ニュースを賑わせている亀田問題.この問題はなぜこんなに大きく膨れ上がってしまったんでしょうか?亀田親子の度を越えた挑発のせい?あってはならない反則をしたから?すぐに謝罪をせずに雲隠れしたから?はたまた切腹しなかったから?まあ,どれもはずれてはいないのでしょう.しかし注目しなくてはいけないのは,このような彼らにとってマイナスとなるポイントを連鎖させて,ふくろだたきを誘導するようにタイトルを付けられた記事が多数書かれたこと,そしてそれを求める日本人が多勢いたことです.

亀田の言動は度をすぎていたでしょうが,あれはパフォーマンスだとすればまあ派手なパフォーマンスで済むことです.現に試合前のインタビューで切腹発言が出ても,大騒ぎする人はいませんでした.「いつもの派手なパフォーマンス」だとみんな思ったからですよね.もしそうでなかったら大変ですよ.亀田が負けたら死ぬと言ってるぞ!ってことになっちゃいます.笑 だから敗戦後に「本当に切腹するんですか?」とか切腹コールをした観客は私から言わせれば,亀田よりはるかに下です.情けない.まあしかし,もはや布石は置かれていたとも言えます.派手なパフォーマンスを逆手にとって,負けて愕然とする亀田に罵声を浴びせようと準備していた人たちがいただろう,ということですね.ああ,情けない.

今回の問題は,ボクシングであってはならない反則を指示した親父の言動と,実際の反則,ここだけです.この反則問題はもちろんシリアスな問題で,コミッションは直ちに重い処分を下したわけで,それで終わりでいいんじゃないでしょうか.本人の謝罪も本人たちが望むなら,でよかったと思いますよ.それくらい自立したひとりひとりの人間としてあってほしいのです.

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