ススキとセイタカアワダチソウ

札幌では秋の気配を感じます.今年は8月下旬に一度とても涼しくなったのですが,最近はまた少々蒸し暑い日が続いています.でも,風景は急に秋の雰囲気を持ち始めています.

この頃になると,札幌でも郊外ではセイタカアワダチソウという名の花が咲きます.セイタカアワダチソウという植物をご存知でしょうか.この野草は北米原産の帰化植物で,本来は日本には自生していなかった植物です.生命力が強く,西日本から繁茂しはじめ,今や北海道でも珍しくはありません.

よく日が当たる,土手や湿地が好みで,そういう場所では秋になるとこの植物をよくみかけます.で,実はそういう場所は昔はススキがありました.ススキが好む環境とセイタカアワダチソウが好む環境は似ています.こうなると,生命力の強いセイタカアワダチソウが勝ち,ススキが減っていきます.

セイタカアワダチソウはあらぬ疑いを日本人にかけられたことがあります.この植物の花粉が気管支炎や喘息を助長する,原因となる,と言われたことがあるのです.これは完全なデマであり,実際は花粉を昆虫に運んでもらう虫媒花で,花粉はほとんど風では飛ばされないし,花粉自体にもそんな性質はありません.なぜ,このようなでっち上げが生じたのでしょう.アメリカ生まれの生命力の強い植物に一部の人が強い嫌悪感を感じたのでしょうか.それにしたってこのデマは酷すぎます.日本人はセイタカアワダチソウを呪おうとしたのですが,相手が植物だったので,呪術は通用しませんでした.

何の偏見もなく,セイタカアワダチソウという植物を見てみます.個性的で美しい植物だと感じます.日本の気候に育てられた植物ではないので,多少風景の中で浮いてはいますが.^^;

生態系のバランスが崩れるから,セイタカアワダチソウの繁茂は問題だと思う感覚自体,全く理解できます.しかしだからといって,ススキを愛して,セイタカアワダチソウを忌み嫌うという感覚は,私は理解できません.別の問題です.どちらも同じ植物として生きている生命であり,区別されえません.「セイタカアワダチソウ」と言う和名もちょっと仰々しいと感じます.もっといい名があるのではと思います.





これは,札幌市郊外で数日前に撮った写真です.5年前は全く無かったのに,今はセイタカアワダチソウで溢れています.写真の蝶はシータテハ.シータテハはユーラシア大陸の蝶です.北米の植物とユーラシアの蝶がこの日本で出会いました.シータテハは,セイタカアワダチソウの蜜がお気に入りのようで,ずっとこの場所で過ごしていました.

 

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準結晶の世界

結晶というものをご存知でしょうか.身近なものとしては,宝石.例えばダイヤモンド.サファイア.あと,スーパーで売っている塩だって結晶です.

結晶の本質とは,繰り返しです.何かが,繰り返されて,そして生まれる秩序.それが結晶というものです.秩序が生まれると,結晶と相互作用をしたものまでも秩序化されます.例えば,結晶と相互作用した光は回折という現象を起こしますが,それは一種の秩序化ともいえるでしょう.連続的でなく,離散的な姿に変化します.秩序は新たな秩序を生むんです.





これが結晶の一例です.オレンジの長方形で囲った部分が繰り返しの最小単位.これが縦横に繰り返されています.この繰り返しは平行移動です.平行移動のことを,結晶学では「並進(translation)」と言います.

結晶とは最小ユニットの並進によって生まれると信じられてきました.しかし,近年,不思議な物質が見つかったのです.秩序があるのに,並進を伴わない結晶.これを準結晶(quasi crystal)と命名しました.20世紀の後半のことで,とある合金がそのような構造を持っていたのです.





この絵は,イギリスの物理学者,ロジャー・ベンローズが考案した非周期的(aperiodic)な秩序.つまり並進操作が存在しない秩序で,準結晶のひとつです.

ところが興味深いことに,この概念ははるか昔からアラブ世界には存在していました.girihと呼ばれる中世イスラム建築によく見られる幾何学模様です.デザインの世界では,準結晶的世界は既に存在していたんですね.ロジャー・ベンローズの功績により,このgirihがどのような方法で作られたのかがある程度推測できるようになりました.

単純化されたものは,複雑とは対極にあるので,多様性・発散性を許容しません.しかしその代償として,どこまでも見通せるような透明感があり,不完全なものに対して時に感じる不安を私たちの中から取り除く力を持っているように感じます...なんて感じるのは私だけかもしれませんが...^^;


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ところで,私はベンローズのファンです.彼は,物理学で生命の意識というものを,実に真剣に考えようとした最初の学者だと思います.胡散臭く感じるかどうかは人によりますけど,多分...時間のあるときにちょっと科学と意識の関係について,可能なら書いてみたいと思います.自分の考えも織り交ぜつつ...

 

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科学=虚構,非科学=現実

「妖怪と科学」からの続きです.

科学には,否定されがたい砦があります.それは科学が持つ「客観性」です.客観.これは科学の大きなアドバンテージです.

客観とは,AさんもBさんもCさんにも,同意させ,なるほどと思わせる力があるということ.例えば,りんごはなぜ樹から落ちるのかと考えた時に,質量があるものの間には引力が働くという説明.これを覆す反例は私たちの周りでは未だに見つかりません.つまり,これは思いついた人の勝手な創造物ではなく,いつでもどこでも,誰がやろうと,誰が観察しようと,必ずそうなるのであり,これを客観性があると捉えます.この客観性は,強大な統制力を持ち,科学を信仰させるだけのパワーをもたらすでしょう.

ですから,この切り口で科学に反発できる概念は恐らくありません.日本語で科学の反対語は?と聞かれても最適なものは思いつきません.それは相対する概念が無いということです.せいぜい「非科学」でしょうか.笑 英語でもscienceの対となる言葉は明確ではない気がします.せいぜいfiction(虚構)ということになります.科学は揺るがぬ地位を築いていると思います.

ここまでは,OKです.私も科学の素晴らしさはいつも身をもって体感しています.しかし,私が疑問を持つのは,ここから先です.いくら強固で安定感のある「科学」だからと言って,なぜに「科学で説明できないことはない」と思われがちなのでしょうか.と,このことが言いたくて,いろんな例を挙げました.私たちの「自由意志」というものについて.死後の世界や妖怪のような概念と科学の関係について.

科学が決して説明できない状態,それは「複雑なこと」です.複雑であることに対して,科学は力を発揮しません.私たちの神経細胞の活動や,大気の動きや,水の流れや,無数の星の運動はすべて果てしなく複雑です.いや,そんな壮大な話しでなくても,目の前にある机や椅子や床やガラスを見てみてください.どこに完璧な「直線」があるでしょう.どこに完璧な「球」があるでしょう.どこに,一様の摩擦係数を持つ完璧な「平面」が存在するでしょう...すべて複雑な姿をしています.

科学の本質は「単純化の作業」です.本当は複雑なんだけど,そこを無理して単純化していく作業.単純化されたものは「数字」であり「法則」です.しかし間違えてはいけないことは,実はこれら単純化されたものは,もはや私たちの想像の世界にしか存在しない,ということです.現実の世界では,数字はいくらでも微小にずれていき,それに起因して法則に反する結果はいくらでも起きます...例えば.リンゴは樹から落ちます.このことは単純化された科学によって見事に説明され,反例はありません.しかし,リンゴには大きさがあり,周囲には空気があり,光があり,磁場があったりするため,リンゴが落ちるまでの時間や軌跡を正確に予測することは不可能です.つまり,単純化されないこの現実世界では,「リンゴはどのように落ちるか」なんて問いに科学は決して答えることができません.

だから,科学は真理の探究ではなく,ただの道具であると思います.大雑把な法則を見つけ,多少の未来を予測し,生活が多少楽になるためには便利な道具です.しかし,万能ではありません.包丁で切ることのできないものがあるように,科学で説明できないものはたくさんあります.

科学と妖怪をどちらも信じることが可能でしょうか.私たちの心の中に同居させることは可能でしょうか.

科学がただの道具である以上,たぶん可能なはずです.しかし.私たち日本人は,おそらく片方を捨て,科学を選びました.それが高度経済成長の始まりの頃だと思います.この頃,どんな山村からも一斉に妖怪が姿を消し,キツネはもはや人を騙さなくなりました.私たちは,感謝の意とともに生命(魂,霊)を頂くのではなく,炭水化物やビタミンのような栄養素を摂取するだけになったんだと思います.

 

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妖怪と科学

「妖しき存在」からの続きです.

突然現れて村人を飲み込んだ巨大な波.それは海坊主という妖怪でもあり,三角波という物理現象とも言えるのですが,どちらが正解なのか,などと問うことはできないでしょう.事実はただひとつ.「突然現れた水の塊に飲み込まれて村人が溺れた」という悲しい事実だけであり,妖怪も科学も,この信じがたい事実と向き合う際に,人がその理由を求めた結果生まれたんじゃないかと思うのです.

人は普段から何に対しても理由を求めはしません.思想家や哲学家や好奇心旺盛な人を除けば,当たり前だと思ったことに対しては,人はある程度受け入れられます.人が無性に理由を求める時,それは,当たり前でないことが起きたときです.これは,おそらく人が過去を記憶し,それを単純化する癖を持っているからだろうと私は思っています.つまり,波の無い海では,平穏な時が流れ,危険は無い,という単純化された状況を人は受け入れます.そして,この単純化された予想が,裏切られ,大波がやってくれば,人は呆然としてしまうわけです.

当然だと記憶していた状況が全く役に立たなかった時,人はその記憶を変更し,納得しなくては不安を払拭できません.立ち直れません.そのために「理由」を求めるんだろうと思います.

そう,科学だって実は「なぜだろう」という素朴な疑問からスタートします.ただ科学の面白いところは,当たり前だと思っていることに積極的に「なぜ?」と問い,解決しようとすることです.毎日青空を見ているにも関わらず「なぜ空は青いの?」という疑問を持ち,青い波長の光を大気の成分が散乱することを体系的に理解しておくのです.そうすることで,予想外の出来事に対処できます.例えば,いきなり目覚めたら空の色が変わってしまっていても,上空でどんな化学変化が起こったのか,何かの汚染物質のせいかもしれない,などと原因を見破ることができるので,パニックにならなくてすみます.まあ,これが科学の力だと思います.

じゃあ,やっぱり科学は磐石じゃないか,とそう思われるでしょうか.海坊主より三角波のほうが真相だろう,と.ところがです.科学はそんなに強固なものではありません.

科学の弱点を探すのは容易です.試しに何かに対して「なぜ」を数回続けて質問し続けてみます.そうすると,あっけなく科学は無力になるんです.「なぜ空は青いの?」「大気が青い波長の光だけを散乱させるので,青く見えるんだよ.」「なんで青い光だけ散乱させるの?」「ええ!??そ,そ,それは...そういうふうになってるんだよぉ.そういう性質なんだよぉ...別に理由なんてないよ...汗」となってしまいます.

例えばこういう問答.好奇心溢れる子供と対話すれば,必ずやってしまいます.その度に,困るはめになるのはたいてい大人です.学校の理科の授業は大変だと思いますよ.物質は原子という粒でできています.生物の情報はDNAという物質に記憶されています,なんて教えられますが,この先の「なぜ」はご法度です.何でもそうです.

科学なんて,所詮それ程度の薄っぺらいものです.少なくとも「疑問に答える」という視点で考えれば,ですけど...これは,「まだ研究が進んでないから,解明されていないから」ではなく,「それは科学では取り扱えない質問ですので,答えは永遠に出ません.」なのです.科学は疑問の持ち方にも制約があるんです.

話しを戻します.穏やかな海に突然やってきた大波.これは三角波だったとしましょう.三角波の生成は論理的に説明できるし,数式でも記述できるし,実験室で再現することもできます.穏やかな日に突然やってくることも不可解なことではありません.しかし.「なぜこの時間にこの場所にやってきて,そのおかげで村人は溺れなければいけなかったのか」.そう,この疑問には決して答えないんですよ,科学は.一方,海坊主はその部分を巧いことカバーしています.つまり,このような不条理を引き起こす得体の知れない存在,だと人々は予め受け入れているので,疑問が生じないんです.この事件が,そのまま海坊主の仕業,海坊主そのものであり,近似ではなく,等価(イコール)なんですね.妖怪とはそういう「姿」をしているんです.

「科学=虚構,非科学=現実」に続きます.

 

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妖しき存在

「私たちに自由意志はあるのか」
からの続きです.

日本人は長いこと,妖怪とともに暮らしてきました.妖怪とは,あやかし.妖しい存在,あやしきもの.筋の通った説明ができない種々の出来事に対して,日本人は妖怪というものの存在を認め,妖怪を介してその現象は生じると考えました.日本の民間信仰の中に根付くものです.実は妖怪という存在は,日本に限らず東洋全般に多く見出され,日本の妖怪の起源をたどると,やはり中国に行き着くものも多いようです.

妖怪っていると思う?と軽いノリで人に聞いてみました.ひとりは「見たことないし,いないよ.想像上の産物だろう?」と答え,ひとりは「妖怪と言えば,ゲゲゲの鬼太郎!懐かしいなぁ,少し前映画やってたよね?」という感じで,話が脱線して戻りませんでした.笑

妖怪の姿は,確かに水木しげる氏の画による影響が大きすぎます.今日では妖怪を語る際に,氏が描いた妖怪の姿が必ず登場します.しかし本来妖怪とは,姿形を持つものではなく,口承的なものです.昔の人は,河童を目で見ていたわけではありません.信じ込んでいたから,幻覚のように見えていたわけでもないでしょう.もちろん水木しげる氏よりもずっと前から,多くの人が妖怪を描いてはいます.しかしそれは,宇宙人の存在を信じているSF作家が宇宙人を想像で描いているような,一種の楽しい作業であり,目で観察したものを描いているのとは違うでしょう.

妖怪は物理的には目に見えません.なぜなら物質とかエネルギーではないからです.しかしだからといって,その存在を否定することは困難です.死後の世界を否定できないのと同じような理由です.物質ではないのですから,もはや科学のやり方でもって,そこらにたくさんある「物(モノ)」と同じような尺度で,存在するしないを議論することは意味をなしません.科学と妖怪は,水と油のように完全に分離し,互いに混ざり合わない,それだけのことでしょう.

ただ,
妖怪は,科学と相容れないけど,科学と対等なポジションにあると私は感じます.

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ある村で,村人が漁をしていました.多少の風はあれど,波は全くありません.魚もたくさん捕れて,今日は豊漁だとばかりに,岸に帰ろうとしたその時です.突然,巨大な水の塊が沖から現れ,船を飲み込みます.あまりの突然のことに,どうすることもできなかった漁師たちは,海の中に消えていきました.岸でこの様子を見ていた村人は,「海坊主だぁぁ!」と叫びました.そう,これは海坊主という妖怪の仕業です.

科学では,客観的データが集まれば,遠方で起こった大地震による津波が入り江に入って増幅されたか,もしくは三角波という特殊な大波だったという結論が出てくるでしょう.これがこの波の正体です.

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おとなしく,親の言いつけを守り,ずっと真面目に畑を耕してきた青年が,ある日,鍬を持って暴れ,一人の村人を殺してしまいました.あまりの惨劇に村人は悲しみ,そして首をかしげるばかり.青年はその時のことを憶えていないといい,涙をながし,なんでこんなことになったんだ,と言います.村人は,通り者の仕業に違いないと考えました.通り者という妖怪は,気持ちが弱くなったすきに人に憑りつき,心を乱して大きな災いを起こす妖怪です.今日に使われる「通り魔」の語源は,この通り者という妖怪から来ています.

科学的には,例えば,毎日畑を耕すだけの生活に本当にストレスに感じていたとか,幼少期に虐待されていたとか,殺した村人からあることで強請られていたとか,そういう動機の存在を考えるでしょう.もしくは,脳内の先天的もしくは後天的障害により,自分をコントロールできなくなるような特殊な精神疾患を患っていたという可能性もあります.記憶がないことに関しても,実際にパニック状態で記憶が正常にできていないか,もしくは嘘をついているか,どちらかだろうと考えます.このような内容が,科学的に考えた場合の,この事件の本質です.

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ふたつの事件に対して,妖怪の仕業と,科学的説明,どちらがより信頼できますか?どちらが納得できるでしょう.そりゃあ,科学的なほうだと思われるでしょうか.私は実は,全くそんなことはないと思っています.

「妖怪と科学」に続きます.)

 

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私たちに自由意志はあるのか

「死後の世界」からの続きです.


最近,脳科学の分野で面白い話しを聞いたので紹介します.

私たちは,いろいろなことを考えて,認知し,判断し,行動を起こしています.もちろん,そこには自由な意志があると思われるでしょう.今日の晩御飯は何にしようかとか,音楽を聞きたいとなんとなく思って,どのCDをかけようかとか,そういう時...私たちは自由があって,無限の可能性から何かの決断をし,「よし,今夜は肉じゃがだ!」とか「ミスチルを聞こう」とか思うでしょう.なんとなくの決断であっても,私たちは自由の中から意志を持って選択している,そう感じる人が多いと思います.

しかし,これを覆しうる明確な研究結果が報告されているそうです.これは少し前の研究なのですが,「Do we have free will ?(私たちに自由意志はあるのか?)」という,ちょっと恐ろしいタイトルが付けられています.

この実験の内容は次のとおりです.被験者に,ボタン1個しかない部屋に入ってもらい,そこで「いつでもいいので好きな時にこのボタンを押してください」とだけ指示します.そしてボタンを押すまでの脳波を測定します.被験者にとっては,実験する部屋に入ってから後は,いつどのタイミングで目の前にあるボタンを押すのか,それは完全に自由です.そして,しばらくしてから「ええい,押しちまえ!!」と思い,ボタンを押すことになるでしょう.この被験者にとっての経験(記憶)は,「「よし,今押しちゃおう.」と決断し,手を動かしてボタンを押しました.」というものです.あくまで,意識を持って押すタイミングを決定し,そして押したのだと感じています.皆様も同じ実験をされてみてはどうでしょう.ボタンじゃなくてもいいですね.立って目を閉じ,いつでもいいので手を上げる,というのをやってみます.どうでしょう.やっぱり,自分で手を上げるタイミングを決めて,それから上げたと感じるのではないでしょうか.

ところがです.脳波の精密な測定から,とんでもないことがわかりました.この実験を始めてまず最初に活動する脳の場所は,なんと「運動前野」という場所であり,それから1秒以上遅れて,意志をつかさどる脳の箇所(「動かそう」という決断のような,複雑な思考をする場所)が活動したということが分かったのです!これはどういうことかというと,意思決定以前に,すでにボタンを押すための作業を無意識の場所で脳は開始していて,そのシグナルを1秒遅れで意識をつかさどる箇所がキャッチし,「よし,今動かそう!」とあたかも自分が意志決定したかのような理由付けを「遅れて行った」ということになるのです.

この実験結果は,なかなかすごいことです.「人間は,無意識の奴隷である.意識は無意識が作り出す世界に従わされ,都合のいい理由を後から付けているだけ」ということになりかねません.

ただ,よくよく考えてみると,これはそれほど奇怪なことではありません.全く記憶の無い酔っ払いが,信号を見て,電車に乗って,家に帰ることができたりします.プロ野球選手は,140km/hの速球を打つとき,意識を使った意思決定など間に合わないので,無意識の処理によって,球種を察知し,バットをコントロールし,ホームランさえ打っています.このように,私たちは,ほとんど無意識においても,相当のことをやってのけることができるのですね.

さて,ここでひとつの疑問が湧きます.じゃあ「無意識」がボタンを押す準備を始めたその「きっかけ」は何なの?という疑問です.意識が決めたんじゃなかったら,なぜにそのタイミングでボタンを押す準備を脳は開始したのか?なぜそのタイミングでないといけなかったのか?この問いにはまだ科学は正しい解答を与えることができません.私の感覚では,この先は「真理の探究」の領域で,科学を使って考え出すとちょっと胡散臭くなるんですよね.科学が問題として扱えなくなるぎりぎりのゾーンに入っていく気がします.これが現状の科学というものだと思っています.むしろこの疑問に対しては,科学的思考よりも,キリスト教の言う「私たちは神の僕」という言葉や,仏教思想の「無我」という世界を考えることのほうが,何となくしっくりくる,と私は感じます.


「妖しき存在」へ続きます.

 

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死後の世界

私の友人に,霊が見えると言う人がいます.私には見えません(感じません).でもその人は見えると言います.その人から何か奇跡的な体験をさせられたこともありませんが,私はその人の言うことは,本当に信じています.まあ,霊を信じているというよりは,自分に全く理解できないからとか,社会通念上嘘だと思われているからとか,科学的でないからと言って,間違いだと決め付けることの根拠を自分は見つけられないからです.

私は科学を職業にしているのですが,実は科学の限界を常に感じています.それはパソコンの計算速度をもう少し向上させるようなことには役立ちますが,もはや人類がそもそも科学に求めていた「真理の探求」なんてことは不可能だろうという意味です.20世紀で最も美しい科学実験に選ばれた「二重スリット実験」は,私たちに「科学で真理を探究することは無理がある.科学はただ人が分かる言葉に置き換えた解釈のようなものだ」という認識を新たにさせます.すべては不確実な状態の上に成り立っていることが皮肉にも科学的に証明されてしまうのです.(不確実さこそが真理?そんな真理なんてあっていいものでしょうか!)

ここにきて,科学は真理を探究する崇高な存在から,生活を楽にする「道具」に成り下がりました.少なくとも最先端の基礎的領域を専門とする科学者の多くはそれを感じています.しかしそもそも客観性のある真理などというものは無いことは分かっていました.なぜなら私たちは生きていて,そこに主観を除くことなど不可能だから,完璧な客観性など無いも同然です.

死後の世界はあると思われますか?科学的に考えるなら,ナンセンスな話です.そんなものは無い.私たちが生き,考え,笑い,泣いたりするのは,すべて脳の神経細胞の複雑な信号のやりとりが引き起こす特殊な状況ですし,脳波を測定すれば,なるほどそれは科学的に正しい説明だと分かります.死ぬと,細胞が自発的な活動を止めますが,神経細胞上の情報はどこにもそっくり移すことはできません.神経細胞といったって物質からできています.つまり炭素とか酸素とか窒素原子なのです.死体を放っておけば,バクテリアに分解され,神経細胞もアンモニアや二酸化炭素になっていくでしょう.焼かれれば,炭や二酸化炭素になるでしょう.とにかくそうやって還っていきます.「死んだら土に還る」が科学的には一番近いですね.ただ複雑に関係しあうことで生まれていた「情報」は消失するので,記憶を引き継いでその先を進んでいく「死後の世界」を科学的に考えることはできません.死んでなお続く世界など想像できないでしょう.

しかしです.科学的にだけ考えて,だから死後の世界がないなどと本当に言えるでしょうか.私たちは,なぜ,死後の世界について科学で語ろうとしなくてはならないのでしょうか.科学がただの道具なら,そんなもので死について真剣に考えるなんて馬鹿げています.誰がそういう義務を課したのでしょう.科学は,ある現象に対して,ある方向から強い光を当て,光が当たった場所だけを克明に見ているようなものだと私は考えます.光が当てられた場所だけは,全く矛盾がありません.しかし,光が当たらない(当てられない)場所を考え出すと,科学は無力化していきます.何も「死後の世界」などという極端な話しを持ち出さなくても,それは日常に存在します.1年後の今日,雨が降るかどうかは,科学では絶対に分からない(説明できない)のです.あなたが今,月を見て何を想うのか,科学では絶対に分からない(説明できない)のです.

関連記事:「私たちに自由意志はあるのか」

 

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キタキツネ

キタキツネ.北海道では特に珍しくなく,郊外に行けばすぐに会える動物です.夏の北海道はたくさんの観光客が訪れますが,バスから降りたらキタキツネがいて,「すごーい,キタキツネだ!!」という歓声が時より聞こえたりしますが,特にキツネをじっと見るわけでもなく,たいては写真を撮って,はしゃいで,満足して帰っていきます.とまあそういうシーンをよく見てしまいます.


   



夏のキタキツネに会うと,すでに知っていることとは言え,こんなに痩せているのかと私は再び衝撃を受けるのです.というのも,たいていテレビや雑誌に出てくるキツネはふわふわの冬毛か,夏でも痩せているのが目立たないようなショットなんですよね.映像では伝わってこない本当のキタキツネの姿は,現場で空気を通して対峙して初めて分かると感じます.


しかし痩せているというのは,決してマイナスのイメージなんかではありません.無駄な贅肉がなく,鍛え抜かれた鋼のような体です.足が体のボリュームに対してとても長く,眼光するどく,真っ直ぐ前を見る姿に背筋が伸びます.
   (しかし,しっぽだけはなぜか年中ふさふさです.^^)






こういう姿を見ると,千歳空港などで大量に売られているキタキツネグッズが何なのか,全く分からなくなります.太って可愛らしく変形させられたその姿.デフォルメも悪くはありません.しかし,それは何かひとつの特徴を捉えて行うのなら意味があり,魅力も生まれると思うのですが...どーもピンときません.


 

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北海道の春

北海道と言えば,旅行会社にとっては沖縄と並んで国内旅行の花的存在でしょうか.確かに北海道も沖縄も,基本的な日本の温帯気候区から外れていますし,動植物の佇まいや風景,人の暮らしにも少し違ったものを感じます.旅行者もきっとそういう非日常を求めているのかもしれません.

北海道のイメージは人それぞれだと思いますが,旅行会社が作るポスターやパンフレットの写真には私的には少々疑問があります.どこまでも続くラベンダー畑や,残雪の大雪山系,快晴の空に白銀のゲレンデ.そんな写真はたいていコントラストが高くとても鮮やかであり,どこか別世界のような印象を与えます.しかし,私は北海道に住み始めて10年以上の年月が経ちますが,そこまで鮮やかな景色には滅多に遭遇しません.旅行会社のパンフレットの写真はおそらく何らかの画像処理を行っているか,もしくはよほど条件のいい日に撮影しているのだろうと思います.また,撮影されたと思われる同じ場所に行くと,写真のすぐ外側には道路標識や民家や鉄塔などが実は存在していて,実際の写真のイメージと現場はかなり雰囲気が違うということも多いです.「写真は(あくまで)イメージです」というフレーズが横行する日本ですが,イメージだと断っておけばどんなに実際と違っても許されてしまうというのは非常に残念なことです.

ところで話しは戻りますが,私が感じる北海道の美しさは「鮮やかさ」よりも「淡さ」です.




春の訪れ.曇天.(虻田郡喜茂別町,2008年5月6日撮影)


コントラストが高くない柔らかな風景...季節や時間帯を問わず,淡い色彩の風景は北海道に多く存在すると思いますが,5月前半の札幌近郊はまさにそんな風景に溢れます.これが私が感じる北海道の春のイメージです.木々が新芽を吹き,淡い緑や赤色が樹木の樹皮を柔らかく覆い隠し始めます.畑の土は起こされ,目には見えない土壌の微生物も呼吸を盛んに始めます.春の到来を感じていることでしょう.そして多分この畑にはじゃがいもが植えられるはずです.^^

 

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熊野古道へ・・・

自然崇拝を基盤とする神道,大陸から伝来した後に独自に展開した仏教,そしてその両者が結びついた修験など,古代より日本においてその多様な信仰の場として知られる場所,熊野三山.紀伊半島の山岳地帯にあるこの霊山にお参りするために設けられた参詣道が熊野古道です.古来より日本人は,山に入って苦行を行い,心を無にして山と向き合うことで,罪業から解き放たれるという信仰を持ってきました.このような信仰は,古くは皇族を中心に,次第に武士,庶民へと浸透していきます.江戸時代には熊野への道が整備されたこともあり,「蟻の熊野詣り」と揶揄されるほど多くの庶民が熊野詣りを行ったと言われています.しかしこの有様に限っては,現在の新年初詣なんかと同様に,日本人の集団的イベント依存症の匂いを感じてしまいます...って,それは私だけ? 笑...一方それよりはるか昔,後白河上皇や後鳥羽上皇は,年に1回くらいのペースでひたすら熊野詣りを続けています.このお二方は熊野参詣の最高記録保持者でしょう.後白河上皇は34回,後鳥羽上皇は28回と記録されているそうです.皇族方の信仰がどれくらいの真剣さだったのか,私には簡単には推測できませんが,江戸時代に庶民の間に広まった熊野詣りとは,違ったものだったかもしれません.

しかし,なぜにこの地域がそれほどまでに霊的な地域になったのでしょう.私は紀伊山地に足を踏み入れるのはこれが最初です.日本有数の多雨の地域であり,この地域特有の植生,景観があるのだろうと想像します.山はどのような風景を見せてくれるのでしょうか.

ということで熊野古道に行って参ります♪
といっても,苦行などはもちろん行わない予定です...(^_^;)

関連記事:霊的世界(1)

 

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