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苫小牧に本物の高級リゾートがやってくる!? :: 2012/11/18(Sun)

「こんなのがあったらいいのに、千歳空港の近くに。。。」と常々思っていたまさにそのままのような計画が本当にあったなんて!

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121117-00000574-san-soci

千歳から樽前山方面のなだらかな傾斜と延々に続く森の景観、あの独特の雰囲気はそうそうあるものじゃないと思う。夕暮れ時、千歳から飛行機離陸後、樽前山方面をご覧ください。本当に綺麗です。

手つかずの自然もいいけど、人の創造物も素晴らしい。で、この両者が調和するのが、アジアの高級リゾートの世界。人も否定しない。自然も否定しない。そして、そのどちらかだけでは決して生まれない美的世界を生み出すという、まあこれも人間の業なのだろうけども、、、いずれ、その世界に北海道で酔いしれることができるかもしれない。北海道の自然はその器は充分なのに、このような本格的なリゾートが今までなかった。だからなおさら期待してしまう。

このリゾートをてがけるGHMは、あのアマンリゾーツを創始した方が手がけるもうひとつのブランド。アマンには行ったことないけど、写真のイメージからはけっこう絢爛豪華という印象を持っている。一方のGHMはちょっと控えめな大人のリゾートといった雰囲気。ランカウイ島のザダタイが有名だろうか。ダタイは10年以上前だけど訪れたことある。今でもあの落ち着いた空気が忘れられない。素晴らしかった。最近では、チェディチェンマイ。結局予約とれずに、フォーシーズンズチェンマイになってしまったのだけど(こちらも素晴らしかったです(こちら))、いずれにせよ、波長が合う。

建築は安藤忠雄氏がてがけるそうだ。
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Seven Diamonds :: 2011/06/26(Sun)

十勝千年の森に,「Seven Diamonds」(七つのダイヤモンド)という現代アートがある.

http://www.tmf.jp/art_06.php


SEVEN DIAMONDS SECRETLY LEFT IN SEVEN DIFFERENT LOCATIONS OF THIS LANDSCAPE
「七つのダイヤモンドがこの土地の七つの場所に密かに置かれた」


こう刻まれた御影石の石碑が,見晴らしのいい草原の中に置かれてある.

この石碑の横には簡単な紹介がある.

七つのダイヤモンド(2008)
ディディエ・クールボ
素材:御影石,ダイヤモンド


...もちろん石碑以外にダイヤモンドは見当たらない.


ここに書かれてある言葉の意味を改めて考えた.

「七つのダイヤモンドがこの十勝千年の森のどこかに置かれている.」

やはり,そのままの意味でいいのだろうと思う.

そう思い直し,改めて周囲の広大な風景を見渡す.

少し混乱する.

自分が見ているこの森の風景がこの作品を知ることによって変わったことに気づく.

ディディエ・クールボは,この場所の風景を作品に変えてしまったのか.











芸術家は何かを創る.音楽だったり,絵画だったり,庭だったり,建造物だったり,彫刻だったり...そしてその創作されたものから,鑑賞する者は何かを感じるだろう.知りたい事を見出すかもしれない.

しかし,この作品の物質的創作物である石碑は,文字を刻んだただの語り部でしかなく,墓石のようにさえ見える.この作品には形が無い.そこに刻まれ伝えられている,すでに過去のものとなったアーティストの行為の方こそが作品なのかもしれない.なぜこの地にダイヤモンドを置いたのだろうか.どこに置いたのだろうか.そもそもダイヤモンドとは私たちにとって一体何なのだろうか.なぜダイヤモンドだったのだろうか.そして,彼は何を思いながらこの地を歩いたのだろうか...

創作物は決して「自然」ではないが,そう考えながら目にする十勝の森の風景はやはり「自然」なのである.でもそれは人が存在しない自然ではない.人がいて初めて生まれる物語を内包した自然に変わった.

こんな思考の末に僕は思う.創作者は訪れる者にダイヤモンドを探せと言っているのだろうか?探すことでしか気づかない何かが待っているのだろうか?そして,果たして僕はダイヤモンドを探してみたいのだろうか?


****

この十勝千年の森には概ね1年に一度は足を運ぶ.そして十勝の広大で優しい風景と,この場所にある森と庭,そして創作物に触れて,何かを悩みながら札幌に帰ることになる.悩みと言ってもネガティブではない.心地よい悩みだ.

過去に書いた十勝千年の森の紹介→
http://erisabeth.blog123.fc2.com/blog-entry-351.html

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地球外生命体発見!のはずだったが・・・ :: 2010/12/04(Sat)

事前にNASAの記者会見情報を入手していた自分としては,てっきり宇宙人同席での記者会見で,宇宙人の名前はおそらくbossのCMで先行出演していたジョーンズ氏だろうと勝手に予想.ついにこの日がやって来たかと感無量の思いで会見を待っていたのだが...


****

アメリカ航空宇宙局(NASA)は現地時間12月2日(日本時間12月3日)、猛毒「ヒ素(砒素)」を食べて増殖する異質な生命体の発見を発表した。

 発表に先立ち、「地球外生命体の探索に影響を与える宇宙生物学上の発見」(NASA Sets News Conference on Astrobiology Discovery)との声明が出されたため、この数日は「地球外生物の発見か」とネット上が騒然となった。フタを開けてみれば、地球上の新種生物についての発表だったが、前代未聞の生命体だという。

(後略)

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20101203-00000000-natiogeo-int
http://www.sciencemag.org/content/early/2010/12/01/science.1197258.abstract
http://www.asahi.com/science/update/1203/TKY201012030120.html

****



なんだ,砒素を食べる地球のバクテリアかいな...がっかり.NASAも予算削られて必死なんだろうか,などと邪推してしまう.(笑)


この発見は,米国科学雑誌サイエンス電子版に,アメリカ時間2010/12/02付けで発表された.もちろん生物学的大発見ではあるが,宇宙生物学的発見(Astrobiology Discovery)という言葉はやはり言いすぎな気がする.(日本語のニュースでは「地球外生命体の探索に影響を与える宇宙生物学上の発見」と訳されているが,英文の直訳は「宇宙生物学的発見に関する記者会見」である.)

生物の最も重要な特徴として,その多様性とそれを可能とする環境適応性が挙げられる.砒素が多い環境に長時間さらされていれば,砒素を取り込む生物が生まれるということ自体,それほど驚くべきことではない.確かに,このバクテリアはそのDNAを構成するリン酸でさえ砒素に置換された生物であるそうだから,非常に興味深い存在ではある.しかし,そもそも砒素(As)とリン(P)は化学的に似た性質を持つ原子であり,化学的にそのような置換は可能である.驚くべきことはDNAのリンが砒素に置き換わったという事実もそうだけど,そういうことを可能にしているこの生物の代謝系の巧みさの方だろう.様々な蛋白質が十分に砒素化合物を基質として認識でき,核酸の生合成さえも砒素で行えるのだろう.細胞内シグナルもリン酸じゃなくて砒酸で行っているのだろうか?

似た事例として,蛋白質の中の硫黄(S)がセレン(Se)に置き換わるという現象がある.これは人間の体内でも起こっていて,人間にとってセレンは必須原子である.セレンと硫黄は,ちょうど砒素とリンの関係にあり,原子の周期律表で同周期に位置する.硫黄とリンは隣り合わせにあり,1周期後にセレンと砒素が隣り合わせでやってくる.化学的性質が似ているため,そのサイズが多少違っても生物は利用することができるのである.

やっぱり,宇宙生物の大発見などではないなぁ.あくまで地球生物学上での大発見,だろう.

****

そんなことを考えているうちに,宇宙生物学という言葉の意味を少し考えてみた.そして,僕が思い描く宇宙の生命像とは温度差があるのかもしれない,と思えてきた.これは,日本(東洋)思想と西洋思想の違いにも関係することかもしれない.

地球外生命体を探索することは,未知との遭遇を求める人間の一種のロマンだろう.しかし現状,探索する物質が水やアミノ酸や炭酸塩のようなものであることから,これは未知の生命体を探しているとは決して言えないと僕は思う.地球上で暮らしている私たちみたいな生命体が宇宙にいるかどうかを探しているに過ぎないのである.あくまでモデルは私たちであり,一種の仲間探しである.

例えば,地球とは全く異なる元素の組み合わせで機能する生命,例えば炭素じゃなくケイ素から成る生物を探すことは非常に難しいだろう.また寿命が数百万年の生物は僕らからは活動している生物に見えないかもしれないし,逆に気体のように不定形で,数万℃の中で寿命が0.001秒の生命も観測できないだろう.

そんなことを考えていると,そもそも生命とは何かという疑問にたどり着く.教科書に出てくるような自己増殖し,自身の機能を維持する代謝を行い,時間と共に進化していく物質の現象,などという定義はたいして面白くない.なぜなら,これは地球上で私たちが生命と名づけたものの説明であるだけなのであって,僕の中では未知の生命はこの外側にいる.

例えば,ギターとピアノと太鼓とトランペットという楽器があるとして,私たちはギターだけを「楽器」と名づけて,それ以外の楽器を全て「それ以外」として片付けているようなものじゃないかと思うのだ.実はトランペットという,ギターとは全く違う原理で音がでる楽器があるかもしれない.しかし残念なことに,私たちはピアノも太鼓もトランペットも,どうやって音がでるのか,演奏の仕方も,いやその姿や概念の何一つさえも,きっと何もまだ知らないのである.

ああ,確かにそうなのだ.私たちのこの現状では,「真に未知の存在」を探す手がかりさえない.だから私たちは地球外生命体との遭遇を目指して,やっぱり地球型生命体をモデルとして探すしかないのだ.もし存在していれば,「存在している!」とちゃんと気付くことができる可能性があり,あわよくばコミュニケーションをしたり理解したりできる.そのためには,同じ成り立ちの仲間である必要があるってわけだ.これこそが現実的に大発見を目指す「サイエンス」の有り様なのである.

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生存競争などと言う・・・ :: 2010/09/19(Sun)

生物の間に果たして「生存競争」というものはあるのか!?生き残るために本当に競争してるように見えますか?

生物の進化を語るとき,「種間競争」「自然淘汰」のような言葉は常套句である.テレビのネイチャー番組を見ていると,しきりと弱肉強食,生存競争,適者適存を主張するシーンに出会う.自然界の掟.非情の理,のような言葉が踊る.

確かにそういう側面はあるだろう.しかし,生物たるもの競争が全てでは決してない.いや,むしろほとんどの場面では戦いなどないと僕は思っている.緻密な関係を築いて協調的に生きているのだ.

人間の細胞は,例えばインフルエンザウイルスや黄色ブドウ球菌と戦うことがある.しかし,ほとんどの細菌やウイルスとの間に特筆すべき敵対関係などない.それどころか,人間の皮膚や腸内など至る所におびただしい数と種類の細菌が生息し,むしろ私たち人間の生命活動をサポートしている.昆虫などでは,もうある種の栄養素の調達は腸内細菌に任せてしまって,自身では全く作らないような種もいる.つまり細菌と一緒じゃないと生きることができないほど手を取り合って(完全な依存関係になって)いる.

サバンナの肉食動物にとって,草食動物は命綱であるが,草食動物たちにとっては,雨季の後に勢いを増す植物たち,そしてその植物のセルロースを消化器官で分解してくれる微生物たちが命綱である.シマウマとライオンをテレビが映し出す時,必ずや弱肉強食という言葉が持ち出されるが,別にどちらが強いということはない.食物連鎖という言葉は確かにそうだし,生きるために食べるという行いは生物の姿だろうけど,弱肉強食のピラミッド構造は全く本質とは思えない.生命は,宇宙の無数の星のように互いに広がっていて,その宇宙空間には上下なんて概念はない.

抗生物質というものがある.ペニシリンやメチシリンという名前をどこかで聞いたことがある方もいるだろう.これらが抗生物質と呼ばれる化合物で,微生物の増殖を抑え,時には完全に殺してしまう能力がある.私たちは重篤な病気にかかったとき,医師から抗生物質を処方されることがあるが,人間が病気のせいで体力が落ちているときに,さらなる細菌感染・細菌の増殖を防ぐために飲むのである.

実はこれら抗生物質は微生物自身が作り出す物質だ.微生物たちは自分自身が生産する抗生物質の種類に対しては耐性がある.しかし異種の微生物にとっては猛毒となるのである.このようなことから,長いこと科学者はこれら抗生物質を「武器」だと思ってきた.土壌中に住む無数の細菌たちは,抗生物質を武器に互いに厳しい生存競争を繰り広げている,と本気で思ってきた...そしてその競争がまた新しい抗生物質が生まれる進化的要因である,と,,,そんなふうに思ってきたのだ.

しかし,これはとんでもない早とちりである.実際に微生物が生息する環境中で,他者を殺傷するほどの高濃度の抗生物質など検出できない.そう,つまり彼らは人為的に濃縮すれば他者を殺すことができる抗生物質というものを確かに生み出してはいるが,現実には低濃度すぎて全く武器としては役立っていない場面がほとんどなのである.

http://www.sciencemag.org/cgi/content/summary/sci;324/5935/1637

実は,人が抗生物質と名づけた物質の多くは,低濃度下では様々な遺伝子の発現を調節する能力があることが分かってきた.すなわち,様々な微生物が様々な抗生物質を生産し,それらは互いの様々な遺伝子発現の活性を変化させることができるようなのだ.言い換えるなら,これは生物の個体間を飛び交う「シグナル」なのである.ある研究者はこの様子を「彼らはこれらの(抗生)物質で会話をしているに違いない」と語っている.抗生物質は武器などではなく,微生物の世界でのコミュニケーションツールなのかもしれないのである.私たちはひとまず「抗生物質」という名前を改名しなくてはいけないだろう.

生命は生き残りをかけた厳しい生存競争をしているようには僕には決して見えない.しかし,確かに時にそのように競争しているように「見える」こともある.これは,私たちの今の社会や世相を出発点とした,私たち人間の価値観で生まれた感覚ではないだろうか.ある種のバイアスをかけて見たときの,あるひとつの生命の姿でしかないと思う.色眼鏡を外してみよう.そこには違った生物たちの姿が目に映る.その風景に争いは希薄で,彼らは時に手を取り合い,私たちが想像もできない方法で談笑しているのだ.

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種の間の壁はあるや無しや :: 2010/08/18(Wed)

種が隔てられているのはその瞬間だけで,時間の流れの中では皆つながっているのだろうか.

僕はエゾトンボの仲間の種の区別がなかなかつかない.



こちらは,時より散歩する札幌近郊の公園でよく見かけるエゾトンボの仲間.止まっているトンボを見て,彼がコエゾトンボなのかタカネトンボなのかカラカネトンボなのかモリトンボなのか,僕は全く分からないのだ(maleだということは分かります.笑).もちろん専門書やとても詳しい人に話を聞けば,一応理解できる.でも,ちゃんと記憶して分類するのはとても難しい.それくらいわずかな違いしかない.

僕はあまり「分類」という言葉は好きではない.でも生物種間に「違い」は確かにあるし,それを明確にするために分類という作業はある.そして何より,僕にはコエゾかタカネか分からなくても,本人たちは非常によく分かっている,それが「違う」ことの何よりの証拠である.トンボ達からすれば,ニホンザルも人間も同じに見えているかもしれないが,僕らには人間と猿の違いというものははっきり分かる.エゾトンボ達も同様に,お互いの種の違いをよく分かっている.

種,というものは,人間が定義したかに見えて,いや実はしっかりとそこに存在している.チンパンジーと人間は違う.なぜそう言えるかというと,人間とチンパンジーの中間である生き物が全くいないからである.それはただの偶然だろうか? いや,そうではない.もしネアンデルタール人やジャワ原人が,現代にも生きていたとしよう...それでもやはり,ネアンデルタール人と人間(ホモ・サピエンス)との中間の種はいないことに違いはないのだ.種と種の間を満たしている存在がいない.生物は連続じゃなく離散なのである.

チャールズ・ダーウィンはやはり偉大な人物だと思う.生き物が世代を重ねてゆっくりと,環境と調和しながら変化していき,現在の多様な生物種が地球に生まれた,そのようなことが生物の教科書には必ず書かれてあるだろう.生命は最初おそらく一種類もしくは数種のわずかな存在だけだったが,それらが様々な環境を経験しながら次第に姿かたちを変え,様々な種に分化し,現在に至っている,と.

この生物の進化のイメージに対して,科学の立場から文句をつける人は現代にはほぼいない.しかし,よくよく考えていると,人間は誰も生物の大きな進化の現場を見たことがない.科学の基本は観察すること.そしてその観察した内容を科学の言葉で説明することだ.もし観察から新たな仮説を立てたなら,それが正しいことを立証しなければならないし,そのために実験を行わなくてはならない.そういう意味では,ほとんどの科学者がこの進化のイメージを信じているのは,驚くべきことかもしれない.例えるなら,長大な映画フィルムの最後のある「ひとコマ」だけを見せられて,その映画のストーリー全体を予想しているようなもので,そのストーリーを多くの人は信じている状況だ.マクロな進化論はいまだに「仮説」なのである.

僕達はそのひとコマの中だけで生きている.その中では,僕達はクマゼミがアブラゼミに変化しないことを知っている.茄子がトマトになったりはしないし,トノサマガエルだってアマガエルには決して変化したりしない.しかし,それは僕らのたかだか百年弱の人生の中の話だからだと言うのか.もし何千万年,いや数億年もの時間があれば,クマゼミはアブラゼミに変わるようなこともあって,そしてその時間の流れの中ではアブラゼミとクマゼミの中間の姿のセミは果たして存在するというのだろうか?

もしゆっくりと変化しながらそれら中間の生き物が存在するのなら,お互いに時を越えて出会うことはできなくても,時間に寄り添って生命の種は離散ではなく連続だ.コエゾトンボもタカネトンボもモリトンボも,結果的に生まれることになるかもしれない未来の何かあるトンボに向けて,今目に見えないほどゆっくりとした速度で変化している最中なのかもしれない.

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写真・自己鍛錬・映画・そしてサイエンス :: 2010/06/13(Sun)

僕は写真が好きだけど,下手だ.

そんなことはない,と言ってくれる人もいる.しかしそれは僕にはオートマチックにお世辞に聞こえてしまう(どうもすみません...).僕は自分が撮る写真に全く満足していないし,僕が本当に撮りたいと思う風景や生き物の姿はたいてい写真に写っていない.と後で思う...だからだ.

僕は,たちの悪い完璧主義者なのかもしれない.完璧であることを求めなければどんなに楽だろうと思うし,だいたい「完璧」なんてものは無いのだから,もっと肩の力を抜けばいいのに,と自分で自分に対して問うのだが,しかしもうひとりの自分は,常に何かを求めて考え,探求する心を忘れてはいけない,と主張する...完璧,もしくは限りなく完璧を「求めようとする心」は大切にしなければならない,とも思うのだ.それが自分を進歩させる.

僕が写真が下手な理由はある程度自分で理解している.ひとつは「なぜ写真を撮るのか」という目的が希薄なことだろうと思う.もしくは写真で何が表現したいのかとか,何を残したいのか,という明確な意志がないことだろう.ただ,写真を撮るということが楽しい,そこから写真という趣味の世界に入ってしまった経緯がある.

次に,頭の搭載メモリーが少ないことも理由としてある.写真を撮ろうと思うと,なんかその「撮影する行為」にのめり込んでしまい,ファインダーをのぞく前に考えていたことが吹っ飛んで,で,結局しょうもない写真になってしまう.これが自分の日常なのだ.

まあ趣味なんてこんなもんなのだろうけど,上に書いたように,僕は完璧を求めてしまって...で,不完全な完璧主義者になってしまうようだ.^^;



私は写真を撮るのも鑑賞するのも好きなので,様々なマチュアやプロの写真家のブログやホームページを訪問する.その中でも,写真家の武田晋一氏の写真は僕にとってはやはり特別で,強く心に響き,言葉に表せないような感動をいつももらう.(前にもこのブログで紹介して,リンクも貼らせていただいています.)僕がある意味「完璧」と思う写真の世界なのだ.プロの方なのだから知識や感性など自分と比べるのはさしでがましい.それはそうなのだが,それでも僕は感動すれば,どうやったらそんな写真が撮れるのか,と考え込む.機材のレベルやRAWデータの処理はどこまで作品の質を決めているのか,見極めたい(僕は安い機材しか持っていないので...).構図,絵作り,光を読む能力は機材に関係ないから,学ぶことだらけだよなぁ,とか,そういうことをいろいろ考え込んでしまう.

僕は武田さんの写真を体験していると,モネの睡蓮を思う.モネの睡蓮は,睡蓮を描いた絵画ではない,と僕は感じている.完璧に表現された光は,睡蓮をただの睡蓮のままにはしていない.睡蓮は科学的な計算が作品の基盤部分にあると感じるが,そういうものとは一見無縁であるかのような「詩的な世界」としても存在している,と思う.そういうことだよな,と僕はつぶやく.

http://www.takeda-shinichi.com/1-Monthly/10-05/10-05.htm
(この記事は,武田さんのこの文章から刺激され,書いています....)

武田氏は,再三「写真は引き算じゃなく足し算だ」と言っておられて,これも最初に読んだときから,本当にそうだ!と思うと同時に,ある種の常識に対してこうも簡単に否定してしまえるプロって凄いと思った.否定と言っても,これはマイナスの否定ではない.ずっと重たい言葉.僕も写真好きとしては,やはり写真雑誌などを開いて,何かと情報収集をしたものだ.そして必ず「写真は引き算だ」というような言葉に出会うのである.写したいものを残して,余分なものはなるべく写真から除く.画面から外したり,絞りを開けてぼかしたり...そうすれば,すっきりと見栄えのいい写真になる.しかしそれは,ただの「見栄えのいい写真」に過ぎない.ということを武田さんの自然写真からいつも教わる.

しかし足し算していくと,僕の場合微妙な写真になるのも事実だ.僕の場合,まず光というものをよく理解していないらしい.それが写真を撮ると露呈する.なるほど,やはり素人が自己満足するには引き算なのだ.笑 しかし,それでは僕は寂しい.これからも自己鍛錬を続けようと思う.しかしその前にやはりテーマ,写真に写し込みたいと思えるテーマに出会おう.と思う.


前にテレビで,映画監督の北野武氏が「映画監督は博学じゃなきゃやれない」というようなことを言っておられたが,これも僕の心に響いた.

狭い範囲しか見ていないと,結局狭い場所に閉じこもらざるをえない.下町の人情を描く作品を撮ろうとしたときに,下町のことしか知らなければ,下町という狭い範囲でしか通じない世界を描いた作品しか撮れない.下町の素晴らしさを伝えようと思うなら,これは馬鹿げたことだ.なぜなら,伝える相手は下町の人ばかり,だったら馬鹿馬鹿しいじゃないか,ということ.

だから,高級レストランのボーイがどう客をもてなすかを知って,その素晴らしさを感じる心が必要だ.土を耕し,偉大なる自然に頭を垂れる心の美しさを感じる心も必要だ.



僕は科学者の端くれだ.しかし何事も「科学」的にしか物事を考えられなくなったら,自分は死んでいるのと同じだとも思う.サイエンティストとしてそう思っている..常識を払拭して誰も知らなかった発見をするには,科学的ばかりに物事を考えていてはいけないのじゃないか.面白いことがあって,それがgeneralな発見と位置づけられるなら,それを論文として報告するときに改めて科学の言葉に翻訳すればいい.翻訳する際に検証は必要だが,検証できない,翻訳できないなら,それは科学ではないということ.僕はそういうプロセスを経て科学論文を書く.

科学の言葉を使うときも,それはやはり完璧じゃなきゃいけない.もしくは,可能な限り完璧に近くなければならない.自分が証明しようとしていること,誰も知らなかったことを発見したなら,誰もが首を縦に振ることができるだけの客観性がなければならない.そのためにはあらゆる実験を行い,検証し,誠実でないといけない,と思う.とてもクールな検証現場がそこにある.しかしそうやって報告した発見は,自然の中に存在する何かしの在りようを明確に理解する感動をもたらしうる.そして,それは人生やものの考え方に時に影響を与える.つまり,詩を味わったり音楽を聴いて感動するとすれば,それと同じポテンシャルが科学にあると思うのだ.全ては人の中に共存しうると・・・思う.

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十勝千年の森 :: 2010/05/23(Sun)

僕は北海道に移り住んで,もうかれこれ15年ほどになる.15年の間に北海道内いろんな場所を訪れた.

そんな自分がもし「北海道で一番おすすめの場所はどこですか?」と聞かれたら...今なら十勝平野と答えるだろう.





十勝を訪れると本当に癒される.そしてすごく元気になる.巷では「パワースポット」なんて言葉があるようだが,まさに僕にとってのパワースポットは十勝平野である.

2年ぶりに「十勝千年の森」を訪れた.前に訪れた時はまだ整備中だったのだが,今回はもうほとんど完成していた.

http://www.tmf.jp/index.shtml

この「十勝千年の森」は,十勝毎日新聞社のグループ企業である,有限会社ランランファームが運営している.「千年先の人類にかけがえのない遺産を残す」というコンセプトのもと,約200ヘクタールの広大な敷地に在来樹種の植林による森の復元を行いつつ,森には現代アートを点在させ,レストランやウェディング,庭園(ガーデン)の創作,日本初のセグウェイツアーなど,ユニークな活動を行っている.運営サイドはこの森のことを「環境リゾート」という言葉で説明しており,また「本当の豊かさとは何かを改めて問いかける場所」と発信されている.僕はあまりこういう言葉ばかりを聞かされると,なんだか嘘っぽいというか,または説教臭くも感じてしまう.残念なことだが,そういうものが現代には多すぎるからである.しかしこの森を訪れると,本当に千年先の人々のために何か残そうとしているんだ,と思える.思える空気がある.だから僕は本当にこの場所が好きだ.





本当に美しい場所なのだ.恐らくは,洗練された美的感性のある方々が多くこのリゾート創設に携わっているだろうと推測する.例えば,ちょっとした柵や看板でさえも,風景を壊さないような配慮があるように思える.これは現代日本にはありそうでなかなかない.




「十勝千年の森」の中にある蕎麦屋「ほおの木」.素敵な佇まい.




今回は十勝名物豚丼とごぼう天蕎麦をいただいた.蕎麦とごぼうがとても美味しい.


****

手付かずの大自然もいいが,人と自然が関わりあって化学反応を起こすような場所には,そこにしかない新しいものが生まれるのだと思う.そして人の知恵や知識,そして創意工夫のもとに生まれるものが,人間以外の「自然」というものの中に調和する.それは本当に美しい,と僕は感じる.これはいわゆる日本の「里山」という環境に通じるのだが,しかし十勝千年の森はいわゆる日本の農村にあるような里山ではない.もっと戦略的に,そしてある種のビジネスとして,そういうことを今一度考えた,そういう場所なのだ.それが逆に新鮮でいい.


十勝千年の森に限ったことではない.十勝平野は人の営みと自然との調和が溢れていると感じる.それがパワースポットと僕が感じる理由だろうと思っている.十勝では人は人として活動するために適度に自然を制している.それはあの広大な平野を幾何学的に整備し,広大に営まれる小豆畑やじゃがいも畑のことだ.だが,この場所では自然はとても優しく,人々の味方のように感じてしまう.溢れる太陽が作物を育て,時よりやってくる低気圧がたっぷりと雨をもたらす.太平洋で生まれ忍び込んでくる海霧も,十勝平野を覆い続けることはできない.冬には,豪雪をもたらす雪雲を日高山脈が退けてくれる.もちろん,霧も雪も「自然」なのだが,人が生活を営むには過酷な自然であり,そういうものは十勝には流れ込まない.つまりこの地には無意味な戦いがないのだ.この場所では人も含めて物事がうまく回っているように感じてしまう.僕は十勝で農業を営んでいる人間じゃないので,本当の現実はよく知らないだろう.でも僕にとって十勝とはそう感じてしまう場所.本当に美しくて,心が安らかになる場所なのだ.

関連記事:伊勢神宮
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あなたは本当に人間ですか? :: 2009/11/04(Wed)

私たちは人間です.しかし人間は人間という成分だけで成り立っているわけではありません.

なるほど,そうだったか!あの昆虫のたくましさの秘密を垣間見たようですごく納得です.

「ゴキブリ共生細菌Blattabacteriumによる窒素再利用と栄養源供給」
Zakee L. Sabree, Srinivas Kambhampati, and Nancy A. Moran. Nitrogen recycling and nutritional provisioning by Blattabacterium, the cockroach endosymbiont. Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America, PNAS published online before print October 30, 2009, doi:10.1073/pnas.0907504106
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/19880743?dopt=Abstract


この米国科学アカデミー紀要に発表された論文には,ゴキブリとその共生細菌Blattabacteriumとの驚くべき関係が報告されています.ゴキブリの体内に共生しているバクテリア(細菌),Blattabacteriumは,必須アミノ酸,種々のビタミン類,その他様々な栄養物質をゴキブリに提供します.しかし,それら種々の栄養素は外から取り入れるのではなく,ゴキブリが生活することで生まれる老廃物,尿酸を使って作られているのです.尿酸は尿素に,尿素からアンモニアに,そして最終的にはグルタミン酸に変換され,このグルタミン酸から再び様々な栄養素が生み出されます.

つまり単純に説明するなら,非常に効率的な物質循環系がゴキブリの体内で生まれているということ.ほとんど何も食べず,またほとんど何も排泄せずとも,ゴキブリは長期間健康に生きることができますが,このバクテリアの共生がその理由を説明しています.

一方,私たちの老廃物はいったん体外に出してからでないと循環は起こりません.例えば,私たちの排泄物は畑の肥料になります.私たちの排泄物が土壌細菌などによって代謝され,植物が栄養源として利用可能な窒素化合物が再び生まれます.そしてその窒素化合物を吸収して畑のトマトは生長し,夏に実ります.このトマトを私たちが食べるとようやく循環達成ですね.私たちの排泄物が,長い旅を経て再び美味しいトマトになって戻ってきたわけです!

しかし,ゴキブリはこんな面倒なことをせずとも,自分の体内の腸管の中で,Blattabacteriumと手を取り合って循環を完成させているわけです.

一方,ゴキブリは多くの栄養の生産をこのバクテリアに依存しています.ですから,Blattabacteriumと一緒じゃなきゃ,ゴキブリは生きることさえできません.(この事実は以前から知られていたようです.)食物から摂取しても充分にまかなえず,自身で作ることもできないとなると,全く生命を維持できなくなるわけです.


****

昆虫恐るべし,と言いたい所ですが,人間も同じようなものです.例えば,人の体は約160兆個の細胞でできています.あれ?昔生物の教科書で60兆個と習った気が...という方,確かに正解.人の遺伝子を持った正真正銘の人の細胞は約60兆個と見積もられています.じゃあ残りの100兆個の細胞はというと,ゴキブリのBlattabacteriumのような存在.つまり共生している微生物たちの細胞です.皮膚の上や消化管(腸内)や口の中や,ありとあらゆる場所にはおびただしい種類と数の共生細菌が住んでいて,私たち人間の健康な命を支えています.まあ,支えているという言い方はちょっと人間中心的で,彼らも居心地がいいから人間の体に住んでおり,人の細胞と共存の関係を構築しています.結果的に,私たちは共に生きて行くことになっているわけです.

どこまでが私でどこからが私じゃないの?

自分の意識や気持ちは自分自身のもの,と当然思われますが,本当にそうでしょうか.急に部屋の換気をしたくなったのは,本当にあなたですか? ひょっとしたら,共生微生物が部屋の中のアンモニアなどの汚染物質の濃度上昇を感じ取り,人間の細胞に情報を伝えているのかもしれませんよ.そのおかげで部屋を換気したくなったのかもしれません.人間の細胞と共生微生物の細胞はとても複雑な情報のやりとりを行っていて,相互に常に影響を与え合っています.うつ病と腸内共生細菌との関連性を指摘した報告だってあるのです.

そもそも「自分」というものの定義を変更すべきなのかもしれません.自分=人間,じゃあないのです.自分とは,人間も含んだ様々な種類の生物の巨大な集合体です.そう考えれば,部屋を換気したくなったのは,やっぱり「自分」で合っていますね..もし宇宙人に「あなたは何という生物か?」と聞かれたら,「一種類じゃなく,かなりたくさんの生物が集まって私ができあがっていますが,一応人間と呼ばれています」と答えるのが正しいでしょう.

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反紅葉主義? :: 2009/10/29(Thu)

秋になると,鮮やかな紅葉にカメラを向ける人たちで溢れます.もちろん写真が好きな人に限らず,秋の紅葉狩りというのは日本では春の花見と同じような定例行事です.赤や黄色に色づく木々に魅了されている所為でしょうか.紅葉スポットなる場所は日本では極めて重要視されますし,ニュースも大々的に取り上げますね.






しかし,鮮やかさこそが秋だとは僕はあまり思っていません.鮮やかな色を現すのは,数ある植物のうちのわずかでしかなく,ある植物は次第にただ枯れていき,ある植物は枯れることなく冬を越えます.赤や黄色に染まることはありません.









色づかずとも,秋に起こる様々な変化はとても美しいと感じます.枯れるという行為は,環境が変化していくことに対するとても前向きな生命の意志です.植物にとって秋に葉が枯れていくことは,春に芽吹くことと等しく前向きなことではないでしょうか.
















とうとう札幌の週間天気予報に雪だるまのマークが登場してしまいました.世界屈指の豪雪都市に,今年もまた冬がやってきます.

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本末転倒(3) :: 2009/09/26(Sat)

本末転倒は,日本の歴史に深く根ざした思考の形態なのだろうと感じます.

本末転倒(1)本末転倒(2)からの続きです.)

人は長い間,あるがままの自然をただただ受け入れてきたに違いありません.大雨・干ばつ・雷・台風...自然は私たち人間の力ではどうにもならないもの,干ばつが続けば雨乞いをし,雷のせいで家が燃えてしまえば,また新しい家を建てるしかない.病気にかかり死を迎えれば,ただ人は惜しみ悔やみ弔う.自然の在りようは防ぎようがないこと.受け入れるしかないこと.それが「自然」というものです.いや,そうだから「自然」と呼ぶのです.もちろん悪いことばかりではありません.いつになく大漁の日もあるでしょう.自然の恵みに感謝して,その糧を受け入れる.それも自然です.すべてはこの世界の理(ことわり)であるでしょう.

しかし,この国では本末が転倒しはじめます.

あるときから,自然を誰かのせいだと責任を転嫁する思想が芽生えたのです.例えば,今回の大洪水は山の神が怒ったせいだと.今回の大波は海の神が怒ったせいだと.そういうふうに自然を理解しはじめるのです.神の「意志」ではないのです.意志ならこれまでと変わりありません.しかし,神の怒りの「せい」にしたのです.

時が流れ,神は次に人格を得ます.概念的な漠然とした神ではなく,もっと具体的な神になっていくのです.例えば,今回の山火事は,誰々の法力が起こした災いだとか,菅原道真公がお怒りだ,とか,こういうことになっていきます.

ここに至り,私たちはただありのままの自然という認知を却下し,全く違う認識で自然を再構成しなおしてしまった,と言えるでしょう.つまり,自然が「脅威」ではなく「怪異」に変わったということです.何らかの仕業によるものだ,何らかの意図に基づいた恐ろしいことだ,という理解が生まれたのです.

しかし考えてもみてください.本来,恐ろしいものは天災そのものでしょう.台風や大雨や干ばつ自体です.しかし私たちの先祖は,その原因を神や死者や偉い人の所為に後から変更した.端的に言うなら,天災のせいで人が死ぬという構図を,誰かのせいで天災が起こるという構図に変えたということになります.ですから,いつしか恐ろしいのは天災ではなく,神や死者や偉い人,怪を引き起こす存在の方にすり替えられ,したがってそれら怪異を起こす存在を崇め奉り,祈祷し,鎮めようとした.

この後,「日本人」と「自然」の間には実に様々な形で怪異が存在し続けることになります.このような怪異を起こす存在の最終形が現代の言葉で「妖怪」と呼ばれる者たちです.妖怪は神でもないし精霊でもないし死者でもない.いや,正確に言うなら,神や霊や死者など様々な属性が混濁して生まれた者たちであり,自然との間に立って,多くのことの責任を一手に引き受けた.精霊も神も死者も世界中にありますが,「妖怪」とほぼ同じ概念は世界中探しても見つからないと思います.

ごく最近まで生き残っていた妖怪から,妖怪の社会における役割が垣間見えます.例えば,おおさきという動物(妖怪)は非常に興味深い妖怪です.おおさきは,家に住むといわれ,人には見えません.しかしやはり自然を怪異に変える存在です.子供たちが行儀悪く食事をしていると,「おおさきがやってくるよ」と言って親に叱られました.実はおおさきは,行儀の悪い子供の食事から「み」を奪っていくという怪異を起こすのです.(「み」が入っていないと,ご飯は美味しくないし,栄養もないし,ただの「から」になると言われます.)また,おおさきは秤が大好きで,すぐに秤に乗ります.もちろんその姿は見えません.昔はものの売買にはたいてい天秤が使われていましたから,おおさきがどちらに乗るかで,得をする人と損をする人が出てくることなります.つまり,おおさきは貧富の差を生む要因を作り出す存在でもあり,捉え方を変えれば,天秤に仕掛けを施しこっそり儲けてやろうという人間の悪意や,商売が実際に上手であるという才能を覆い隠す,つまりそういうものすべて,おおさきが責任を負って,人々は平等感覚を保っていたということです.

実は...今も似たような生き方を送っているんです,日本人は...妖怪を信じている人はいないと思いますか? いえ,そんなことはありません.子供が行儀が悪いと,注意するでしょう.「周りの人が迷惑だから静かにしなさい」じゃなく,「お父さん怖いよ.叱られないように静かにしなさい」と.つまり,現代では子供を叱るお父さんが妖怪の役割を担っているのです.あるいは,自分の不注意や理解不足を,日本人はすぐに「気のせい」にするでしょう.「気のせい」にすることで,すべてリセットできる,つまり「気」は現代に生息するある種の妖怪なんだろうと思います.

私たちはこうやって長い間,物事の本質をころころと変化させ,本末を転倒させ続けて生きてきました.だから,この国は本末転倒というものこそが本質であると言っても過言ではないと思っています.だからこそ,本末転倒の要素が皆無である状況などほとんどないのではないでしょうか.

しかし,これまでと現在では違っていることがひとつあります.それは,今までは本末転倒という言葉はなかったけど,現代の人々には「確かにそれは本末転倒だねぇ」と理解できるということ.ただそれだけです.本末転倒を理解した私たちは,これからどう変わっていくのでしょう.

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京極夏彦氏の小説「塗仏の宴」は,本末転倒が主題である小説です.前半の「宴の支度」において,全く無関係に見える6つの事件が,由来も性質も異なる6種類の妖怪とともに語られ,後半の「宴の始末」にて,すべての事件が次第につながっていきます.騙す者と騙される者が,現実と夢が,次々に次々に入れ替わる.つまり本末転倒を繰り返しながら...本当のこと,ってどこかにあるものなのだろうか.それとも,そもそも本当なんてものはないのだろうか.そんなことを考えてしまいます.

この小説から多くを学ばせていただきました.参照文献としてここに記します.


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