日本について考えるブログ




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素揚げのコオロギと思い込み :: 2007/12/29(Sat)

先入観,思い込みは危険です.自分が信じていることをそのまま当然だと思い続けることは,思考の多様性を減らし,思考停止へと進む第一歩です.考えていても,「同じこと」しか考えないというのは思考停止と同じだと私は思っています.

カンボジアを旅したときに,現地の人がおやつに食べるというコオロギの素揚げを食べました.


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かなり気持ち悪いでしょ?食べたいとは思えないですよね.笑

日本のエンマコオロギより遥かに大きく,昆虫が好きな私も,食べるとなると正直ちょっと気分が萎えましたね.笑 そのときの私の正直な気持ちは「恐いもの見たさ」.つまり,どれほど変な味なのかを,気持ちが悪い思いをしてでも知りたいという好奇心です.疑うことなく絶対に美味しくはないだろうと思っていたわけです.

ところがです!勇気をふり絞って食べてみると,びっくり仰天!!!美味しいではありませんか.「美味しい!」.そう感じるのです.食感も味も四万十川で食べた川えびの素揚げのような感じ.一切のくさみがありません.それどころか,一緒に添えられたライムをひと搾りしてまたびっくり!こ・こ・これは!これは完璧に相性が合っている!!

そう,カンボジアの人は,貴重なタンパク源としてコオロギを食べているのではなく,美食として食べていたんですね.ライムをかけるんですよ!しかもガイドの方に教えてもらったのですが,このコオロギ,地面に穴を掘って暮らしているため,水を穴に入れて逃げ出てきたコオロギを子供たちが捕まえるのだとか.かなり手が込んでいます.そして極めつけの説明が...「このコオロギが美味しいんです.他のコオロギは美味しくありません」.出たぁぁ!!これぞ結論ですよ.やはり美味しいから食べていたんですね.なるほど美味しいわけだ.実はカンボジアでは他にもタガメやクモなんかも油で揚げて食べるそうなんですが,かなり食べてみたくなりましたね.

それでも昆虫を食べるというのは気持ち悪いと思う方は多いでしょう.生理的に,ですね.しかし.私はこの一件においても,「思い込みは悪だ」とはっきり思いました.だって美味しくないと勝手に決め付けてたわけですから...

日本人は,習慣に慣れ親しみ,冒険をしません.おしなべ保守的です.そしてそれを強烈にバックアップするのが「思い込み」です.たとえどんなに自分が正論である確信があったとしても,相手の言葉を聞こうとしない日本人がいるでしょう.事実,私はコオロギが美味しかったと話しても,心底そうかと思ってくれた人はあまりいないような...涙 

いずれにせよ,私はコオロギを食べて食の世界観が広がったと感じます.

関連記事:タ・プローム遺跡

   
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フランダースの犬になぜ感動するのか :: 2007/12/27(Thu)

「フランダースの犬」を検証するドキュメンタリー映画「パトラッシュ」が,27日,作品のラストシーンになったベルギー・アントワープ大聖堂で上映されるそうです.

http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20071225i302.htm


読売オンラインの記事を見て頂ければ分かりますが,このストーリーがなぜ日本でのみ大きな感動をもって受け入れられたのか,という謎がこのドキュメンタリーの中で検証されているようです.うーん,なかなか面白いテーマで,ちょっと見てみたいかも.「フランダースの犬」は,地元ベルギーではあまり評判はよくないようです.Wikiによると,作者がイギリス人ということもあり,「自分たちはこの物語のように(子どもを一人で死なせるほど)非道ではない」との反感があるようです.まあそもそもこの物語,「負け犬の死」とまで言われているわけですから,欧州では同情や共感は皆無のようです.アメリカ版は最後をハッピーエンドに変更されて放映されているというから驚きます.

「フランダースの犬」.画家を夢見る少年ネロが,放火のぬれぎぬを着せられて村を追われ,吹雪の中をさまよった揚げ句,最後は誰を恨むこともなく忠犬パトラッシュとともに凍死する(天に召される)物語.日本では年末なんかに感動のアニメ名場面集に必ず登場する作品で,確かに日本人の心に響くようです.このドキュメンタリー映画をちゃんと見てみないと分からないですが,ドキュメンタリーの結論は,「日本人は、信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす.ネロの死は,まさに日本人の価値観を体現するもの」となっています.なるほど....私もフランダースの犬,最終回なら見たことあります.日本人が感動する感覚も分かる気がします.

ではここからは私流の解釈です.

まず,じゃあそもそも感動って何なのでしょうか,というところから.ドイツの哲学者ハイデガーの思想で語るなら,感動は「あこがれ」から生じるとされています.これは私にとってとても納得のいく解釈です.感動するには,自分の生活の範囲内にあるありふれた事象,当然可能なこと,もしくは当然と思っている価値観に対して,それを改めて見せられても駄目です.あくまで「あこがれ」(事前にそのような「あこがれ」が自分にあることを認識しているかどうかに関わらず)を見せられると感動するわけです.私が屋久島の自然に感動するのは,やはり自然というものに対する私の「あこがれ」が具現化した姿のひとつが屋久島だったのだと思います.実際に屋久島に行かなくても,そういう私の思い描く「あこがれ」を見事な映像で見せられると感動するでしょう.

日本人がこの物語に感動するということは,このストーリーに「あこがれ」があるということになってしまいます!いったい何にあこがれているのでしょうか.まず思いつくのは,おそらく主人公の美しい姿にでしょう.ここでいう「美しい」とは,不運を背負っても文句を言わず,人のせいにせず,わめき散らすことなく,その状況を受け入れて最終的に死んでいくという生き方ですね.これは日本の中に思想として存在していて美徳とされており,でも現実にそんなこと実践している人はそうはいませんから,「あこがれ」になります.映画の結論にある「挫折を受け入れることの崇高さ」とはこの思想を指しているように思えます.しかし,本当にこれだけでしょうか.第2のあこがれは,天に召されるシーンです.誰も分かってくれなくても「神」は受け入れてくれる,と.クリスチャンでもない日本人がこういう考え方をするのは不思議ですが,私からすると,これは日本人の依存的性格が引き起こす思想だと思います.悪くいうなら「身勝手な思想」.どこにでも,いろんな役割に細分化された神様が存在するのはそのためです.この物語の最後に登場する天使も,そういう都合のいい神様のひとつにすぎない.「唯一絶対の神」ではなく,自分を唯一理解し励ましてくれる都合のいい存在です.で,そういう存在から受け入れられる神秘体験なんて普通しないですよね?だからこのラストシーンもあこがれなんです.それから最後に,私は日本人はこの物語に対してある種の共感を抱いているのではないかと疑います.どのような共感か.それは,何かと不自由でありながらひたすら我慢し,自己の意見を発言しない(発言することを思いつかない,もしくは発言を許されていない)ストレスまみれの日本人が,「ネロ,さぞかし辛かっただろうね.悲しいね...でも人生って孤独だよね.」みたいに共感するんじゃないかと.苦笑 この前半の「崇高な精神」と,「都合のいい神様」,「自主性の欠如から来る共感」が美しきハーモニーを奏でるため,この物語は大きな感動となって日本人の心に迫ってくるのでしょう.

前半の崇高さ,これは少しだけ武士道的かもしれません.「私は無実だ!!」と叫びながら死んでいくよりは,黙って切腹をする美的精神.こういう精神は明らかに世界的に稀であり,日本に興味を持つ世界中の研究者の心を鷲づかみにする思想のようです.ですから,確かにこれを「悪」とは感じません.一方,神様依存症は,自主性を奪うものでありよろしくありません.次に共感を抱くこと.こちらはさらに問題ありと感じます.日本人がもしこの物語の主人公に同情や共感を覚えるなら,精神構造がこの少年と同じだということです.これは驚くべきことです.ヨーロッパ人のこの物語への印象を引用することでその異常さが分かります.「子供だとはいえ,死なない方法を何か考えることは普通できるだろう.だいたい村中の誰もがみんなあれほど非情になるなんてこともありえない.物語全体が不自然だ」と.だから「負け犬の死」になるんですね.そうなんです.ネロとパトラッシュに注目が行き過ぎますが,村人を含め,あの物語で描かれる状況,それは日本社会の縮図なんです.ふくろだたきの構図そのものであり,現代を生きる欧米人の感覚では不自然極まりないわけです.そりゃあ日本人なら共感・同情できますよ.あたりまえです.

前半の美的意識は素晴らしい.しかしこの後半の要素は憎むべき事実です.これらは何かし思想的オーバーラップがあるだろうと感じますが,とにかく自由を抑圧し一部の人間を弾劾し失墜させるようないじめ社会に対しては,「どうしようもないよぉ...」ではなく,なんとかしなくてはなりません.このせいで,多くの日本人の自由は奪われていると言っても過言ではありません.

・・・・
最後に.私はこのドキュメンタリー映画のタイトルが「パトラッシュ」になっていることに感動しました.そう.この物語の中で最もスポットライトが当たるべき存在は忠犬パトラッシュですよ.そして原題も「フランダースの犬」だということを,日本人は決して見落としてはなりません.

   

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グルメって何だろう... :: 2007/12/26(Wed)

登山や長距離走の後,大量の汗をかいて水分を失った時に飲むポカリスエット,夜中にどうしても小腹がすいて思わず食べてしまうカップラーメン.どちらも美味しいのですが,どちらかというとこういう美味しさは,失ったものを補給している「美味しさ」ですよね.炭水化物とか,水分・イオンなどの体に必須の要素を補給して体が喜んでいる感じでしょうか...

一方,「グルメ」というのは,こういう満足ではなくて,もっと創造的な世界のことでしょう.つり上げた直後のイカをその場でさばいて食べたら,そりゃあもう美味しいのですが,これには工夫はなく,創造的とはいえません.「狩りをする」→「獲物を食べる」だけですから...笑 つまり素材そのものの味が人間の味覚に合っているだけですね.しかし,ここに「醤油」なる発明品が登場し,「わさび」や「しょうが」や「柚子」のような薬味が現れて,イカをこれらのものと一緒に食すとさらに美味しい,と思うような感覚はとても創造的です.「グルメ」はフランス語の「gourmet」からきています.本来の意味は「ワインの味や香りに精通した人」を指すようですが,現在では一般に「食通・美食家」の意味で使われてもいます.美食とは,必要な栄養素を摂取したときに人が感じる満足感とは違って,音楽や絵画を鑑賞するような感覚に近いのかなぁ,と思います.

ところで,イカの刺身に醤油やわさび,というのは,組み合わせの妙ですよね.美食の最も基本的要素のひとつに「複数の異なる食材・味や香りの組み合わせ」が存在するでしょう.私は最近,いくつか自分の想像を超えた組み合わせの妙を発見しましたので紹介します.たいしたことないのですが,勝手に感動したのでその報告...笑

ひとつめは,柿とヨーグルト.ヨーグルトは,粉砂糖付きで売っている甘くないタイプ.柿を普通に皮をむいて一口サイズくらい切り,そこにヨーグルトをかけるだけです.柿が甘いので砂糖は要りません.いやあ,この組み合わせはあまりに相性がよくてびっくりなんです.柿もヨーグルトもちょっとだけ「くさみ」のようなものを伴っていると思うのですが,この二つを同時に食べると,この「くさみ」がどちらもきれいに消えるんです.不思議です.

ふたつめは,ツナ(今回はまぐろです...笑)とホールトマトのパスタ.まず,お決まりどおり,フライパンにニンニクとオリーブオイルでスタートし,ここにツナ(今回は水煮タイプ,油漬けでもOK)を入れて炒め,ザク切りのホールトマトを入れます(ツナを先にいためるのがポイント).量は適当でOK.そして最後に塩.そう好みの量の塩だけ.それ以外一切何も入れません.最後に茹で上がったパスタを絡めてできあがり.パスタはくっつかないように,絡める前にオリーブオイルを数滴たらしておくとよいでしょう.トマトとツナのパスタは巷のレストランでも時より見る組みあわせで,特に真新しいわけでもなく,味の予想も自分の中でついていたはずなのです.しかし上記のシンプルレシピで作った美味しさといったら,びっくりなんです.なんというか「ツナ」と「トマト」はここまで相性よかったっけ?と,素直に感動してしまいました.

シェフが腕を振るった料理を食すのも,それはもちろん感動的なのですが,こういう家での何気ない発見と感動というのもなかなかいいものです.というか,味の構成および調理自体もいたって単純なので,何に感動しているのか分かり易いというのがいいですね.

   

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INOUI ID (インウイID) :: 2007/12/25(Tue)

本質を追求した本当にいいものは日本では受け入れられません.いや,もっと正確に言えば,メカニカルな追求はけっこう受け入れられています.思想的なものが受け入れられません.これは今一度認識しなければいけない事実です.

2007年3月で消滅した資生堂のINOUI IDというブランドをご存知でしょうか.このブランドコンセプトは,次のとおりです.


 化粧すること.それは自分自身を表現すること.
 単なる楽しみや流行の謳歌を超えて,
 すでにある「自分らしさ」以上に新しい自分を発見し,楽しむこと.
 そんな化粧の本質に気づいた人のための
 赤いメーキャップツール.
 INOUI ID.



このブランドは2002年に登場して5年でその幕を閉じました.日本の化粧品の多くが「隠して作る」化粧品であるのに対し,このブランドは表現することを大切にした貴重な存在だったのです.つまり,目が小さいから大きく見せたい,とかそういうことではなく,あくまで自分らしさをさらに自分流の形で表現する,ということ.本当に志の高いコンセプトです.

でも,これは日本にはない世界観なので消滅する運命だったんですね...と,こいうことをここで言いたいのではありません!このブランドは,多くの自分を表現したい日本人女性に絶大な指示を受けていました.確かに収益は高くなかったかもしれません.しかし,ペネロペ・クルスが,「日本じゃないと買えないから」と渋谷東急のinoui IDに来店したというのも有名な話のようです.日本にはほとんど存在しない世界に通用する化粧品ブランドだったわけですよ.そして,このブランドの開発に携わった開発チームがあったのも事実.つまり,数は少なくても「化粧って何なのか」ということを真剣に考えている(全く思考停止していない)日本人は確実にいるのです.しかし.どうしてもそういう人の思想は社会に受け入れられません.なぜなのでしょう.

ひとつには,もちろん消費者全体の意識がそうでないということが挙げられると思います.ですから消費者の意識向上,創造性の向上が必要です.しかしそんなのなすすべなし.いきなりマインドコントロールなんて無理ですよ...そしてもうひとつの理由,それは日本企業の企業努力が全く創造的な方向へ向かわないということです.資生堂くらいの大きな会社が,収益が伸びないからと言って,なぜ世界に通用するこのブランドを消滅させるのでしょうか.しかも,今回のブランドの切捨ても,おおもとの問題はTSUBAKIやマキアージュに有名女優を起用しすぎて,広告費がかさんだからだと言われています.だいたいTSUBAKIなんてアジエンスの対抗で出しただけで,特になんてことない普通のシャンプーでしょう...??

しかし資生堂にも言い分はあります.社員を雇用しているんだ,と.危ない橋を渡らないのが会社の理念だと(例えばですが)...うーん...それはまったくもって正論です.となるともうどうしようもないのでしょうか.

しかし,日本の中にも創造的努力をしている会社はあります.つまり消費者の要求に応える商品を作るだけでなく,新しい提案・価値を提供しようという企業です.これはエンジニアリングの世界には特に顕著です.それはなぜか.「国際競争」があるから.この一言につきるでしょう.世界基準で物事を考えないと生き残れないわけですね.液晶技術にせよ,自動車技術にせよ.しかし,技術の世界だけでなく,そろそろ思想も開かれて豊かに,多様にならなければなりません.そうでないと日本人は自分で思っている以上に極めて不幸です.

よく考えてみると,日本の中だけで閉じていて,大きなお金が動いている業界に開かれた世界観や思想を見出すことは極めて困難です.国内向けテレビ番組,国内向け邦画(笑),輸出されないJPOP,日本の不動産・住宅業界....苦笑

   


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フランスについて思うこと :: 2007/12/22(Sat)

私は,フランスという国が好きです.パリはいいですね.パリのアパルトマン,素敵です.石畳の道路も,景観も.それから私の今の愛車はプジョー206.でもルノーもシトロエンも魅力的です.私が好きな漫画もフランスの若者になぜか受けがいいらしく,また嬉しくなってしまいます.フランス映画もなぜか波長が合います.

しかしですね.一般にこの状況になると,親仏派ということになり,フランスの悪口は誰も言わなくなります.ところがどうも自分はそれが危険な気がするんです.盲目になるのは危険だと思うんですね.自分が信じていること,好きなことこそ,今一度冷静に分析してみる必要があるということです.言い換えると,自分の価値観やあるいは信条,脳の活動レベルを過信しないことです.常に正しいとは限りません.

フランス人は,ある閾値を越えると冷静さを失い,民衆がぶっ飛び気味になります.フランス革命もそうですが(革命の意味じゃなく,そのぶっ飛びぶりです),つい最近(2005年)の暴動など見ていても,あれほど思慮深い国民がどうして,と思うほどぶっ飛びます.私が見たくはないフランスの姿ですね.でも見なくてはなりません.(まあ,トルシエさんやゴーンさんを見たら,情熱的な人たちだということはすぐに分かりますが...笑)また,死刑執行廃止の意向は私の価値観からするとさすが欧州だと思ったのですが,しかし一方で,アフリカの現状をヨーロッパ人はどのように思っているのだろうと,本当に疑問に思います.サルコジさんは,「今のアフリカが被っている不幸や困難を欧州諸国に押し付けてはいけない.独裁,汚職など自分自身にも問題があることを認識し,共に歩んでいく姿勢が必要だ」などととんでもないことを言っておられますが,愕然とします.「ダーウィンの悪夢」でも書きましたが,アフリカ諸国に対する欧州の責任は完全に今吹っ飛んでいます.誰も物申すことができないそんな国際情勢なんですよね,欧州に.

で,話はもとに戻りますが,物事はいい面と悪い面が必ずあって,それを冷静に見なきゃいけないと思います.フランス好きだと言って,フランスのいいところしか見えなくなったとき,それはフランスを知らなかった時より危険です.

物事を多面的にとらえるコミュニケーションが最近の日本には皆無ですね.ですからパターン化・形式化するし,単一的思想に陥ります.このブログ記事のコメント欄でも,この問題に関しては多くの指摘をいただいていますが,本当に私もそう思います.

ちょっと話は変わります.私は旅が好きでいろんなところをうろついているのですが,知人に「今まで行ったところで一番印象に残ったのはどこ?」と聞かれたときほど答えが分からないことはありません.私の感覚では「5cm」と「5g」と「5秒」を比べてどれが一番ですか?って聞かれている感じです.旅にもいろいろですよ.自然を見に行ったり,癒されに行くこともあるし,遺跡を見に行くことだってある.テーマだって毎回違うわけです.そしていつも強い印象が残ります.だって,日本にいると単一民族ですからね,外国行って印象に残らないわけがない...ですので,いざ答えるとなると,どの方角から光を当てた印象を答えたらいいのか,分からんのです.「どこも印象的だったよ」というどうしよもない答えを最終的に発してしまいます.笑

でもですねぇ,私もラーメン好きの友人に「今まで食べたラーメンで一番美味しかったのはどこ?」と聞いているんですよね.ラーメン研究家にとって,どの方角からラーメンを捉えるかによって1番は変わるんですよね,きっと.(考えすぎ??)

ああ,じこむじゅん.


ちなみに今まで行った国の中で一番恐い体験をしたのはどこ?と聞かれたら即座に答えられます.パプアニューギニアで中国人脱走犯と間違われて警察に捕まった時か(こいつらが本物の警察じゃなかったら,自分はあの世行きだと思った),もしくは,ワルシャワで突然酔っ払いにナイフを突きつけられた時です(戦争での自分の英雄話を聞かされただけだった).(^_^;)

注)パプアニューギニアもポーランドも全くもって恨んでいません.たまたま,そこで起こってしまったってだけですので,念のため.

   

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死刑執行停止の決議案を国連が採択 :: 2007/12/20(Thu)

今日,国連総会で「死刑執行の一時停止を求める決議案」が可決・採択されました.これに賛成したのは大多数が欧州で,アメリカ・日本・中国などは強く反対しています.

これを機会に,ちょっと素人ながらに私の意見を述べたいと思います.私は,基本的に死刑反対派です.なぜ私が反対の立場をとるかというと,現在の死刑存続論理由のひとつである「死刑による犯罪抑止力」に疑問を持っていること,および,事件はすでに起こってしまっているのであり,犯人を死刑せしめたところで何も変わらないし何の発展性もない,という2点です.

私は死刑に抑止力はないような気がします.死刑に値する重大犯罪を起こそうとしている人間が,もし捕まったら死刑だからやめとこう,とか,10人はやめて1人だけ殺そう,などと果たして思うでしょうか?実は今日採択された国連の決議でも,欧州勢の死刑停止の根拠は,死刑に抑止力は見出せないから,だそうです.そして2点目.こちらは人の思想や宗教観に極めて大きく影響する問題です.やはり報復論的に考えれば死をもって償ってもらうしかない,となるのでしょうか.しかし,被害者の方の考えは,事件から日が経つに従い「なぜあのような事件が起きたのか」「どうやったらこの事件を防げたのか」「今後同じようなことが起きないようにするにはどうしたらいいのか」という方向に移っていくと言われます.結局,犯人が死刑執行されても,この疑問を解決する方向性とは無関係であり,全く霧は晴れません.むしろ,もうこの世の中にあの事件の真相を知る人間は一人もいなくなる,という状況になるし,死刑後はみな事件のことを忘れていってしまう現実が待っています.つまり,今ひとつ死刑執行に意味を見出せないのです.

賛成派の反論が聞こえてきそうです.例えば「税金を使って凶悪犯罪者の世話を一生するのか?」とか「刑務所は足りてないんだぞ」とか.もう私から言わせればこれらの考えは論外です.こんな自分本位な考えで死刑賛成しないでほしいです.日本というこの社会が凶悪犯罪者をもし生んでしまったなら,それは国家として責任を負うことはあってもいいと思いますよ.ちゃんと議論した末の結論なら,もちろん国家予算をそこに割くことは問題ないと私は思います.次に遺族感情.これは最も難しいところです.「もし自分が被害者なら,犯人を死刑にして欲しいと思うだろう」と思っている人が多いから,日本は死刑賛成に根強い支持があるんだと思います.しかし,上にも述べたように基本的に何の解決にもなりません.それから法的に賛成派のもっとも大きな根拠は「犯罪抑止力」です.これが疑われるなら,死刑の法的根拠は大きく崩れるんですね.そして現在は崩れかけています.

私は「死刑廃止」は人間社会の進むべき方向性だという気がしています.人間の歴史には「いかにして苦しめて殺すか」ということをひたすら追及した時代もあります.それが,殺される側はなるべく苦しまずに,でも見せしめ度の高いギロチンというものが発明されました.それでもわずか数百年前には世界中で死刑が毎日のように行われていて,それを公開したりもしていました.そしてついに今日,国連の死刑一時停止の決議,今日は歴史的な1日です.

ところで私は今日,歴史的1日を忘れてしまうくらいぎょっとするアンケート調査結果を知りました.これは鳩山邦夫さんが「死刑の自動化」に言及したときのアンケート結果です.



もちろんこれは母集団に偏りがあり,客観性のある結果とは言えません.しかも回答している人は「死刑賛成派」が多数でしょうからね.しかし,それを差し引いてもこれは驚くに値する結果ですよ.というか鳩山さんはちゃんと賛成派の代弁をしてたんだって,ちょっと興味深くもある...苦笑

自動化は,最も何も考えなくてすむ方法です.例えば毎週金曜に一人ずつ,判決を受けた日が早い順に執行,とか.これは「日本人の思考停止状態」ゆえの思考放棄.そして,自動でシステム化してしまえば,ある日のある囚人に対する執行に対して責任の所在は曖昧になる.つまり「日本人の無責任さ」の露呈でしょう.このアンケート結果には,本当に背筋がぞっとします.私の感覚では,もう完全に狂っているとしか言えません.もはや死刑が確定した人間を「人間」としてみていないという証明です.そして,意見や議論や主張の介入を入りにくくし,選択肢を消す去るという思想です.

   

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無責任な日本人男性 :: 2007/12/19(Wed)

「絶対に次は勝つ」「お前のこと絶対幸せにするから」「お前なら絶対やれる!大丈夫だ!!」...「絶対」という単語を日本では時より耳にします.

「絶対」は,「必ず」「間違いなく」「ほぼ100%」という意味です.ですから「絶対に次は勝つ」というのは,けっこうな根拠があるはずなのですが....あれれ!?どんな根拠があるんでしょう...いや,根拠なんてひょっとしてない?? 

例えばスポーツ選手が惜敗後のインタビューで,「次は絶対に勝って,ファンの皆様の期待に応えたいと思います」なんて言ったりしますが,この言葉に次勝てる根拠は一切ありませんよ.ですので,本来の意味は失ってしまい,一種の決意表明のようです.それくらい気合をいれて頑張ります,と表明している感じでしょうか.男性が女性にプロポーズするときに「絶対に君の事を幸せにするよ!」などという言葉もよく聞きます.まあテレビなどが主で,実際にどのくらいの人がそんなこと言うか分かりませんが,でも中にはそういう人はいるかもしれません.で,これに関してはさらにいっそう根拠がないですね.笑

それに比べて,外国の方のインタビューはいたって冷静です.例えばF1のM・シューマッハなら,「私たちのチームのコンディションはとてもいい.メカニックも今このマシンを速くするために何が必要かよく分かっている.だから明日のレースは私たちフェラーリにとって充分に勝てるレースになると思うよ」のように発言するじゃないですか.根拠があっても「絶対」などとは発言しません.

さて,もう一度よく考えてみます,絶対の意味を...そう,「絶対」ですよ.これ以上に確からしい言葉はありません.絶対はあいまいな意味では決してありません.にも関わらず,なぜ確信がないのに「絶対」を多用するのでしょうか.そこにどんな心境が存在しているのでしょうか.

私が「絶対発言」から感じること,それは「責任の不在」と「甘え体質」です.

まず,「責任の不在」.「絶対」と言った時点で必ずそうならなければ嘘なわけですけど,しかし,そのとおりになんかならないことは十分にありえます.というか,そこまで考えて発言していない「絶対」なので,発言者に発言したことの責任感は皆無なわけです.

「甘え体質」.これは,「絶対」などという強烈なことを言ったこと,その意気込みを評価してほしいという甘えです.「絶対幸せにするよ」と言った男性は,それくらいの意気込みで君を愛していると伝えたいだけで,本当に一生幸せにする確固たる自信があるわけではないでしょう.もしくは「自分さえ一所懸命がんばれば彼女は必ず幸せになるんだ」という勘違いをしているかです.自分本位であり,相手への敬意がないじゃないですか.甘えと無責任そのものです.おそらく結婚生活がうまくいかなくなったとき,彼はこう言うでしょう.「自分は本当に君のことが好きだったのに,君がこんなでは困る」と....こんあこと言われては呆れるしかないのですが,これが現状です.

で実は,これは「日本人」ではなく「日本人男性」の傾向だと思います.日本人女性は「絶対大丈夫」と言わずに「きっと大丈夫」と言うことも多い.私の人間観察の結果,「絶対」のような無責任発言をするのはたいてい男性なのです.それから,私の知り合いの女性にこの件に関する質問をしたところ(母集団は少ないですが...),「絶対」を多用する男性は信用ならない,と声をそろえます.そうです,私も最近は全くもってそう思います.絶対を多用する男性は信用できない傾向にある.(笑)

   

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