日本について考えるブログ




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霊的世界(3) :: 2008/02/29(Fri)

「霊的世界(2)」からの続きです.

現代の日本人は何を信じて生きているのでしょうか.いや,何を信じるかなどという質問自体がナンセンスかもしれません.特に何も信じてはいない,もしくは信じられるのは自分だけ,といった感じでしょうか...しかし,それでもこの問いにどうしても答えろというのなら,現代の日本人は「科学を信仰している」ということになると思います.日本で確固たる地位を築いたものといえば,テレビであったり携帯電話であったり,とにかく科学の力で作られた物である場合がほとんどです.現在の日本人は,科学によって達成された行為や商品に目がないのです.一方,科学的な見方を全くしない行為というのは,ほとんど流行りません.絵を鑑賞するとか,作曲するとか,そういう創造的行為が日本で流行ることはまずありませんね.科学とは,物事を体系的に理解するために一般則を見つけ出すことで客観的な理解に達する行為ですが,それを可能とするものが例えば「数字」です.つまり「5」という数は「5」という意味しか持たない極めて客観的な産物なのです.そう考えると,現代の日本人が数値好きであることも,科学信仰の現れだと考えることもできそうです.デジタルカメラの画素数,自動車の馬力,各種ランキング,などに目がないわけです.

それでも,「いや.科学なんて信仰したりはしていない!」と言う人がいるでしょう.ならば,「河童は実在したと思いますか?」「きつねは人間を実際にだましていたのでしょうか?」のような問いにはどのように答えるでしょうか.この問いに,Yesと答えられる方なら,確かに科学信仰ではないでしょう.しかし,ほとんどの日本人は,Noと答えるのではないでしょうか.現在はNoという意味ではなく,過去においてもNo.つまり,河童は昔も今も実在していない,信仰の中だけの存在だと考えるのではないでしょうか.このような考えに至る根拠は,とても科学的です.つまり,皆が目で見て観察したり写真に撮ったり説明したりできる生物と同様の尺度でもって,その存在の有無を判断しようとするわけで,この方法論はとても科学的なのです.

確かに私たちは科学の力によって,これまでは不可能だったことの多くを可能にしてきました.ですから,科学はとても素晴らしく,信仰の対象になりうる価値あるものだと言えます.まあ,それくらい科学技術が魅力的であったわけで,一種の麻薬のようなものなのでしょうか.信仰を自然から科学に鞍替えした日本人は,自然を破壊し急速な開発を続けます.基本的に科学は自己の欲望を肯定する概念であり,もしそれを信仰の対象としたのなら,もはや自己を抑制するための自然は不必要だからです.

さて,最後に考えなければいけない重要なこと,それは,なぜ日本においては自然信仰と科学は同居できなかったのか,という厄介な問題です.いやさすがにそれは不可能だろうと深く考えもせずに思われがちです.がしかし,ここで最初の話しを思い出していただきたいのです.欧米人は今も教会に通う人がいます.科学者であっても,鞄に聖書を忍ばせている人がいます.信仰はそれに費やす時間や程度の差はあれど,今も変わらずに続いているのです.これは何を意味しているのでしょうか.欧米においても,地動説や進化論や,多くの科学的思想が宗教的思想を打ちのめしてきた歴史は存在します.にも関わらず,なぜ今でも多くの人が信仰を失わないのでしょう.人間は基本的に利己的性質を持っていますが,多くの人間が社会において皆利己的行動をとり続けたなら,豊かで実りがあり,幸福を感じられる社会とはならないでしょう.そこで,もっと別の思想的営みが必要となります.つまり功利的な営みです.例えば,ホスピタリティのような思想です.そして,このような思想を根底で支え続けているもののひとつが,信仰ではないだろうかと思うのです.無意識かもしれませんが,これを理解し実践しているのが,欧米人ではないでしょうか.現代の日本人にとって,信仰は分かりづらい概念です.ですので,こう考えるとどうでしょう.一人で生きる人生と,本当に理解しあえる友人がいる人生とでは,どちらが豊かな人生だろうか,と.こう問えば,もちろん理解しあえる友人がいたほうがいい,とたいていの人は答えるでしょう.この理解しあえる友人と信仰とは,ある意味等価なのだと思います.つまり,そのほうが豊かになれると確信できるから,人々は自然と求めるのです.

さて,科学信仰一色に染まった日本ですが,日本の現状を改善するには,利己心を抑制するような信仰を取り戻さなければならない気がします.かといって,このように物とお金が溢れた時代において,昔のように欲望を否定するような思想はもはや不可能でしょう.これはとても難しい課題だと感じます.

関連記事:霊的世界(1)
      :霊的世界(2)
      :ホスピタリティ
      :日本人の利己は功利を生めるか


 

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霊的世界(2) :: 2008/02/27(Wed)

「霊的世界(1)」からの続きです.

私の生まれは福岡市の街中で,幼少の頃から家の周りは工場や住宅地ばかりでした.開発が進み,自然と呼べるものはもうほとんど消えてしまった後です.一方,私の母の故郷は筑豊地方の山あいで,祖母や母からは時より河童に足を引かれた話や,きつねにだまされた話しを聞きました.私が「河童は本当にいるの?」というような質問をすると,祖母は苦笑いをするばかり.そして最後には「今はもうおらんねぇ(今はもういないねぇ).」と言っていたと記憶しています.

日本は今,物質的にはとても豊かでも,精神的に幸福な時代とは決して言えない,という下りの話しはよく耳にします.そして,時代の転換期はいつだったのか,などという議論も時より耳にしますね.ある人は「高度経済成長」だと言い,ある人は「太平洋戦争」だと言います.またある者は「明治維新」を指摘します.しかし哲学者内山節氏によると,これらのイベントはすべて「発展史」でしかありません.生存を勝ち取った者の主観から見た,発展(展開)を基盤とした歴史観である,と.政府と深いかかわりを持たずに,民衆の中から静かに消えて行ったものは,決して歴史年表には記されません.この「発展史」という捉え方は本当に深く考えさせられます.消滅するものが,現在のこの場所に大きな影響を与えうることを見過ごすな,という深い暗示を感じるのです.

日本において,わずか数十年前まで生息していた河童が,今はどこにもいません.どんな農村部においても,もはや河童との遭遇はかなわないでしょう.あくまで伝説的に語られるだけです.しかし,考えてもみてください.日本人は,はるか昔からずっと自然信仰と共に暮らしてきたのですから,ここわずか数十年という短い期間に河童がいなくなったという事実は,想像を絶する激しい変化です.高度経済成長のような発展史は常に語られますが,このような信仰の消滅は滅多に語られません.いや,多くの人はなんとなく認識してはいるでしょう.しかし仮に語られたとしても,決して多くの人々の注目を浴びるような重要な話題にはならないんですよね.

少し考えをまとめたいと思います.日本人の多くは自然崇拝を基本とした信仰を本来持っていて,その信仰の中で己を抑制してきたと思われます.しかし現在はその信仰はほとんど失われ,日本人は己を抑制する方法を失ってしまっていると思えます.日本人にとっての自然崇拝は,人間が人間である証としての「知性」を否定する傾向がありました.つまり,「知性」は人間の「欲望」のような厄介なものを含むものだと捉えていたわけです.今日,自然崇拝を捨て,己を抑制することをやめた日本人は,己の欲望のままに行動するようになります.欲望を知性でコントロールする術は育まれていません.欲望のままと言ってもこれは決定的な犯罪の話しではなく(そこには,別の抑止力が存在すると思うので...),日々の些細な行動においての話しなのです.私が現代の日本に感じ,このブログでも考え続けている多くの問題点は,このような信仰の喪失が原因になりえるのではないだろうかと思うのです.軽度の詐欺体質,何かと利己的な行動,形式だけの相互同意,そしてジェンダー...

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霊的世界(1) :: 2008/02/25(Mon)

欧米人のかなりの人は,日曜には教会に行き,聖書を開き,神に祈ります.最近は都市部を中心に毎週教会に行く若者はほとんどいないそうですが,それでも,自分よりも大きな存在を感じる,と多くの人が思っているそうですし,鞄の中に聖書を忍ばせている人もいます.私の職場にいるエジプト出身の方はイスラム教徒ですが,昼になると,メッカの方角に向かって祈りを始めます.彼は,持参した弁当を電子レンジで温めている間に祈りをささげるのですが,たまに電子レンジの中でタッパの蓋が「ボンッ!」といって飛んでも,周囲の日本人がびっくりするも,本人は全く動じず,祈りは続きます.とても大切な祈りの時間なのです.

現代の日本人に「神様を信じますか」などと聞けば,どんな結果になるでしょう.もしくは「あなたは信仰を持っていますか」ならどうでしょう.Yes or Noの回答ならやはりNoが圧倒的に勝るでしょうか.質問の意味が汲み取れない人もいることでしょう.確かに今の日本の暮らしの中に,神の存在は感じられません.信じようと思っても信じられるはずもありませんし,どこに見出せる可能性があるでしょうか.

日本人(倭人)の信仰は,キリスト教やイスラム教のような唯一絶対の神を信じるものではなく,自然崇拝が基本です.自然とは人間以外のありとあらゆるものを含みます.木,草,花,岩,水,山.すべてのものは霊的であり,これら自然の中に神と呼べる存在を感じていました.仏教では本来,「一切衆生 悉有仏性」(人間は仏になりうる)なのですが,日本では「草木国土 悉皆成仏」(生物・無生物の区別なく,すべてのものは成仏する)に変わってしまいます.人間だけでなく,生命体だけでもなく,非生命も含めてすべてに仏性を感じていたわけです.ところで,人間というものはちょっと特殊な存在です.人間が生きている間の苦悩というものはとても大きなものであり,ありのままに生きるということは非常に難しいものです.他の自然物は,このような苦悩を持っていないことでしょう.これは人間が他の自然物とは違い,欲という厄介なものをかかえこんでいるからであり,この欲は自然とは相反するものだと倭人は古くから考えます.ですから,苦悩を排除するためにはこれを律しなければなりません.このように欲を律して自然と同化しようとする行いが「修験」であり,また多くの「妖怪」たちが私たちとともに生き,私たちの欲を律してきました.それが日本の村,一般庶民に長いこと根付いていた信仰です.

一般に「欲」「煩悩」と言われるものを,私は「知性」と置き換えてもいいかな,と思っています.一般的な「知性」の語感はポジティブなイメージでしょうが,ここでは決してそういう意味では使いません.日本人にとっては,「余計なことを考えすぎて諸問題を発生させるもの」が「知性」なのです.ですから,いろんなトラブルを仲介する妖怪が存在します.日本人は本来人間であることの証である「知性」を否定したいかのように思われます.「知性」は,人間同士,もしくは人間とそれ以外の自然との間に歪みを生じさせるものです.しかし,人間に生まれた以上自分の意志で知性を捨て去ることは不可能なのであり,自然信仰を通してそのようなものをなるべく捨て去ろうとするのです.結局,人間は生まれながらに「罪」を背負っていることを説くキリスト教においても,非常に大きな枠で捉えるなら,神のありようやその意味付けは違えど,本質的に異質だともはいえません.つまり信仰とは,人間が生きることに対する自己矛盾を自ら認識する際に,生まれざるを得ない概念なのです.

私は,山が好きで,高校大学とたくさんの山に登りました.よく山頂に達したときの達成感を問われることがありますが,私は山に入ること自体が好きで,登頂は目的ではないといつも答えていました.森の中で一人になると心が安らぐのが分かります.理屈ではなぜ安らぐのかなかなか説明できません.ひょっとすると,何かしの自然信仰の名残なのかもしれません.重い荷物を背負い,山を歩き,自然の中に身を置いて自分を見つめなおす行為.もちろん昔の自分にそんな具体的な思惑などありませんでしたが,なぜだか無性に山に行きたくて仕方なかった,そう記憶しています.

霊的世界(2)へ.

 

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シトロエンC4 :: 2008/02/23(Sat)

機能を極めて重要視する傾向は,日本の工業製品を考える上で非常に重大な問題だと思います.日本人は本当に「機能」が好きですね.家電のパンフレットを見ても,たくさんの機能が列挙され,どんなに便利か高性能かを消費者に訴えています.炊飯器なら,「AI炊飯」「8段圧力」「無洗米コース」「お知らせメロディ」などの機能フレーズがところ狭しとパンフレットに並んでいます.で,調べてみると本当に欲しい機能はなかったりします.笑

さて,国産自動車の場合も,機能的であることに抜かりはありません.車内の小物入れの多さや,室内の広さ,何人乗れるか,シートはどれくらい倒れるのかなど,一般車においてはかなり「機能」が重要視されています.エクステリアはどうでしょう.本当は,車のエクステリアには機能にとらわれることなく,純粋にデザインが存在してもいいと思うのですが,ここにも妙な考えが存在します.それは「機能美」です.具体的に言うと,空力のいいボディは,そういう能力を秘めた必然的美しさがある,高速走行時に強いダウンフォースを生じさせるリアウィングは,そういう性能に基づく美しさがある,と思っているわけです.この概念自体には私は賛同できます.確かに空力性能のいいボディはそういう性能を身につけた美しさがあるし,スポーツカーのリアウィングを見て,醜いなどとは思いません.ただ,問題は,

「車はそれだけの要素ではない」

ということです.「美しい」とか「かっこいい」と単純に感じる感性は,局所ではなく全体から受けるものです.ですから結局,これら機能美に溺れた車は「物理的な性質」が優先されているにすぎないのです.日産GT-Rやトヨタプリウスが,お世辞にも「美しい」,「かっこいい」と思えないのは,この機能美崇拝主義のせいだと思います.

都内某所で,シトロエンC4に出会いました.C4はすでに日本で販売されて時間が経っているので時より見かける車です.すでにどんな車なのか知った上でのことなのですが,それでも思わず息を呑む雰囲気を持っています.素晴らしく美しい.これまでは特徴的なフロントマスクやリアビューに目が行きがちだったのですが,今回の発見は,サイドビューの美しさ.思わず見とれてしまいます.

    


公式サイトはこちら.ただ写真や解説からはあの美しさはそれほど伝わってきません...
http://www.citroen.co.jp/products/c4/index.html

シトロエンは「独創性」を最重要視していると断言していますが,その独創性は,独創性を目指した結果ではない,とも言っています.つまりどういうことかというと,走行性能,安全性能,快適性能,実用性能,環境性能,そしてスタイル,これら多くの要素を磨きぬけば,結果的に独創的な車ができあがる,というのです.意外に平凡な結論だとお思いの方もおられるでしょう.いや,これでは独創的とは言えないよ,と思われますか? 私は,シトロエンが明言していない裏の意味を感じます.それは,これらすべての要素を同時に磨きぬくには,大きな矛盾を伴う,だからこれらをすべて協調的に磨き上げるには,独創的な発想が必要なのだと.走行性能と環境性能が相反することは分かり易いですね.安全性能を磨くと車は重くなりますから,環境性能や走行性能にはやはり不利です.そして何はともあれ,スタイルはすべての要素に対して大きな問題を提起するでしょう.空気抵抗,人間工学に基づく乗降のし易さ,タイヤのサイズなど,ありとあらゆる要素に対してデザインは干渉しうるのです.これらをバランスよくまとめ上げ,大きな妥協によって要素を捨て去るようなことをしない高い志がシトロエンの技術者やデザイナーにはあるのでしょう.こうして生み出された車たちは,もはや冷たい工業製品ではなく,温かな有機体のように私には感じられます.この安心感は絶大です.

※車の要素はそれだけではない,とほぼ等価の意味です.

関連記事:シトロエンC6
      :プジョー206のトラクション性能

 

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見落とされる倫理観 :: 2008/02/20(Wed)

私は「未舗装路」の記事の中で,この世の中を生きていくのは男性より女性のほうがはるかに多く困難を感じるだろう,ということを書きました.しかし実感として,男性のほうが女性より有利で楽であるとはとても思えない,という男性も多いと思います.事実,男性にとっても楽に生きていける世の中ではないのは確かです.

男性が有利と言うなら,それは同年代の女性と比較した場合に有利なのであり,例えば20年前の男性と比較するならむしろ圧倒的に苦悩は増えていると思われます.一昔前の男性は,家庭では家事を通して自分の心身の健康を支えてくれる女性がいて,職場にはお茶酌みやコピー取りといった雑用で自分の仕事を支えてくれる女性がいました.ところが現代の男性若年層は,その両方のサポートを失くし,しかも働く女性というライバルも少しずつ増えてきているのですから,決して楽な人生だなどとは感じられません.よく聞くところの「安らげる場所がどこにもない」という文句も,こういう状況がひとつの要因になっていると感じます.

しかし,だからといって男性は女性に何を求めようというのでしょうか.この男性の感じる不満感の原因を女性に転嫁することなどできないと思います.現在起こっていることをできる限り客観的に言うなら,「男性も女性も家庭や仕事から多くのストレスを受けているだろう.ただし女性はさらに,単純にこの日本を生きていくことの困難さが男性よりはるかに大きいだろう」ということだけです.この現状において,男性はそれでもなお女性に何らかの要求をするのでしょうか?

男女の精神的対等(男女がだいたい同じくらいの「生き易さ」「幸福感」を感じられる状態)は,現在の男性が過去の男性よりさらに不利になっても,それでもなお,そのようにあるべきだと考える男性の倫理観によってのみ達成されるのです.もしこの倫理観が欠如しているなら,何らかの理由をつけては女性の欠点を指摘し,男性優位のポジションを男性はさりげなく守っていく利己性を発揮し続けるでしょう.残念ながら,これがまさに多くの日本人男性の現状だと感じます.しかしこれでは問題の解決へは全く動き出しません.

関連記事:未舗装路
      :無責任な日本人男性
      :日本人の利己は功利を生めるか
      :選択的夫婦別姓

 

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未舗装路 :: 2008/02/19(Tue)

日本で女性が生きていくことは,男性が生きていくことよりもはるかに困難でしょう.これは非常に悲しいことです.この記事では,原因追求をすることはしません.内容が散漫になりますので.ここは現状理解に努めます.

一人の人間として,誰かに養われることなく自立した大人になる時,つまり何らかの職を得ようとする時に,女性のほうが不利であることは紛れも無い事実です.法律上は平等なので,平等だろうと思われる方もいるかもしれませんが,実際の現場はかなり様相が違います.企業は男性を採用したがりますし,ひどい場合には初めから女性は採らないと心では決めている面接官もいることでしょう.仮に就職できたとしても,その後も差は歴然と存在し続けます.男性に対する評価は仕事の内容や質であるのに対して,女性は容姿や接客態度をまず見られがちです.そのうえ,責任ある仕事は男性に回され,女性には回されない傾向があるので,結果的に女性は昇進の機会を得られにくいのです.そして数年経つと「ここは私が来るところじゃなかった,他に幸せになれる場所があるはず」と思うのが賢明な考えに思えてきます.まあ,入社前からそれを感じていて,何年か働いたら結婚しよう,と考える女性もいますから,なおさら現場は女性を採用して育てようとはしなくなるでしょう.様々な原因は置いておくとして,とにかく女性が普通に会社に入社して男性と同じように働くことは,もし他の男性と同じ能力を持っていたとしても,男性よりも比較にならないほど困難がつきまといます.とにかくその現実が存在します.

では結婚して家庭に入り,家事や子育てを行う事に,果たして大きな意義があるでしょうか.「ある」と多くの男性は思うかもしれませんが,それはかなり男性本位の見方です.昔は地域コミュニティがちゃんと機能していましたが,最近は女性が安心して参加できるコミュニティは希薄化しています.核家族化した現代の家庭では,家の中は孤独です.家事業そのものも,昔は男性からの理解と敬意があったでしょうが,今では男性は家事業を軽視している傾向を感じますから,いよいよ厄介です.現代社会においては,男性は一人で生活できるような環境が整っていますので,家事はさほど重要ではないと思ってます.さらに大きな問題は,主婦業は経済の要である「労働を行い,報酬を得る」という現代社会の大原則から完全に切断されていることです.ですから,何かのはずみで夫婦間の関係がこじれて離婚をすることになると,離婚後男性は働いて収入を得続けることができますが,女性は就職活動をしなければいけません.もちろん年を重ねてからの女性の就職は大きな困難を伴います.ですから,パートタイムでぎりぎりの生活を送るか,裁判を起こして養育費なり慰謝料なりを元夫に請求するしかありません.男性にも精神的ダメージがある,とおっしゃる方もいるかもしれませんが,精神的ダメージ+現実の生活の困難さ,の二重苦に陥る女性のほうが,はるかに苦悩が多いでしょう.

以上をまとめると,このようになります.男性は生きていくうえで,結婚しようとしまいと,報酬を得て生きていくというこの社会における基本的な営みは可能です.女性は,結婚してもしなくても,お金を得て生きていくには困難がつきまとうのです.そこに必ず男性の介在があり,直接社会に参加しにくい,と言い換えることもできます.局所的な話しではなく,社会全体でこの問題を考えたとき,女性のほうが男性よりもはるかに自由がなく生きていくことを困難と感じるだろうということです.

日本は法の整備は行われています.男性も女性も,歩むことができる道があり,どの道を選択するのか,その自由は保障されています.問題は,男性が歩む道は舗装されていて,女性が歩む道は舗装されていない,そう感じることです.砂埃が舞い飛び,わだちがあり,水溜りがあるのです.

この状況は,日本の全男性が真摯に受け止め,客観的に理解し,まずこの状況を打開する策を練ることが先決です.保育園を増やすことも,男性の育児休暇を促進することも,女性の就業率の数値目標を設定するのもその後でかまわないと思います.最も大事なことは社会基盤にメスを入れることであり,それは男性の意識改革以外にはありません.

さて,男性の反論が聞こえてきそうですね...この話題は「見落とされる倫理観」に続きます.

 

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豚ロースのバルサミコソース :: 2008/02/16(Sat)

バルサミコ酢は,日本酒,醤油,みりんなどの日本の調味料との相性が抜群です.この奇跡の出会い(言いすぎですか...笑)を,極めてシンプルに体感できるのがこの一品です.といっても,ソースに使うのはまさに,バルサミコ酢・醤油・みりん・日本酒の4種のみという簡単さ.しかも分量もすべておおさじ1でOKなので,瞬間暗記可能という優れたレシピです.

材料(二人分):
豚ロース・・・・・・・・・・・・・・・・二枚
付け合せの野菜やきのこ・・・お好きなものを!
パセリ・・・・・・・・・・・・・・・・・・適量
調味料・・・・・・・・・・・・・・・・・・塩・胡椒・バルサミコ酢・醤油・みりん・日本酒

時系列レシピ:
・豚ロースの筋切り.軽く塩と胡椒をふる.
・付け合せの野菜を切る.今回は人参とエリンギをスライスして使用.ここはご自由に.
・パセリをみじん切り.
・フライパンにオリーブオイルをひく.
・人参とエリンギを炒める.塩を軽くふる.
・人参とエリンギをお皿に取り,そのまま豚ロースをフライパンへ.両面を焼く.
・日本酒・みりん・醤油・バルサミコ酢を各大さじ1,フライパンへ直に投入.直でOKです.
・肉をひっくり返しつつソースになじませたら,蓋をして,しばし蒸し焼き.
・お皿に盛り付けて,パセリをちらしてできあがり♪

最近は,筋切り済みのとんかつ用のお肉もスーパーで見かけますね.これを用いれば,全過程約10分で調理完了です.10分でバルサミコ酢と日本産調味料の奇跡の出会いを体感できます.ちなみに,このソースは鶏肉ともよく合います.鶏胸肉を使えば,とってもヘルシーな一皿になりますよ! 

     
      ↑こんな感じでできあがり!!

ちなみに,今回付け合せがなぜ人参とエリンギだったかというと...
それしか冷蔵庫になかったからです.(^_^;) 

 

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