現代の日本人は何を信じて生きているのでしょうか.いや,何を信じるかなどという質問自体がナンセンスかもしれません.特に何も信じてはいない,もしくは信じられるのは自分だけ,といった感じでしょうか...しかし,それでもこの問いにどうしても答えろというのなら,現代の日本人は「科学を信仰している」ということになると思います.日本で確固たる地位を築いたものといえば,テレビであったり携帯電話であったり,とにかく科学の力で作られた物である場合がほとんどです.現在の日本人は,科学によって達成された行為や商品に目がないのです.一方,科学的な見方を全くしない行為というのは,ほとんど流行りません.絵を鑑賞するとか,作曲するとか,そういう創造的行為が日本で流行ることはまずありませんね.科学とは,物事を体系的に理解するために一般則を見つけ出すことで客観的な理解に達する行為ですが,それを可能とするものが例えば「数字」です.つまり「5」という数は「5」という意味しか持たない極めて客観的な産物なのです.そう考えると,現代の日本人が数値好きであることも,科学信仰の現れだと考えることもできそうです.デジタルカメラの画素数,自動車の馬力,各種ランキング,などに目がないわけです.
それでも,「いや.科学なんて信仰したりはしていない!」と言う人がいるでしょう.ならば,「河童は実在したと思いますか?」「きつねは人間を実際にだましていたのでしょうか?」のような問いにはどのように答えるでしょうか.この問いに,Yesと答えられる方なら,確かに科学信仰ではないでしょう.しかし,ほとんどの日本人は,Noと答えるのではないでしょうか.現在はNoという意味ではなく,過去においてもNo.つまり,河童は昔も今も実在していない,信仰の中だけの存在だと考えるのではないでしょうか.このような考えに至る根拠は,とても科学的です.つまり,皆が目で見て観察したり写真に撮ったり説明したりできる生物と同様の尺度でもって,その存在の有無を判断しようとするわけで,この方法論はとても科学的なのです.
確かに私たちは科学の力によって,これまでは不可能だったことの多くを可能にしてきました.ですから,科学はとても素晴らしく,信仰の対象になりうる価値あるものだと言えます.まあ,それくらい科学技術が魅力的であったわけで,一種の麻薬のようなものなのでしょうか.信仰を自然から科学に鞍替えした日本人は,自然を破壊し急速な開発を続けます.基本的に科学は自己の欲望を肯定する概念であり,もしそれを信仰の対象としたのなら,もはや自己を抑制するための自然は不必要だからです.
さて,最後に考えなければいけない重要なこと,それは,なぜ日本においては自然信仰と科学は同居できなかったのか,という厄介な問題です.いやさすがにそれは不可能だろうと深く考えもせずに思われがちです.がしかし,ここで最初の話しを思い出していただきたいのです.欧米人は今も教会に通う人がいます.科学者であっても,鞄に聖書を忍ばせている人がいます.信仰はそれに費やす時間や程度の差はあれど,今も変わらずに続いているのです.これは何を意味しているのでしょうか.欧米においても,地動説や進化論や,多くの科学的思想が宗教的思想を打ちのめしてきた歴史は存在します.にも関わらず,なぜ今でも多くの人が信仰を失わないのでしょう.人間は基本的に利己的性質を持っていますが,多くの人間が社会において皆利己的行動をとり続けたなら,豊かで実りがあり,幸福を感じられる社会とはならないでしょう.そこで,もっと別の思想的営みが必要となります.つまり功利的な営みです.例えば,ホスピタリティのような思想です.そして,このような思想を根底で支え続けているもののひとつが,信仰ではないだろうかと思うのです.無意識かもしれませんが,これを理解し実践しているのが,欧米人ではないでしょうか.現代の日本人にとって,信仰は分かりづらい概念です.ですので,こう考えるとどうでしょう.一人で生きる人生と,本当に理解しあえる友人がいる人生とでは,どちらが豊かな人生だろうか,と.こう問えば,もちろん理解しあえる友人がいたほうがいい,とたいていの人は答えるでしょう.この理解しあえる友人と信仰とは,ある意味等価なのだと思います.つまり,そのほうが豊かになれると確信できるから,人々は自然と求めるのです.
さて,科学信仰一色に染まった日本ですが,日本の現状を改善するには,利己心を抑制するような信仰を取り戻さなければならない気がします.かといって,このように物とお金が溢れた時代において,昔のように欲望を否定するような思想はもはや不可能でしょう.これはとても難しい課題だと感じます.
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