日本について考えるブログ




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議論にならないのはなぜ? :: 2008/04/26(Sat)

日本人は議論が上手ではありません.国会中継を見ていても,話が噛みあってない,議論になっていない,ということはよくあります.議論を交わすプロの方たちでさえ,あの状態なのですから,これはなかなか厄介な問題だと思います.議論というとちょっと堅い言葉ですが,「話し合い」と言うともっと身近に感じられるでしょうか.もしくは単純に意見を言うこと,そして意思疎通を図ること.これらの基本が習得できて初めて,意味のある議論が可能になると思われます.

さて,議論は社会生活を営む人が他者と関わる時に避け難い行為です.難しい政治の議論だけが「議論」なのではありません. 例えば,AさんとBさんが今日のランチは何を食べるかで意見が割れています.Aさんはパスタ,Bさんは回転寿司がいいと意見を発したとして,この後二人はどうするでしょう.もし完全なる「序列」があるなら,上位の人の意見にもう一方の人はただ従うだけかもしれません.しかし,一切の序列が存在しなかったら.この場合,議論しなくては話しは先に進みませんね.Aさんが「回転寿司って,○○寿司のこと? あの店は昼休みの時間はいつもすごく混雑してるよ.」と言って,Bさんが「確かにそうだな.じゃあ今日はパスタにしよう」という過程がなければ問題は解決しないのです.この場合,単純な状況なので,たったこれだけですが,基本的にそこに行き着くまでの理由付けを模索し,それを基盤に相互理解に達した,という意味ではこれも立派な議論です.

こう考えると,議論が起こる条件というものが見えてきます.議論は,2人以上の人が違う意見を持っている時に,その人たちの間にいかなる序列も存在しない時に,そしてその複数の意見をひとつにまとめなくてはいけない時に,必ず生じるのです.いや,まとめなくても,互いに自分の中にない意見を理解しあうためには必要なのです.

議論が生じる条件が分かると,日本人がなぜ議論が下手なのか,その理由も同時に見えてくる気がします.日本は島国で,異民族からの侵略は歴史上ほとんどなく,長い時間をかけて日本人に共通の価値観が構築されてきたと思われます.ですから,話す前からお互いにかなりの部分を分かり合っているので,議論の必要性が少ないのです.同じ価値感でないとすれば,例えば,武士と農民は全く違う価値感を持っていたでしょうが,両者の間には確固たる序列が存在し,腹を割って議論をする必要性などやはりなかったでしょう.つまり,日本人は「議論」を行う機会は非常に少なかったのかもしれません.

しかし現在の日本は,西洋から民主主義の思想を取り入れることで,一人一人が自由に考え発想し,意見を交換し合うことが可能な社会システムを手にしています.しかし,「議論の方法」はまだ手に入れていないのではないかと感じます.日本人は,本当に深く物事を考えていたとしても,真っ当な議論にはほとんどならないとつくづく思います.その原因は非常に単純なことだと思いますので,以下に書きたいと思います.

原因1:今何を話し合っているのか,その論点を忘れること.
最も重大な問題です.例えば,「漫画は芸術と言えるのか」ということを話し合っていたはずなのに,時間がたつと「日本の漫画が世界で受け入れられているのはなぜか」という議論に変化してしまい,「涼宮ハルヒの憂鬱はなぜ海外でも売れたのか」と言う話になって,そして結局最初の「漫画は芸術と言えるのか」という論点に戻ることなく,なんとなく議論が終了してしまいます.こういうことが多いのです.各人が言いたいことだけを言って,なおかつ論点を忘れているとこういうことになってしまいます.論点をしっかり意識する必要があります.

原因2:根拠が歪んでいる.もしくは根拠と呼べるようなものがない.
主張する意見の根拠がおかしい,とよく感じます.例えば,民主党が「ガソリン税率の引き下げは民意である」などという言い方をしますが,それは根拠が歪んでいます.政策の根拠を民意にだけ求めるなら,政治家というプロは必要ありません.ガソリン税の意味,道路特定財源のあり方,このようなことこそが本質的な部分です.また,もっとひどいケースだと論拠そのものが全く表面に出てこない場合もあります.

原因3:揚げ足をとる.
日本人はまず間違いなく揚げ足取りを行います.こういう私もそのような方向に走っていることに気づき,慌てて「これじゃいけない」と思うことがあります.(反省)「揚げ足取り」とは,相手の論拠の矛盾を明確にすることではなく,そこからずれた場所における相手の弱点を指摘する言動です.典型的なものとして,「物事の悪い面ばかりを見るのは君のよくない点だ」などという指摘です.これは,本題から完全に逸脱しています.悪い面を考え,どうしたらよいか考えている人を冒涜しているわけですよ.真っ当な議論では,「君の考えていることは悪い面ばかりとは言えない,なぜなら,○○○だから充分によい面もあるよ.」のように言うべきです.揚げ足を取ることは,本題から逸脱する意味において,原因1の原因にもなっています.

原因4:自分の主張を守ることに固執する.
本来,あらゆる検証を行って,確信が持てたから,自分の意見を発することができるわけです.しかしもし,より客観的な別の意見によって,自分の主張の論理性の方が脆弱だったと感じることがあったら....その時は,自分の意見に対する疑問を認めるべきです.しかし,実際はそのようなことは極めて稀です.いつしか,自分の主張を論理的に説明しようという姿勢が崩れ,自分の主張を何が何でも守ることに固執し始めます.この状況だけを見ていると,初めから自分の考えを他人に押し付けたかっただけなのか,と疑ってしまいます.私の経験則では,このタイプの論者が劣勢になると,必ず「話しにならない.」「君と話しても時間の無駄だ.」のように結ぶ傾向を感じます.駄々をこねる大人がなんと多いことか...

以上,4ポイントを頭に置いて,話し合いをしてみるといいでしょう

・話しの論点は何なのか,常に意識するよう心がける
・根拠は充分に客観的で一般化できるものなのか,常に精査を心がける.
・論点とは違うポイントでの指摘(揚げ足取り)をしないよう常に意識する.
・議論の目的は,自分の主張を通すことではなく,より正しいと思われる高次元な考えに到達することだ,と強く意識する.


これで,正しく議論が進むはずです.日本における様々な問題を議論し合うのはそれからです.

 


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レクサスの戦い :: 2008/04/24(Thu)

「微笑むプレミアム」.これは,レクサスが日本において販売を開始した頃に,テレビCMで使われていたキャッチコピーです.ずいぶん安っぽいキャッチコピーだなぁ,と思っていると...次はさらにギョッとする CMを見てしまいました.赤いレクサスISが,タンクローリーの後ろをゆっくりと走ります.タンクローリーの後部に映り込む自分の車の姿を見ながら,「ゆったり流すようになった.その気になれば速いのだから.」というセリフが流れます.そしてその後,それを確かめるように一気に加速してタンクローリーを抜き去る,こういうCMです....

「貧しい!いくらなんでも貧しすぎるよ...(TT)」.

これがこのCMに対する正直な私の感想です.レクサスは,全世界に展開するトヨタが本気で作りこんだ高級車ブランドなんですよ.それなのに...

しかしよく考えてみると,今や「世界のトヨタ」です.世界で最も利益を上げている自動車会社です.日本においても,堅実な経営とマーケティングで,国産車No. 1の座は常にゆるがないトヨタ自動車ですよ.そのトヨタが,本気で作った世界戦略車に対して,テレビCMでわざわざこのようなセリフを言う.つまりこの言葉が,潜在的なレクサス購買層に対して非常に重要な意味を持つかもしれないとトヨタの首脳陣は判断したと解釈することができます.インターネットで検索をしてみると確かに,「その気になれば速い」というこのセリフに感動した,最高!という個人のブログに多くお目にかかれます.一方,このセリフを聞いて残念に思っている人は少数派のようです.やっぱり私は少数派だったか.泣

なるほど,とここで合点がいきました.いいものを作ったからといって売れるとは限らない,日本の市場をよく表しているのだと思います.レクサスの価値を真正面から理解できる日本人は非常に少数なのでしょう.少数の人にレクサスを購入いただいても,世界のトヨタとしては納得できないわけです.どうせ日本にもレクサスブランドを展開するのなら,ちゃんと売れて欲しいわけですし,トヨタは本気で売るつもりでしょう.

本気で「たくさん」売るなら,戦略が必要です.どこかのメーカーからオーナーを奪わなければなりません.紛れもなくそのメーカーは独御三家,メルセデス,BMW,アウディ,ということになります.価格帯,そしてセダンという形体をとっても,このドイツ勢はひとまずライバルになるわけです.この辺のドイツブランドからレクサスに乗り換える人が出てくれば,レクサスは日本において成功したと言えるでしょうね.ところで,これらドイツ車を買う人たちは,本当にその価値を分かって買っているのでしょうか.私は非常に疑問です.ドイツ車の真の価値は,アウトバーンのような超高速域でようやくはっきりと実感できますが,日本のような狭い道路をちまちまと走っていても,むしろ鈍重に感じられるシーンが大半です.堅牢さは感じられますが,過度な堅牢さと捉えることもできます.本当にそれが好きでドイツ車を買っている人はいいのですが,たいていの人はそうではないでしょう.私の印象では,やはりブランドイメージにお金を払っているのだと思います.あのエンブレムを手に入れ,憧れのBMWオーナーになる,そのステータス性にお金を払っているのであり,決してBMWがプロダクトに込めた深い哲学に魅了されたがためではないでしょう.

こうなると,残念なことにレクサスには手も足も出ません.手詰まりです.なぜなら,レクサスには日本において確立されたブランドイメージがなく,しかも結局トヨタという国産のレッテルが貼られます.せいぜい「レクサス」という米国でのブランド名を持ち込んで,トヨタのエンブレムではなくレクサスの「L」のエンブレムをつけて,レクサス専用のディーラーを立ち上げるくらいしか手立てがありません.実際そのようになっていますが,それでも日本での販売台数は未知数だったことでしょう.そして,どのようなキャッチコピーが日本における潜在的購買層の心に響くか,トヨタ自身も完全に予測できなかったのではないでしょうか.ですから「その気になれば...」のような,およそ車の持つイメージからは程遠いキャッチコピーが流れたのかもしれません.

自動車雑誌では当時,さんざんドイツ軍団とレクサスの比較特集をやっていました.やれ加速性能がどうだ,静寂性がどうだ,と...レクサスの敵は,メルセデス・BMW・アウディだと信じて疑わない論調です.しかし私は,日本におけるレクサスの真の敵は独車ではなく,「日本人」だと思っています.レクサスとはどういう哲学を伴った車なのか,それを消費者自身が能動的に見ようとしなければ,外車ではないレクサスは日本市場においては不戦敗なのです.レクサスの目指すものはドイツ車とは全く異なるベクトルの上に乗っており,数値化して比較することに意味を感じません.私はGSやISに試乗・同乗し,欧州車の後追いではない,前にも書いたような日本臭い個性を感じます.しかしそれは充分に磨かれ熟成されたもので,ドイツ車と対等なポジションに存在できることは確かだとも感じます.もしこのレクサスの世界に魅了されたのなら,もはや国産か外車かなんてどうでもいいことです.こういう価値観でもって消費者がレクサスを見なくては,レクサスは決して日本市場では成功できないのです.

ところで余談ですが,レクサスのディーラー,素晴らしいですね.何が素晴らしいかって,外観ですよ.日本の自動車ディーラーがあまりに醜いせいもあります.大きな垂れ幕で「新型○○誕生」「△△キャンペーン実施中」って,あれは何なのでしょうか.そういう意味において,レクサスのディーラーは,日本の街の景観に対しても問題提起をしているように感じます. 一方,ディーラー内では旧態依然の「接客業」が存在します.日本人を相手に商売をするので,ここは仕方ないのでしょうか.

関連記事:レクサスが提示する価値
    :レクサスのデザイン
    :ドイツアウトバーンに学ぶ

 

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エビのチリソース :: 2008/04/22(Tue)

エビのチリソースは,中華料理店にはどこにでもある定番料理ですね.しかしこの料理,ご存知の方もおられると思いますが,ソースにトマトケチャップと豆板醤を使います.豆板醤とトマトケチャップってよく考えたら不思議じゃないですか.そう,実はこの料理,中国には存在せず,日本限定の中華料理なんだそうです.ウィキペディアによると,四川の中華料理人である陳健民が,日本で中華料理を普及させるため,豆板醤の辛さを抑えるために考案した創作レシピなんだとか.なるほど...と,これは雑学です.

ところで私はエビチリが大好物なんですが,自宅でトライしてみて,かなり手の込んだ料理だということを改めて知りました.とにかく,あの食感と味がなるほどこのようにして生まれるのか,と,自ら手を動かし目の前で理解するのはとても楽しいものです.そして完成したエビチリは,冷凍エビを使ったとは言え,まさに立派な本格エビのチリソース!家庭で中華料理店で食べるエビチリの食感を作り出すことは可能のようです!


材料(4人分):

 エビ(無頭・冷凍)・・・20尾(エビの大きさによって調節)
 白ネギ(長ネギの白い部分)・・・1/2本
 酢・・・少々
 サラダ油・・・適量
エビの下味
 塩・片栗粉・卵白・サラダ油・白胡椒・老酒(もしくは日本酒)
チリソース
 生姜・にんにく・豆板醤・トマトケチャップ
 水・鶏がらスープの素・老酒(もしくは日本酒)・砂糖


時系列レシピ:

エビのしたごしらえ
・まずはエビを流水で解凍・殻をむきます.
・エビに塩を降り,軽く揉んで,真水でよく洗います.
・背に切れ込みを入れ,背ワタをとります.
・エビに片栗粉大さじ2,塩小さじ1/2を投入し,(力を入れすぎずに)よく揉みます.
・水200ccを加え,(力を入れすぎずに)よく揉みます.
・エビを流水でよくすすぎます.これでエビの臭みがほぼ取れます.
・エビの水気をペーパータオルなどで完全に取り除きます.
・エビをボールに入れ,塩小さじ1/4,白胡椒少々,老酒小さじ2を加え,よく混ぜます.
・ここに卵白1個分を加え,卵白の塊感がなくなるまでよくほぐし混ぜます.エビとよく絡み,白く泡が立つくらいに.(この卵白がエビチリ独特のエビの食感を作ります!)
・ここで片栗粉大さじ2を入れ,均一に混ぜます.
・サラダ油小さじ2を入れ,優しく混ぜます.これでエビの下ごしらえ完了!

下ごしらえをしたエビを,時間をあけずにすぐ調理開始です.
・フライパンにサラダ油を引き,よく熱し,エビを並べます.
・両面を少し焦げ目がつく程度に焼きます.この時,中はまだ半生でOKです.
・焼いたエビをいったん取り出します.油と水がエビから出てくるので拭き取ります.網付きのバットに乗せて,水油を切るという手も.これは重要ポイント.

ソース作りからフィニッシュへ.
・エビを焼いたフライパンを冷ましている間に,生姜半かけ,にんにく1かけをすりおろします.
・水120ccに,鶏がらスープの素小さじ1/2,老酒少々,砂糖小さじ1,を混合したものを用意しておきます.
・白ネギをみじん切りにします.
・粗熱がとれたフライパンに油を引き,再び弱火で熱し,おろし生姜とにんにく,トマトケチャップ60 g,豆板醤小さじ1を入れ,ゆっくりと炒めます.
・香りが立ってきたら,あらかじめ用意した混合スープの素を入れます.
・煮立ったら,焼いたエビと白ネギを入れ,全体に絡めます.
・片栗粉少々を小さじ3の水を使い,水とき片栗粉を作って入れます.
・全体にとろみがついたら,火を止め,サラダ油数滴,酢少々を入れ,軽く混ぜ合わせます.油は見た目を艶やかに見せ,料理が美しく変化します.酢は,エビチリの香りを洗練されたものに変えます.
・器に盛ってできあがり!





こんな感じです.盛り付けも写真も下手.涙 見た目は冴えないですが,味と食感はまさにエビチリでした.美味しいです.ところで,残った卵黄はどうしたかというと,今回はスープに投入しました.チャーハンもいいですね.かなり忙しくなりそうですが.

 

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選択的夫婦別姓 :: 2008/04/19(Sat)

「選択的夫婦別姓法案」というものをご存知でしょうか.2000年前後に日本で議論が活発に交わされた法案で,2001年の世論調査では,賛成派が反対派を上回っています.特に20代から30代の若い世代の賛成派がかなりの多数を占めました.

選択的夫婦別姓は,姓を別姓にしましょう,というものではありません.
「結婚時に,姓を同一にするか別姓にするかを選択できるようにする」
というものです.よって,これまでどおり,「同一の姓がいい,結婚相手の姓に変わりたい」と考える人にとっても,「姓が変わるのは嫌だから別姓にしたい」という人にとっても何ら問題のない,誰かを切り捨ててしまうことのない法案です.「家族というのは必ず同一姓でなくてはいけない」と思っていない場合,この選択的夫婦別姓は何の問題もありません.

日本において,姓は非常に重要な役割を果たしています.本当は「名前」というその人にしかないものが別途あるにも関わらず,親しい間柄にならなければ,姓で呼ばれる場面がほとんどです.ですから社会というシステムで暮らす時,自分が呼ばれたのかどうかを区別する意味において,姓が重要な役割を果たしています.学校の先生も「名前を呼んだら元気に返事してください」と出席をとり始めて,「井上くん」「江藤さん」と,姓を呼び始めるでしょう.笑 つまり,日本人にとって,ほぼ「姓=名前」なんです.そう考えると,結婚時に姓が変わるというのは,むしろ「名前を変えている」と捉えるべきです.このことを本当に男性は認識していない場合が多いと思います.

今の日本では法制度上,同姓にしなくてはいけませんが,女性と男性,どちらの姓であってもいいわけで,法の下には平等です.しかし,現実には97%の夫婦が夫の姓になります.まさに「法の下だけの平等」と私がいつも言うのはこの点で,97%の数値を作り出す強固な社会基盤(社会常識)が日本に存在しているということです.

実際このような社会的常識による穏やかな強制によって姓を変えさせられる女性は,「自己喪失感」を強く感じます.結婚したら当たり前のように名前を変えなきゃいけないのですから,そう感じる人がいても何らおかしくないと感じます.また,仕事を行う上でも姓を変えることは障害を強いますし,姓の変更のための事務手続き(免許証やクレジットカードや,その他いろいろ...)をたくさん行わなければいけないのも,姓を変える側だけです.つまり,現状の同姓による不均衡は非常に不健全であり,選択的夫婦別姓はそれをほぼ完璧に解決してくれるものです.(結婚時に,別姓か同姓かをめぐって2人がもめても,それは法律の範囲外のことですが...汗)

私にとって選択的夫婦別姓は,上に書いたこと以外の意味においても,非常に進歩的で明るいイメージを感じます.それはどういう部分かというと,目に見える切迫した問題(例えば「財源が足りなくなるから,とにかく消費税は引き上げだ!」というような)などではない領域に対して,私たちの意志で積極的に踏み込もうとしている点です.そして,その踏み込む場所は,倫理的な部分です.消費税増税のような付け焼刃的な概念ではありません.社会構造の基礎の目に見えにくい部分に対して,倫理観の立場からメスを入れるという作業であり,むしろ極めて大切な作業であると感じます.日本では滅多にこの類の議論はなされませんので,非常に貴重な法案です.

さて,反対派の意見は非常に根強いです.反対派は権力を持った年配の男性には多い傾向があり,特に男性の年配の国会議員の方たちは,反対派が多く存在しています.結局この法案は決議されることなく,現在は「継続審議」という形のまま,実質「うやむや」にされてしまいました.また,国民も興味を持っていたかというと,それほど持っていたとは言えません.よって,静かに忘れ去られていきかねない状況です.

ところで,選択的夫婦別姓に反対の人はどんな主張をしているのでしょうか.残念ながら,「確かに一理あるな」と思えるものに今のところ出会っていません.だいたい分類すると,「論理の破綻した持論」か「賛成派の揚げ足をとる」か「そもそも誤解がある」かに分かれます.この法案の意味を真剣に考え,「この方法ではそれは上手くいかないんじゃないの?なぜなら・・・」みたいな正論でもって,選択的夫婦別姓を否定できる人に私はまだ出会っていません.主な反対派の理由は以下のようなものです.

・家庭の崩壊(家族の絆の崩壊)を促進してしまう.(論理の破綻型)
家族の姓が同じであることで,家族の信頼関係が結ばれているのでしょうか?論理性を見出せません.同一姓というものを通して家族の絆を捉えているのであれば,この意見は非常に形式的で記号論的です.恋愛結婚が主流の現代の価値観にそぐわないと思います.ちなみにこの法案は「選択的」なので,同姓がいい人の人権はちゃんと保護されています.ところで,この類の反対意見を聞くたびにひとつの過激な意見を私はいつも思ってしまいます.「姓が同じでない程度で絆が喪失へ向かうような家族は,ばらばらになったほうがむしろいい,お互い不満を抱え続けるだけです!」...言ってしまった...汗

・日本の伝統を失くすべきでない.(論理の破綻+揚げ足取り)
仮に伝統であったとしても,この意見は本質的な議論にならないです.なぜなら「伝統を壊してまでも,この法案は意味がある」と賛成派は思っているのですから.ですから,この伝統にどのような意味,美的世界があるのか,その理由を提示してほしいです.しかし,その理由はいつもありません....ところで,残念ながら夫婦同姓は日本の伝統ではありません.明治31年に生まれた法律で,それまでは日本人のほとんどが姓を持ちません.士族の出身で姓を持っていたごく一部の人も,結婚しても姓は同じになりませんでした.北条政子はずっと北条です.基本的に日本は夫婦別姓です.(まあ,この時代は今で言う別姓の意味合いとは違いますが...)

・子供の姓はどうするんだ?(揚げ足取り)
親が子供が生まれたときに決める方法と,子供が15歳になった時にさらに自由に選べるようにする,というふたつの方法が提案されています.自由があっていいと思います.問題は見出せません.

・電話帳や表札はどうするんだ?(揚げ足取り)
電話帳には2人とも載せても,1人だけ載せても自由でいいと思いますし,表札も出したい人は二つ出せばいい思います.とにかく,これは手詰まりになるほど重篤な問題ではないと思います.それよりも,この法案の本質的意味を真正面から考える意見をお願いします.

・世界的には,男性の姓に女性が変わるの国が主流なのでは?(誤解)
いいえ.少数派です.ほとんどの国が別姓か選択姓か,結合姓(姓を二つ重ねて表記する)です.お隣の韓国や中国も夫婦別姓です.ちなみに,主流かどうかは関係ありません.それよりも,この法案の本質的意味を真正面から考える意見をお願いします.

是非とももう一度国会で審議してもらい,実現して欲しいと思っています.あともう少しのところまで行っていたのですが,否決ではなく,もみ消し状態なのは残念です...涙 私は思うのですが,これ,決議したら可決する可能性はあるんじゃないでしょうか.世論も,現在は分からないですが賛成派が多数でした.本当に私は,マイナスの意味合いをこの法案の中に探すことができません.ですから,極論すると,これが否決されたらどえらいことです.だから「もみけし」なんでしょう...これが現実なんです.

ところで思うのですが....絶対反対派は,同姓を通して何を守ろうとしているのでしょうか.私はどんなに注意深く話を聞いて考えても,本当に分からないんです.(いや,なんとなく感じるものはあるんですが,正確に言葉にできない,という感じでしょうか...)これに関しては引き続き考えていきます.まとまったら,また書きたいと思います.

関連記事(つづき):http://erisabeth.blog123.fc2.com/blog-entry-240.html

 

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  1. ジェンダー
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閃光少女・解釈編 :: 2008/04/18(Fri)

閃光少女は,2007年11月に発売された東京事変の新曲です.プロモーションビデオ(PV)でのみの発表で,CD版はなしという,JPOP界では稀な仕様.2007年のライブで先行披露されました.スバルのステラという車のCMに使われています.

ずいぶん前にこのブログで,この閃光少女のPVが衝撃的で印象的で,でもすごく難解だったので,「この曲を解釈したい」と勢いで書いたのですが...そのせいで「閃光少女 解釈」というキーワード検索で,このブログに来訪される方が度々おられます....スミマセン...その後すっかりさぼっていたので,何の見解も書いていませんでした.ということで,「閃光少女」を私なりに解釈したいと思います.

全歌詞を書きたかったのですが,厳密には著作権にかかわるので,リンクにします.
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND57649/index.html

閃光少女の歌詞を考える時,「過去」「現在」「未来」という時間の流れ,そして詳細に歌詞を読んでいくと見えてくる曲の1番と2番の内容の相違,この二点がこの曲のテーマを紐解く重要な鍵だと感じます.

1番で最も核となるフレーズは「現在を最高値で通過していこう」という部分でしょう.
「今が確かなら万事快調」
「明日には(今日のことを)全く憶えていなくたっていい」
「明日まで電池を残す考えなんて無い」
「昨日の予想が(今日の)感度を奪う」
こういう言葉たちから,「現在」の重要性を強く感じます.今を生きることの意味が大切.過去を見て,それよりも今がより快調であればいい.未来についてはわざわざ考えないので,ここで未来は想定されていないかに見えますが,「現在=最高値」が続けば,これは未来が悪くなることはないでしょうから,右肩上がりのイメージを感じます.

一方,これが2番の歌詞では一転します.
「現在がどんな昨日より好調よ」
で始まるため,1番を受けて同じ内容かと一瞬思ってしまうのですが,すぐに,
「明日からはそう(現在が好調だと)思えなくてもいい」
と完全に打ち消してきます.
とてもさりげないですが,実は1番の前向きさは,2番では完全否定されているのです.

展開部(サビ)においても,1番と2番では全くイメージが変わります.1番では,
「切り取ってよ 一瞬の光を」
「写真機はいらないわ 五感を持っておいで」
です.確かで最高である「現在」という一瞬を切り取るのです.とてもポジティブなイメージを受けます.また注目したいのは,「切り取ってよ」というフレーズ.つまり語りかけている相手がいる,切り取る作業をする誰かが存在するのです.
一方,2番の展開部は,
「焼きついてよ 一瞬の光で」
「またとない命を 使い切っていくから」
です.焼きつく,そこに焼きついて残る.つまり残っていくものが大切な感じです.先の未来に進んで行く自分の未来は明るいとは思えず,だから現在を焼きつけ残すイメージを感じます.さらに,1番と違い語りかけている相手は存在していません.「切り取る」というのは,誰かの行為でしたが,「焼きつく」というのは現象です.現象として焼きつけよ,と言っているか,願望として焼きついて欲しいと言っている感じです.もっと言うなら,焼きついてくれないから,焼きついて,と願っているようでもあります.命をつかいきっていくのだから.

まとめるとこうなります.
1番:現在を最高値で通過する.つまり人生は右肩上がりで,未来は明るいイメージ.ただし,「がむしゃら」「無計画性」のような日本独特のイメージを感じます.
2番:未来は明るいとは限らない.ならば,今(好調である現在)こそ焼き付いて,という願い.欲求.今の私をちゃんと認識して,という欲求.1番とは180度違う世界観です.

これは,日本において女性が少女から大人になっていく過程で感じざるを得ない(もしくは無意識的に感受する)感覚ではないかと思います.私は確信的にそう感じるのですが,一般的にはどうなのでしょうか.私はこのブログでも日本のジェンダーについていくつか記事を書いていますが,現在の日本という社会は女性にとって明るい未来を感じにくいです.その現実を,絶対にどこかで知ることになります.非常に悲しい歌で,涙なしには聞けないという方もいることでしょう.椎名林檎さんの歌詞からは,日本のジェンダーを感じることが多いですが,それをうまくオブラートに包んでおられるように感じます.私がこうやってブログでごちゃごちゃ言うと,とげとげしくなりますから.苦笑

さて,プロモーションビデオ(PV)です.



2人の女性が登場します.ひとりは制服を着た女子高生,もうひとりは少し背の高い私服の女性.2人は鏡像関係の動きの後,左右反対方向に走りだします.この2人は友人同士だと解釈することもできますし,現在の自分が制服の少女で,もうひとりが(実現しない)もう一人の(理想の)自分だとも解釈できます.解釈は多面的に可能ですが,いずれにせよ,このPVの注目すべきシーンは,私服の女性が最後に一瞬で消えていくシーンだと思います.その消滅の瞬間,それが見えていないはずの制服の少女が振り返るシーンは印象的です.これは,対称に動いていた2人が,ひとりが消滅した途端に,残された少女の動きが自由になったように感じます.つまり,消えた私服の女性は,制服の女性を束縛していた存在のようにも受け取れますが,ここの感じ方も人それぞれでしょう.ただ,自由といっても,行き先の見えない自由であり,制服という俗物が,見えない束縛の象徴のように映像に映ります.

ところで,このPVからは,「閃光」という物理現象と「少女」という生身の人間が曲のタイトルとなっている意味を強く感じます.理論物理的には,時空間を超えて影響を与え合う二つの素粒子(量子もつれの状態にある素粒子)から,ひとつの状態が観察されてしまって(もちろん現在の日本,制服の少女の方です),もうひとつの可能性が消滅する残酷なシーンを描いているように感じます.すごく哲学的なPVだと感じます.おそらく,物理学的な素養(ややSF的であっても)がある方が,クリエイターの中にいるのではないかとさえ感じますが,もし,そういう考えなくこのPVの映像ができているのなら,それはそれで,とても考えさせられることですね.全く異なるフィールドから,類似の世界観が生まれている,というか...

私は何を言っているんでしょう.笑 こんなこと考えているのは私だけなんでしょうね,きっと.


※追記
このPVにはエンディングロールがあります.英語バージョンですが,歌詞が微妙に日本語のニュアンスと違います.いや,僕は後半に行くほど日本語とは「全く」違うと思ってしまいます.とてもポジティブ!?かどうかは効く人に委ねられるかもしれませんが...



 

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多数決の危険 :: 2008/04/16(Wed)

私の印象では,日本人は多数決がかなり好きだと思います.学校でも何かと多数決がありますね.学級委員を決めるのに,誰かを推薦してから多数決で決める.合唱コンクールで何を歌うか,いくつか候補が出たらまた多数決.一方,何気ない場所においても,意識はしてなくても多数決的な雰囲気の決まり方をよく感じます.例えば,久しぶりに集まった学生時代の友人同士,さてどこでランチを食べようかという時,誰かが「○○レストランはどう?」と提案して,「そうしよう!」と数人が賛同したら,つまり多数意見が出揃った時点で,だいたい決着です.そこから「△△は○○より美味しかったよ.」とあえて少数派意見を口にする人はいないでしょう.もし○○が多数派になる前なら,△△が多数派をとれたかもしれませんが...とにかく,少数派は黙るのが基本で,結果は「多数決的」だと感じます.私の観察では,けっこうな数の日本人が多数決的に物事を考えているように思います.だから実際,日本において「多数決」という言葉から生まれるイメージはそんなに悪くないと思います.最も公平な原則だと思われている気がします.

さて,多数決ってそんなに素晴らしいものでしょうか.私は,日本においてこそ,多数決は非常に危険だという気がしているんです.

時々勘違いしている人がますが,多数決は民主主義の原則などでは全くありません.多くの人が自由に意見を持っていて,その意見をひとつに決める必要性があるとき,意思決定を行うための単なるひとつの「手段」だということを認識しなくてはなりません.本当に議論を行った末に,意見がひとつに集約されないのなら,多数決という手段が存在します.しかしもし議論の末に全員が納得する意見が得られたなら,全会一致になりますね.全会一致も手段のひとつですが,こっちのほうがはるかに平和的で意義のある結論です.ただ議論する人にはそれ相応の能力が要求されるでしょう.

多数決は,決定に参加する人間が全く他人に影響されない強い心を持っていて,一切の結託なしに,しかも正しく筋の通った議論がなされた結果であれば,最大多数の幸福が約束されるという意味で,一定の価値を持ちます.しかし,現実的にはそんなことはありえません.少数派がお金を用いたり,情報を操作することで多数を占めることは容易です.最も煮詰められた意義のある意見が(是非はともかくとして)最大多数を得る保証なんてどこにもありません.さらに,日本には厄介な別の問題があります.それは「多数派こそ信用できる」というタイプの考え方です.つまり意見の「内容」で判断しているのではなく,「多数派の意見かどうか」が判断材料になるのです.こうなると,意見を積極的に発する側も「中身のある意見を考える」ことよりも「多数派になること」のほうが重要になってしまい,悲惨な悪循環を生みます.こうして,日本において多数派であることは非常に有利となります.中身ではなく,「多数派であることの力」が生まれるのです.力のある政治家はその状況を非常によく理解していて,揺るがない連立与党,その中の明らかな第一党,そしてさらにその中の最大派閥という構図でもって,頑強な多数派を構築します.構築された多数派の中の少数で政治を動かせるわけです.

日本人は多数決が好きで,多数派に安心感を得易いと思いますが,これは危険なことです.また,必ず「多数派嫌い」の人はいますが,このような人も,ちゃんと多数派の意見のどこがおかしいのかを指摘できずに,とにかく多数派は嫌いだ,と言うだけじゃ,何の意味もなしません.何も考えず多数派を支持していることの反対をやっているだけで,本質的な意味は感じられません.とにかく読売ジャイアンツは嫌いだ,と理由もなく言っているようなものです.

多数決は,きちんと本質的議論がなされて始めて,ある程度意味を持つのです.ただの多数依存は議論を本質から逸脱させてしまいます.多数派の意見かどうかという点を一切考えないようにして,意見の内容こそ真正面から考えるよう努力しなくてはならないと思います.

 

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レクサスのデザイン :: 2008/04/14(Mon)

私は車好きですが,車を見る時,そのデザインってすごく自分にとって重要な要素だと気づきます.すごく美しいとか,すごくどう猛そうだとか,そういう何気ない車が持つ雰囲気を楽しむのがとても好きです.もちろんメカや走りも好きですけど...(^_^;)

私は,レクサスが日本で販売を開始した時,そのデザインに対して最初に感じたことは今でも覚えています.いわゆる第一印象,それは...

「ずいぶんあっさりしてるなぁ,でもすごく綺麗」

これは当時日本において販売を開始したISとGSというモデルから共通に感じた感想です.このような雰囲気はあまり他の外国車から感じたことがありません.一般的な日本車とも全く違う雰囲気を持っている気がするのですが,でもどこから見ても日本車だと分かる雰囲気も同時に感じます.こういう一連の感覚はどこから来ているんだろうか,何が私にそう思わせているのか,これはすごく興味があったのです.(私はまず直感的に何かを感じて,その理由を客観的に言葉に変換して探そうとするタイプなんです.)後になって追加されたLSという最上級モデルからも,統一感のあるレクサスのデザインを感じます.

レクサスから感じるデザインの綺麗さ,それは面(平面および柔らかな曲面)と線(プレスのラインとボディのチリ)の妙なんだと今は思っています.面と線の組み合わせが凄く綺麗.ここが決定的に外国の車と違うところだと思います.欧州やアメリカの車は,やはり造形で見せている気がします.車という「塊」がどのような姿をしているか,ということ.つまり,石を彫刻していくように,ひとつの塊の中に具現化した造形を創造するわけです.プジョーやフィアットのようなラテン系の車はもちろん,メルセデスのようなドイツ車もそうです.極論ですが,「ダビデ像」のような世界を感じます.表現の主体は完成された車の「姿」そのものなんです.一方,レクサスが見せているデザイン.これは完成された車の「姿」というより,「要素」だと思います.具体的に探すと,それは面や線の見せ方.そして,その世界をしっかり表現するための,鋼のプレス技術や塗装技術,パーツごとのチリ(隙間)を正確に合わせる高い技術力を感じます.このようなデザインコンセプトから成り立つレクサスは,全体で捉えるととても薄味です.全体としては「そつなくまとめた」といった感覚です.主張がなく,逆に言えば間口が広く見えます.どのような人がそこに乗り込もうとも,抱擁してくれるような優しさにつながります.

最終的には,好き嫌いの問題でしょう.私はというと,レクサスのデザインは好きです.主張がないという点が好きという意味ではありません.欧州勢の後追的なデザインに終始していない点に価値を感じますし,そして実際に,世界中探しても現行のレクサスに似た車はないと思います.そういう個性が素敵ですね.

ところで,凹凸がなく,面と線からなるものといえば,和服(着物)です.一枚の布から仕立てる平面造形の着物は,着付けによって,体の曲線に馴染むように柔らかな面と線が現れます.まさにこれだ!と思ったのは...私だけでしょうか.笑 レクサスのデザイナーがそんなこと考えたかどうか知る由もないのですが,でも本当に,真面目な話し,私は着物というものが持つ美しさを現行のレクサスのデザインから感じます.一方,肉体的なBMWやアルファロメオや,こういった海の向こうの車たちは,立体造形の洋服だと思いますね.

いい写真が手元にないので,またまたリンクですみません.ISの公式サイトのギャラリーです.興味のある方はどうぞ → http://lexus.jp/models/is/design/gallery.html

※この記事のレクサスのデザインとは,新しくデザインされた現行のレクサス主力車種であるセダン系,LS,GS,ISを指しています.日本に導入されているモデルです.クーペSC,SUV系のデザインの方向性は別のもので,これは除外しています.

関連記事:レクサスが提示する価値
      :日本車のデザインが駄目な理由


 

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