日本について考えるブログ




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死後の世界 :: 2008/06/28(Sat)

私の友人に,霊が見えると言う人がいます.私には見えません(感じません).でもその人は見えると言います.その人から何か奇跡的な体験をさせられたこともありませんが,私はその人の言うことは,本当に信じています.まあ,霊を信じているというよりは,自分に全く理解できないからとか,社会通念上嘘だと思われているからとか,科学的でないからと言って,間違いだと決め付けることの根拠を自分は見つけられないからです.

私は科学を職業にしているのですが,実は科学の限界を常に感じています.それはパソコンの計算速度をもう少し向上させるようなことには役立ちますが,もはや人類がそもそも科学に求めていた「真理の探求」なんてことは不可能だろうという意味です.20世紀で最も美しい科学実験に選ばれた「二重スリット実験」は,私たちに「科学で真理を探究することは無理がある.科学はただ人が分かる言葉に置き換えた解釈のようなものだ」という認識を新たにさせます.すべては不確実な状態の上に成り立っていることが皮肉にも科学的に証明されてしまうのです.(不確実さこそが真理?そんな真理なんてあっていいものでしょうか!)

ここにきて,科学は真理を探究する崇高な存在から,生活を楽にする「道具」に成り下がりました.少なくとも最先端の基礎的領域を専門とする科学者の多くはそれを感じています.しかしそもそも客観性のある真理などというものは無いことは分かっていました.なぜなら私たちは生きていて,そこに主観を除くことなど不可能だから,完璧な客観性など無いも同然です.

死後の世界はあると思われますか?科学的に考えるなら,ナンセンスな話です.そんなものは無い.私たちが生き,考え,笑い,泣いたりするのは,すべて脳の神経細胞の複雑な信号のやりとりが引き起こす特殊な状況ですし,脳波を測定すれば,なるほどそれは科学的に正しい説明だと分かります.死ぬと,細胞が自発的な活動を止めますが,神経細胞上の情報はどこにもそっくり移すことはできません.神経細胞といったって物質からできています.つまり炭素とか酸素とか窒素原子なのです.死体を放っておけば,バクテリアに分解され,神経細胞もアンモニアや二酸化炭素になっていくでしょう.焼かれれば,炭や二酸化炭素になるでしょう.とにかくそうやって還っていきます.「死んだら土に還る」が科学的には一番近いですね.ただ複雑に関係しあうことで生まれていた「情報」は消失するので,記憶を引き継いでその先を進んでいく「死後の世界」を科学的に考えることはできません.死んでなお続く世界など想像できないでしょう.

しかしです.科学的にだけ考えて,だから死後の世界がないなどと本当に言えるでしょうか.私たちは,なぜ,死後の世界について科学で語ろうとしなくてはならないのでしょうか.科学がただの道具なら,そんなもので死について真剣に考えるなんて馬鹿げています.誰がそういう義務を課したのでしょう.科学は,ある現象に対して,ある方向から強い光を当て,光が当たった場所だけを克明に見ているようなものだと私は考えます.光が当てられた場所だけは,全く矛盾がありません.しかし,光が当たらない(当てられない)場所を考え出すと,科学は無力化していきます.何も「死後の世界」などという極端な話しを持ち出さなくても,それは日常に存在します.1年後の今日,雨が降るかどうかは,科学では絶対に分からない(説明できない)のです.あなたが今,月を見て何を想うのか,科学では絶対に分からない(説明できない)のです.

関連記事:「私たちに自由意志はあるのか」

 

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世界遺産に落書き :: 2008/06/26(Thu)

「岐阜市立女子短大の学生6人が、世界遺産登録されているイタリア・フィレンツェ歴史地区のサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に落書きをしたとして、大学から厳重注意処分を受けた。」

http://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/K2008062403650.html

いやー,やってくれましたね.日本の女子大生,いわゆる暴走というやつでしょうか.周りが見えてないのか,わざとなのか,その辺はさっぱり分からないですが...苦笑

ところで,重要なのはここからです.大学側は事態を重く見て,イタリア当局に謝罪し,修理費用を払わせてくれと申し入れたそうですが,断られたそうですね.反省してもらえればそれでいいと.

多分,世界遺産を管理しているイタリア当局は,本当にそう思っていると思います.だって,落書きされることは想定外だったでしょうから.彼女たちもいろんなストレスたまっていたかもしれないし,この件の重要な部分は,お金の問題なんかじゃないということです.管理者にも守れなかった責任があると感じているかもしれません.やった日本の女子大生に思慮が無いのはもちろんですが,そこを積極的に責めても「進歩的でない」と考えているのだと思います.これこそ,私の感じる「相互理解のある関係」です.イタリア当局と大学の問題でなく,落書きをした女子大生もこの関係の輪の中に入っていると感じます.

いいでしょうか.ここで大学が費用をイタリアに支払って「あなたたち,もう二度とこういうことをしないようにしてください.いいですね.」と厳しく注意して済ますのなら,場合によってはまたやりたくなりますよ.「なんか,むかつく.」というやつです.これを権力による「抑圧」と言うんです.イタリア当局のように「反省してもらえればそれでいい」と紳士的対応であれば,彼女たちも本当に反省して,もう二度とこういうことはしないんじゃないだろうか.と私は本当に思います.

とにかく日本という社会は,このような抑圧を少しでも排除する努力をしなくてはいけないと思います.いい国にしていくには,こういう所からだと思うのです.

 

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  1. ニュース
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ガーリック無きイタリアン :: 2008/06/25(Wed)

なんだかんだ言って,日本はグルメの国だと思います.というのも,新鮮な魚介やだし文化や味噌の話だけではなく,外来の食材でさえ,それなりに美味しいと思えるものが簡単に手に入るからです.例えば美味しい生ハムが欲しいと思ったとして,近くのスーパーに行けば,安くてもまあそれなりの生ハムが手に入ります.チーズだってお肉だってハーブだって香辛料だって,たいていのものは売っているんですよね.最高のものでなくても,それなりの質を保っています.家の近くのスーパーでは,コリアンダーがポットのまま土植えで売られていますが,誰が買うんだろうか....と思いながら我が家が買い占めております.笑 (→ フォー,生春巻きなどになります.^^)食材の豊かさは当たり前のことで気づきにくいですが,他の日本製の商品に比べてそのクオリティはやはり高いと思います.つまり,服とか家具とか家とか家電とか車とかテレビドラマとか,そういういろいろな他の商品と比べれば,食材はかなり豊富でバラエティがあると感じます.

最近,なぜかトマトが美味しいのです.札幌だけでしょうか,理由は不明です.適当に一番安いトマトを買うとあまり美味しくないのが今までの常識だったのですが,最近はなぜかトマトの質がいい.そこで,このトマトを使ってパスタを作り,ガーリックを引き算することに挑戦です.パスタというと,どんなレシピ本を見てもテレビを見ても,オリーブオイルとにんにくからスタートしますが,こういうのを見ていると,引き算してみたくなるのが私の性分です.ということで,テーマは「イタリアンは,にんにく無しでも耐えられるか」.笑 作ったのはトマトのシンプルな冷製パスタです.ただし,にんにくという絶対的相棒を失うため,使う素材はそれなりの良質のものでいきたいと思います.

(↑ 本当の理由はというと...あったはずのガーリックが家になかったのです.涙)

材料(2人分)
・トマト(固くて,甘くて,酸味が少なくて,とにかく美味しいもの)・・・・1個
・オリーブオイル(香りのいいもの)
・イタリアンパセリ・・・・適量
・タリアテッレ(DIVELLA)・・・200 g
・黒胡椒・・・・・粒を用意して挽く
・塩・・・・・カンボジア産・天日塩

レシピ:
・まずたっぷりのお湯を沸かし,安い塩を入れます.
・トマトを1 cm角くらいのサイコロ状に切ります.
・イタリアンパセリを好きな大きさに切ります.
・お湯が沸いたらパスタを投入します.今回は平打ちのパスタ,タリアテッレ.
・茹で上がったら,ザルにとり,冷水で冷やします.今回は冷やすので,温かいパスタよりも茹で時間を少し長くしてOK.
・パスタをボールにとり,乾かないうちにすぐオリーブオイルをかけ,混ぜてなじませます.
・トマトをいれ,優しく混ぜます.
・ここに,カンボジア天然塩,挽きたて黒胡椒,仕上げのオリーブオイルをかけ,優しく混ぜます.分量は好みで.
・イタリアンパセリを散らして出来上がり!


     

     パセリを適当に切りすぎて,つんつん立っとる...笑


非常にマイルド!トマトも塩も胡椒もいいものを使っているので,素材の風味が生き生きとしたパスタになりました.とにかくマイルドです....うーん,ちょっとマイルドすぎるかなぁ...笑 このマイルドさに,ちょっと刺激を加えるのがガーリックなんだなぁ,ということも,このパスタから教わりました.ガーリックという魔法はやはり絶大のようです.

 

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キタキツネ :: 2008/06/22(Sun)

キタキツネ.北海道では特に珍しくなく,郊外に行けばすぐに会える動物です.夏の北海道はたくさんの観光客が訪れますが,バスから降りたらキタキツネがいて,「すごーい,キタキツネだ!!」という歓声が時より聞こえたりしますが,特にキツネをじっと見るわけでもなく,たいては写真を撮って,はしゃいで,満足して帰っていきます.とまあそういうシーンをよく見てしまいます.


   



夏のキタキツネに会うと,すでに知っていることとは言え,こんなに痩せているのかと私は再び衝撃を受けるのです.というのも,たいていテレビや雑誌に出てくるキツネはふわふわの冬毛か,夏でも痩せているのが目立たないようなショットなんですよね.映像では伝わってこない本当のキタキツネの姿は,現場で空気を通して対峙して初めて分かると感じます.


しかし痩せているというのは,決してマイナスのイメージなんかではありません.無駄な贅肉がなく,鍛え抜かれた鋼のような体です.足が体のボリュームに対してとても長く,眼光するどく,真っ直ぐ前を見る姿に背筋が伸びます.
   (しかし,しっぽだけはなぜか年中ふさふさです.^^)






こういう姿を見ると,千歳空港などで大量に売られているキタキツネグッズが何なのか,全く分からなくなります.太って可愛らしく変形させられたその姿.デフォルメも悪くはありません.しかし,それは何かひとつの特徴を捉えて行うのなら意味があり,魅力も生まれると思うのですが...どーもピンときません.


 

テーマ:思うこと - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 自然・科学・思想
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206と対話する :: 2008/06/20(Fri)

北海道道28号.当別-青山ダム-浜益港線.この道は,私が札幌近郊でドライブをするとすれば,最も美しいコースだと思っている道です.残念ながら当別側はダムの建設により風景は変わってしまうと思われますが,青山ダムから浜益の間は深い樹海が延々と続き,南暑寒岳の残雪を森の間に眺めるこの時期の風景は非常に素晴らしいし,浜益に出るところで日本海が突然眼前に広がるところも想定外の展開だけにダイナミック.そして何より交通量が少ないので,静かなドライブを満喫できます.




白樺の森を駆け抜ける



道道28号は勾配はそれほどなく,いわゆる峠道とは言えませんが,低中速コーナーがひたすらに連続し,また地盤が悪いのか路面が大きくうねり,結構荒れています.この道を206である程度ペースを上げて走ると,206との楽しい語らいの時間を過ごすことができます.

私がこれまでに得た感覚では,この206という車は,「思いどおり」「意のまま」に操るタイプの車ではなさそうです.ステアリングを切り込んでもリニアには回頭しません.アクセルを深く踏み込んでも,実はそれほどのダッシュは見せません.ブレーキのタッチは素晴らしいですが,コントロール性はそれほど高いわけではありません.いずれも切れ味抜群ではなく,やや控えめな印象です.

現代の車はボディ剛性が高く,その剛性によって高性能シャシーを最大限機能させ,安心感のある操舵感・巡航感を生んでいると思います.それはパッセンジャーの安心感にもつながります.車がそれだけの剛性を携えているので,それに依存すれば人は安心感を感じますし,逆に言えば,この剛性から生まれうる正確無比なハンドリングにより,車を意のままに操縦する感覚を味わうこともできると言えるでしょう.

ところが,私は206からそのような「剛性」のニュアンスを全く感じないのです.よって,剛性から生まれる正確な操舵感などは206にはあまりないと思います.私はこの206のドライビングを包括できる言葉を探していたのですが,今は「躍動」かなぁ,と思っています.走ると車が躍動している気がする.そして,その感覚が私を元気にさせてくれるから不思議です.しかし206も現代水準の剛性は当然確保しています.どうやってこの世界観が可能になるのでしょうね.モノコックボディやサスペンションシステムの特性? マウントブッシュにも秘密がある? このような躍動感を生む支配的要因があるのか,はたまた全体の複雑な絡み合いで生まれるのか,そこは開発者じゃないのでさっぱり分かりません.

現在の日本の自動車評論において,「剛性感のない車」などと言うと笑われてしまうでしょう.206に対するモータージャーナリストの評価は決して悪くはないですが,「剛性感が足りない」という言葉を評論家が使うとき,そこには「それは206の数少ない欠点だ」という意味合いで使われます.それほど「剛性(感)=高いほどいい」という図式が成り立っています.しかし私は,206は必要な剛性を保ちながら,剛性感をある程度消すことに成功しているのかもと思ったりします.

プジョーの足廻りは,そのしなやかな特性と高い接地感から「猫足」と表現されますが,私はどうも「猫足」というよりは「猫」なんじゃないかと思ってきています.猫のしなやかな動きは足だけでは生まれません.しなやかな体,ひげ,そしてしっぽも必要です.すべてが調和して,猫という美しくしなやかな生き物が生まれるんです.プジョーも同じじゃないかなぁ...サスペンションだけじゃなく,ボディへのマウント方法,ボディの特性,エンジン,シートなどなど...そういうものが調和してプジョーなんだと思います...前にも似たようなことを書いた気が...笑

関連記事:車と走り,車と対話する

 

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  1. プジョー206
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車と走り,車と対話する :: 2008/06/18(Wed)

ミニバン全盛の日本で,しかもこれほど環境問題が意識されてきては,もはやスポーツカーのような車が生き残る道はないのでしょうか.確かに,時代に逆行していると言えばそのとおりかもしれませんが,少し寂しい気もします.がしかし,ワゴンやミニバンのような「重たい」車を,たいていひとりで通勤に使っていても文句言われないのに,走り系の車を楽しそうに運転していると白い目で見られるような境遇は少々残念です.涙

ところで,日本で一般にスポーツ走行のような走り好きのドライバーは,何を車に求め,何が楽しくて,何に感動しているんだろうか,とよく考えます.というのも,雑誌などを読んでいると,どこか自分と温度差を感じるからです.こんなこと考えるのは,もう車馬鹿の暇つぶしでしかないのですが,どうも考えてしまうんですよね.

巷の自動車雑誌なんかを見ていると,スポーツドライブを語るとき,「思い通り」とか「意のままに」という言葉がひとつのキーワードになっているように感じます.車がドライバーの思い通りに加速し,思い通りに曲がり,思い通りに止まる.このような走りを達成することができる高性能な車を運転すると,「思い通り」という感覚が強く意識され,その先に「車を自在にコントロールできている」という満足に到達するのだと思います.そしてこの感覚を味わうことがスポーツドライビングの醍醐味であるかのように謳われています.

「意のまま」とはそんなに素敵なことなんでしょうかねぇ.実はどうも納得できません.

車は機械であり,物理法則を超越するような振る舞いは決して起こしません.「意のまま」などと言った所で,その物理法則の範囲内だけで通用することです.そういう範囲内であれば,動力性能・シャシー性能・制動性能が高く,走行インフォメーションの多いスポーツカーのような車は,基本的に意のままにドライブできて当然です.

日本の車雑誌によく現れる「思い通りの走り」「意のままに操る喜び」のような言葉が出てくる状況,それは,車の性能が乗り手の技術のはるか先に存在する時に,限界のずいぶん手前でドライバーが勝手に喜んでいる状態だと私は感じてしまいます.確かにNSXやS2000やインプレッサWRXのようなレーシングカー様な車をドライブすると,わずかなスロットルワークやステアリング操作に対して車がリニアに反応する様に,思わず「すごい!」と感動します.しかし同時に,車の作られている次元はこんな低次元な世界ではなさそうだ,とも感じるため,心のどこかで冷めてしまうんです.なんというか,「すごい」とは思えても「楽しさ」はないんですよね.車の成り立っているステージが違いすぎる.つまり,意のままに操っても,私は楽しさを見出せないんです.

スポーツドライブの本当の醍醐味は,物理法則が破綻するかどうかのぎりぎりの状況に存在すると思っています.タイヤがグリップ性能の限界を超えれば,もはや車は思い通りに曲がらなくなるので,それを知覚と知性と体力によってぎりぎりつなぎ止めてタイムを削る.例えばこういうことができた時,車は持てるポテンシャルの100%を発揮して美しく可憐に走行することでしょう.インプレッサもこの領域に持ち込めば,心から「楽しい」と思えそうですが,まあこれは公道で行うわけにはいきません.漫画イニシャルDの中でバーチャル体験するか,サーキットに行くしかないですねぇ.笑

私はそんなわけで,走り指向の車を愛していながら,そういうハイパフォーマンスカーにはどうも心が惹かれませんでした.「機械」としてはあこがれても,「車」としては惹かれないんです.そしてそんな私が大学時代にお金をためて最初に買った車はS13型シルビアという車です.忘れもしない,昭和63年車.28万円.^^; 

シルビアという車は,当時一部の走り屋やドリフト属ご用達の車であり,あまりいいイメージが持たれていませんが,その素性は素晴らしいものだったと思います.車を運転することの基本である荷重移動や,オーバーステア,アンダーステアという概念,基本的なドライビング技術は,このシルビアから全て学んだと思います.FRであるが故に重く,同じ排気量のFF車のほうが圧倒的に速かったし,重量バランスが悪くてトラクション性能も褒められたものではなかったですが(だからみんな改造してたんでしょうが...汗),その反面,ドライブフィールはとても自然で,走行情報量の多い車でした.走りながら車と対話することが楽しくて仕方なかった,そう記憶しています.私の体は今でもイチサンのドライブフィールをはっきり憶えています.あのとても優しくて心地よい感覚を.(このS13型シルビアは,車好きの間では「イチサン」という愛称で呼ばれています.)

私が最初からプジョーなんかに乗っていたら,多分206がどんな車かなんて,何も分からなかったという気がします.シルビアという車から基礎となる初等教育を受けたから,今の車好きの自分がいるんだと感じます.笑 今私は,フランス人が作ったこの小型車を運転し,この車が伝えてくる言葉に懸命に耳を傾け,対話をする努力をしているところです.文化の壁を乗り越えて,片言の仏語で意思疎通を図り,少しずつ打ち解けていくような楽しい時間を206と過ごしている,とまあそんな感じです.


 

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何のためのモデルハウス? :: 2008/06/15(Sun)

「ハウスメーカーのモデルハウスは,客を契約させるためのトラップです.ですから,本気で家の購入を考えておられる方は,モデルハウスに行く必要はありません.」

聞いた話ですが,こんな記事が住宅雑誌か何かに書いてあったそうです.うーん,正直ちょっとそれはひどいと思いました.まあ,当たっている面もあるかもしれませんが,そう言ってしまうと何の進歩性もないというか...

住宅メーカーが住宅展示場などにお金をかけて作っているモデルハウス.あのモデルハウスを多くの人はどんな視点で見ているのでしょう.私は,このブログでも時より書いているように,日本における様々な商品の質は諸外国に比べて低いと思っているのですが,住宅メーカーが本気で作っているモデルハウスに関しては,けっこう素晴らしいと思うこと多いです.いや,モデルハウスは売るための商品ではないですけどね...笑

モデルハウスを素晴らしいと感じるのは,広いとか,高級な素材やインテリアアイテムを使用していて豪華だからという理由では決してありません.ちゃんとコンセプトがあって,住まう人の暮らしが見える家になっている点が素晴らしいと感じます.例えば,リビングと屋外が一体となるような開放的な空間が生まれていたり,借景へのこだわりだったり,動線を含め使う人の感覚をちゃんと考えて設計がなされている間取りが存在していると思います.

確かに,モデルハウスはたいてい豪華です.その豪華さだけをとれば,確かにお金をかけなければ手に入らないかもしれません.「ふざけるな」と言いたくなるようなものも存在します.汗 しかし一方,考え抜かれたアイデアというものは,自分が家を建てるときに充分に応用できると思います.そういう新しいアイデアを発見するためにはモデルハウスは最高の場所だと思います.

日本の住宅は悲しいことに,非常に悲惨です.コピーアンドペーストのような間取りに溢れ,生活者の暮らしを真剣に考え相談に乗ってくれるメーカーは数えるほどです.しかし,気合の入ったモデルハウスを見ると,本気になればやれるんだということが逆に分かって,ちょっと安心します.

モデルハウスでアイデアを盗み,家を建てる時にわがままを言う.そして,住宅メーカーが出し惜しみしている本物のプランを引き出しましょう.見た目の美しさや豪華さにばかり気をとられた末に契約のはんこを押してしまうことだけは避けなければなりません.

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