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自分の世界から出ようとしない :: 2008/09/19(Fri)

日本人は自分の考えを構築してしまうと,そこから外に出ない人が多いなぁ,と思います.特に男性から感じます.時々,ころころ考えを変える人もいますが,それは影響を受け易いから変化しているだけであって,基本的にその時その時は,ひとつの立場だけという気がします.つまり,ある時に限定すると,バリエーションが少なく,考え方に幅を持てない.複数の選択肢を容認しない,理解していない,という感じ.

いい例かどうか分からないのですが,些細な日常の中でなら,コーヒーを飲むときにブラックで飲むか,それとも砂糖やクリームも入れるか.私は,日本人はどちらかに決めてしまっている傾向を感じるのです.「コーヒーはブラックが好きなんだよ.甘いのは苦手だな.」とか「私は砂糖がないとコーヒー駄目な人なの.」とか,こういう感じ.

本当に,甘いコーヒーが駄目なのか.本当に甘くないとコーヒーは飲めないのか.そこは,本当のところ分からないのですが,日本人はどちらかに決まっている(決めている)場合がとても多いと感じます.

日本に長く住む知り合いの外国人は,このように言います.「日本の店で出されるコーヒーはほとんどブラックだから,砂糖やクリームを入れるかどうかはその時の気分で決められるのがいいね.」と.つまり,どちらかに決めているわけではないのです.

私は,どちらかというとブラック派です.しかし,正直な見解は,「美味しいコーヒーは,砂糖を入れても入れなくても美味しい.まずいコーヒーは,砂糖を入れたらもっとまずくなる.」というもの.だから,どちらかというとブラック派になっています.笑 これはあくまで私の感覚で,人それぞれだと思いますが.私は美味しいコーヒーに出会ったら,最初ブラックでも途中から砂糖やミルクを入れたい衝動に駆られます.そうすると,いろんな風味のコーヒーを楽しめるからです.

コーヒーの飲み方なんて,どうでもいいことですが,仮に,両者が議論したらどうなるでしょう.つまり「A:いつもブラック派」と「B:いつも甘くする派」の人間が,例えば「どちらの飲み方が,よりコーヒーらしいのか」という話題で,互いに話しをするんです.A:「コーヒーの醍醐味は苦味だから,甘さはそれの邪魔をするんじゃない?だからブラックがいいんだよ.」B:「いや,そうじゃなくて,ただ苦いだけよりも,甘さが加わることで苦味が引き立つんだよ.私はそう感じるのよ.」と,こんな具合で,ずっと互いに平行線.何もまとまらずに終わってしまいそうじゃないですか.日本人の場合.

なぜ有意義な話し合いにならないのか.ひとつめの理由は,Aは甘いコーヒーの美味しさを知らないし,Bはブラックのコーヒーの美味しさを知らないから.まあしかし,これは仕方ないとします.しかし大きな問題はふたつ目の理由.Aは甘いコーヒーの美味しさを知ろうとしないし,Bはブラックのコーヒーの美味しさを知ろうとしない,ということです.つまり,自分が好きな世界に住んでいて,外には出ないんですよ.

有意義な話し合いになるための一番の方法は,話している途中で,互いが美味しいと思っているコーヒーを作り,それを交換し,飲む.そして相手がその美味しさの説明をする.その時,自分の好みのことは忘れて,相手の説明に耳を傾け,その説明どおりの感覚が今口に含んでいるコーヒーの味や香りから感じるかどうかを模索する.そうすると,「あれ,甘いコーヒーも美味しいものだねぇ.」とか「うーん,ブラックというのもありなのかも.」と思える可能性がようやく生まれます.

社会において重要なことを話し合うときも,たいていこんな感じだと感じます.国会中継や,メディアの政治討論.まずもって,口を開いている人間がしゃべっている内容の要旨は,「自己主張している」か「他人の意見を否定している」かのどちらかです.だいたいそのどちらかに分類できます.「ブラックのコーヒーは美味しい」「甘いコーヒーはコーヒーじゃない」と言っているだけなのです.相互理解への努力の現場を見ることなどまず皆無です.これでどうして話し合いになるというのでしょう.

自己主張は大切なことだと思いますが,相手を否定することは全く重要ではありません.否定は,誰かの主張や意図によって生まれるものではなく,全体の合意もしくは決議によって,自動的に生まれればいいのです.それよりも大切なことは,相手の考えの理解です.理解は同意することではありません.理解したうえで,自分の主張と照らし合わせ,新たな考えを構築していくといいのです.そうすれば,相手も「なるほど」と思ってくれる考えに到達できる可能性があります.その時には同意が生まれるかもしれない.

自分の世界から出ないと,決して自分にはない考えを理解することはできません.

私は前に,選択的夫婦別姓について書きました.いろんな場所で,この件は議論しているのですが,別姓絶対反対の人は,決して夫婦別姓のことを理解しようとしてくれない気がします.私は別に同姓が嫌いなわけではなく(否定しているのではなく),時代背景と社会構造を考えるに,選択的夫婦別姓のほうが,はるかに理にかなっていると思うので,支持しているだけです.しかし,別姓反対の人は,とにかくそんなものはありえない,と全否定を続けるだけです.なぜにそこまで自分の世界から出ようとしないのか,不思議でなりません.同意はなくとも,なぜ理解してみようと思わないのか.まあ,ジェンダー問題がらみの場合は,このようなケースが顕著ですね.

現在の日本は,共通の価値観の上に成り立っていた過去の村社会ではありません.そういう側面もまだ残っているとは感じますが,一方,はるかにいろんな思想や価値観に溢れているとも感じます.このまま自分の世界に安住するようなスタンスで生き続ければ,親しい隣人の考えも何一つ理解できずただの表面的付き合いになり,孤独に苛まれ,どんどんと不幸になっていくような気がしてなりません.というか,もう,そうなりつつあると感じます.一刻もはやく,他者を否定するのではなく,理解するスキルを身につけなくてはいけないと思います.

関連記事:選択的夫婦別姓
      :議論にならないのはなぜ?

 

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