日本について考えるブログ




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定額給付金 :: 2008/11/29(Sat)

定額給付金は,給付金を受け取らなかったら購入することのなかったであろうものを購入するために使った場合のみ,この給付金の目的である景気を上向かせる効果は最大となる,ということを国民はちゃんと理解しなくてはならない.

ニュースを最近賑わせている定額給付金.しかし,どんな内容でにぎわっているのかと改めて考えてみると,本当につまらない.この給付金が,どのような発端で生まれ,どのような目的を持っているのか,国民はこのお金をどうすべきか,ということはほとんどの場合論じられないまま,やれ所得制限を設けるべきかどうかなどと言っても,まったくもって無意味です.

この給付金が景気対策なら,所得制限などという概念が出てくるはずもありません.低所得者層の生活支援なら,もちろん所得に応じて決めるべきかもしれませんが,1度だけ1万2000円をポンと貰っただけでは生活支援とは呼べません.そう,この給付金はそもそも景気対策の使命を背負って生まれたのですから,所得制限なし,高所得者も当然受け取ってください.自粛する必要など全くありません.だって,着服するのではなく使うために生まれてきたお金なのですから.このことを誰も考えていない気がする.考えていても他人事というか...

この給付金が景気対策である以上,貯金じゃなくちゃんと使うべきです.さらに,無視してはいけない大切なポイントは,「この給付金を受け取らなかったなら絶対に購入することのなかったものを購入するために使わなくてはいけない」ということ.これ,実行するしないは置いておいて,どれくらいの人がちゃんと理解しているのでしょうか...というのも,前に街頭インタビューか何かで「給付金は薄型テレビを買う足しにします」などと言っていたのを聞いたので...とても心配なんです.これではいけません.耐久消費財なんて,給付金を受け取らなくてもいずれ買うんですから.給付金のおかげで浮いたお給料が生まれて,それが貯蓄に回るのなら全くもってバカバカしい結末です.ガソリン代とかも駄目ですよ.予定的なものの足しにしてはいけません.

例えばこういうのが明確でいいですね.家族で温泉旅行を計画していて,1泊1人1万円の温泉旅館に宿泊しようと思っていたが,1泊2万円だけど素敵な庭が部屋から見える旅館にすることに変更した,とか.絶対に1泊2万円の旅館になんか泊まらない家族なら,これは給付金をちゃんと市場に対して投資できたことになります.

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081127/plc0811270018002-n1.htm

こうして,きちんと給付金2兆円が市場を動けば,GDP約0.4%の押し上げに相当するらしいのですが,実際の予測は約0.1%にとどまるだろうとされているようです.つまり,かなりの給付金が貯蓄に回り,経済を活性化させないと予測されているんですね.冷静かつ的確な予測でしょう.

だから「ばらまき」と言って政治家を批判しているんですか?しかし,懐に入れて知らん顔しているのは国民ですよ.受け取って懐にしまった利己的な性質を持った国民の責任です.それを日本では当たり前のことだと受けいれているのなら,じゃあ何のために給付金を出すことにしたのでしょうか.この意味では政治家の責任でもありますが,しかし,給付金は是非使ってください,というのは暗黙の了解ではないんでしょうか?と私は理解しています.

しかし,ちゃんと知らなければ実行もできないことでしょうから,最初から諦めるのではなくちゃんと説明すべきなのです.繰り返しになりますが,「実行するかどうかは自由ですが,この給付金は,給付金を受け取らなかったら絶対に買うことのなかった何かを購入することに使用すべきです.そのとき,この給付金は日本経済に対して最大の意味を持ちますよ.」と.どうしてそういうことを誰も指摘しないのでしょうか.広くその意味を知ってもらおうとするウェブサイトやニュース番組の特集がないのでしょうか.メディアは政治家を叩いてもいいので,こういう説明も同じくらいの分量でやってもらいたいものです.そして政治を助けてあげて欲しいです.

関連記事:お金について
      :日本人は利己的か
      :値札を見てはいけません
      :定額給付金を寄付する意義はあるのか

 
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テーマ:政治・経済・時事問題 - ジャンル:政治・経済

  1. ニュース
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霊は科学では取り扱えません :: 2008/11/24(Mon)

幽霊は,客観的に観測できないため科学的に考える段階にありません.もし仮に客観的観測可能な霊が現れたとしても(現象として科学で取り扱えたとしても),次の問題は,科学は魂のような観念的なものを物理量に変換できる方法を持たないということです.よって,霊を科学で取り扱うことは不可能です.

昨日の記事の中で「霊は科学的には存在しない」と書きましたが,個人的に以下のような指摘を受けました.

「科学では霊の存在を証明できていないが,存在しないという証明もできていない.だから「科学的には霊は存在しない」とは言い切れない.「科学的には,霊が存在するかどうかまだ明らかになっていない」が正しいのではないか.だから,テレビで心霊スポットで電磁波の測定なんかをしたりするのは,そこまで可笑しいことじゃないぞ.充分に人間の知的好奇心の範囲内だ!」

この指摘は論理的に正しいです.「霊は科学的には存在しない」は誤解を生み,正確ではなかったです.ということで,「霊は科学で取り扱える状況にない」と訂正します.申し訳ございません.

このように考える方もいるのかも,という気がしたので,この指摘についてここで少し深く書きたいと思います.

科学の要は客観性です.これはいつも言っているとおりで,誰でもそれを観察して,反論がない状態でなければなりません.反例もあってはいけません.ボールを投げれば,いつかは地面に落ちる.これは覆りませんから,客観性があります.ボールを投げたら,どこまでも飛んでいって見えなくなった,という体験や話しを聞いたことはないでしょう.このように一般化できたなら,この「ボールが必ず落ちてしまう」という不可思議な現象について,ようやく科学で考えることが可能になるわけです.そして,質量とか引力というものを発見できるわけですね.

幽霊はどうでしょうか.やはり客観性の持てる状況ではありません.ある心霊スポットに行けば必ず幽霊に会えます,なんて場所はないんですから.現象が客観化されていないのに,それを科学で考えようとするのは,甚だ滑稽なことなんです.状況を例えて言うなら,「俺は昨日,月がふたつ東と西にあるのを見たんだ.間違いない.なぜ一個増えたのか,科学的に考えたいんだ.」と言っているようなものです.

もし仮に.仮にですよ.誰でも幽霊を確実に見ることができる場所と時間があったとしましょう.「おお幽霊だよぉ,ありえねぇよぉ,血流してるよぉ,透き通っているよぉ!!」と誰もがちゃんと見ることができて,大騒ぎになったと仮定します.この状態なら,ようやく科学的に考える段階になり,実際何らかの測定で霊が検出できるかもしれません...しかしですね.もしそういうことになったとしても,重大な問題があるんですよ.もし万が一,霊が科学的に検出できて,それがあるエネルギー領域の電磁波と相関があることが分かったとしましょう.分かったとしても...それで?となりませんか?それが死者の魂とどのように関連付けることができるでしょうか.この部分は無視されています.「その心霊スポットに現れる霊と呼ばれていたものは,電磁波でした.おしまい.」となってしまいます.これで満足できますか?知りたいことは本当にこれだけなんでしょうか.その霊は,10年前にこの場所で死んだ,○○さんだ,とかいう部分はどうなるんでしょうか.こっちこそが霊が霊と言われる要でしょうに...

これに近い事例は火の玉です.昔は,火の玉というのはよく目撃されていました.ある程度,目撃例も多く客観性を持っていたので,科学的アプローチで考えることができました.そうしたら,昔は土葬が多かったので,死体が腐敗してそのガスが地上に漏れ蝋燭の火によって燃焼しながら浮遊した,とかもしくは,プラズマ現象という物理現象だった,ということで科学的に火の玉を説明できました.そして実験によっても火の玉らしいものが再現できてしまったのです.でも,このように検証できた結果,科学的な火の玉の正体が明らかになったのですが,これは何か意義があるのでしょうか.火の玉の科学的な説明ができたからといって,「火の玉は死者の魂なんかじゃなくプラズマだった」なのか,「火の玉はやはり死者の魂でそれは科学的にはプラズマという形で現れる」なのかについて,科学は無力であることがお分かりでしょう.

すなわち科学は,霊とか死者の魂のようなものを,物理量に変換できる能力があるわけではないんですよ.

だから,こういうことを「科学」に固執して考えるようなことは無意味なことです.私は,死後の世界も霊もその存在を否定しませんが,科学的に存在するものでは決してないと思っています.言うなれば非科学的に存在しているのでしょう.でも存在はしていると思いますよ.「霊」という言葉がちゃんとあり,ずっと無くならないのですから.

 

テーマ:心霊 - ジャンル:サブカル

  1. 自然・科学・思想
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スピリチュアルと疑似科学 :: 2008/11/22(Sat)

受身的にメディアに翻弄されるのではなく,主体的に行動し思考し感じることで,自分に対するスピリチュアルブームを起こしてはどうだろうか.

少し前からスピリチュアルがブームですね.全くspirituallyに感じないですが...日本では過去にも,超能力だとかUFOだとか,その時々で科学では説明できない神秘的なものがよくブームになります.もちろん,ただのエンターテイメントとしてこれを楽しんでいるのならいいのです.しかし,本当にエンターテイメントという意味づけでしょうか.例えば,本屋に行くと,スピリチュアル系の本がたくさん売られていて,ちょっと本を開こうものなら,根拠のない駄文が延々と綴られているではありませんか!これがたくさん売れているのだから,そりゃあ不安になります.人生うまくいかないと本気で悩んでいる人も買っているのではないでしょうか.

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081121-00000055-san-soci

「スプーン曲げ」は,物理学でいう「支点・力点・作用点」を利用しているだけです.私もその通りだと思います.もしくはテレビのやらせです.それから,「霊」.霊は,科学的には存在しません.私もその通りだと思います.

この記事では,はっきりと言われていますが,本当にすっきりしますよ.

私は霊や死後の世界というものを,頑なに科学で考えようとする場面を見るたびに,可笑しくて仕方ありません.テレビで,なんか電磁波か超音波か分からないですが,そういう立派な機械を持ち出して,今反応しただとかそういうことで一喜一憂している...もちろん先ほども言いましたが,エンターテイメントならいいですが,真剣な視聴者がいるようで不安なんです.

なぜそこまで科学を信用しているんですかね.何度も書いていますが,科学はそんな磐石なものじゃないですから.科学で調べても霊は検出できませんよ.科学以外の方法でやらなきゃいけません.笑

そういう意味では,最近のスピリチュアル番組のほうがまだましかもしれませんが,しかしそれでもちょっと真面目すぎる気がして恐ろしく感じます.

こういうブームは,現代日本人が科学で説明できないものを必至で求めているから起こるのだろうと思います.これはなんとなく分かる気がするんです.だって,これだけ数値やランキングや法則に囲まれて,科学的以外のことに対して,その価値をどんな尺度で測ったらいいか分からなくなった.だからあえて科学から逃れたいという衝動が安直なスピリチュアルブームなんかを起こしてしまうのでしょうか.

まあ,スピリチュアルはいいと思うのですが,決定的に欠けていることがあると思います.それは,自ら自主的に行動したり感じているのではなく,メディアによって見せられているだけということです.全く持って主体的じゃないのですよ.本であっても同じ.自分で感じたことではない.結局,そういうものに振り回されて,それを「鵜呑み」にしたにすぎず,これはスピリチュアルでもなんでもありません.

やるなら,メディアに依存するのではなく,自らの手で自らにスピリチュアルブームを起こしましょう.例えば,自らお墓参りに行き,仏様に語りかけ,その中から死んでなお続く何かを感じましょう.森の中で,自然と同化できる感覚を実感し,人間の愚かさを受け止めましょう.そして,それらの体感を自分の人生に,そして人との関わりの中で生かすのです.

関連記事:科学=虚構,非科学=現実

 

テーマ:スピリチュアル - ジャンル:心と身体

  1. 社会
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"Abstract"導入 :: 2008/11/21(Fri)

私は,このブログで日々考えたことを,客観的に理解できる文章(賛成,反対という意見とは別に,とりあえず何を書いているのかは理解できる文章,という意味で...)にまとめるよう努力していますが,それでもまだまだ満足のいくものではないです.

問題は文章が長くなってしまうこと.長くなると要点がぼやけるし,分かり易く例を挙げているつもりが回りくどくなり,後で読み返して,だめだこりゃ,と思うことが多いです.

ということで,欠点を補うためにも,Abstract(要旨)を導入してみようと思いつきました.今後,各エントリーの文章の最初に,短くAbstractの項目を太字で入れます.ここに書くことが,自分の言いたかった最も核心的部分だと思っていただければ幸いです.時間がないときは,このAbstractを読めば,だいたい何が書いてあるのか分かるようにもなります.

****

ところできっかけですが...

科学論文の構成は概ね,

Abstratct
Introduction
Methods
Results
Discussion
References

の項目から成ります.

Abstractは,その論文が報告する発見の核心が記述されており,ここを読むだけで,その論文がどのようなことに対し,どのようなアプローチで,どのような発見があったかを,正確に把握することができます.Abstractは,Web上で無料で閲覧できるのが基本だし,ここだけ読む場合も多いので,よって研究者はabstractの記述には細心の注意を払います.Introductionには,その研究のこれまでの概要・背景などについて,それを専門としない人にもなるべく分かるように記述します.Methodsは,どのような方法によってその研究を行ったかを,resultsには得られた結果に関する詳細事項を記述し,discussionには結果から導き出される解釈や推論などを記述します.そして最後のreferencesには,この研究を進めるにあたって参考にした過去の学術論文の引用リストを示します.これによって,研究の客観的正当性および信頼性を最大限に読者の研究者に提示することが可能となります.昔は,なんでこのような項目に分ける決まりがあるのか,と疑問に思ったこともありますが,今ではとても納得しています.

ということで,ブログにもこれを参考に,肝心要のabstractを導入してみようと思いました.どのような雰囲気になるか分かりません.とりあえず次のエントリーからAbstractを書いてみます.軽い内容ほど,真面目に要約しているabstractはけっこう笑えるかもしれません.そういう楽しみもあるかも...

 

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  1. 反省会
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死への恐れ,憧れ(4) :: 2008/11/18(Tue)

死への恐れ,憧れ(3)からの続きです.)

死には二種類あります.自然な死と故意による死,とでも言いましょうか.自然な死は,自然に訪れる死であり,病気や衰弱や事故などによって訪れる死.ほとんどの人は自然な死を迎えるでしょう.一方故意の死.これは人為的な死であり,人の意図が作用するもの.これは紛れもなく,殺人行為と自殺行為です.

人が人を殺そうと思うとき,殺すという行為と殺すのを思いとどまるという行為以外に,代替案はあまりなさそうな気がします.現実の生活に絶望して,子供を殺して自分も死のうと思ったなどという親が最近よく報道されます.本人にとって他の選択肢は果たしてあるでしょうか.それから最近増えている無差別殺人魔.むしゃくしゃして誰でもいいから殺そうと思ったという類の事件.しかし不思議なことに,例えば無差別殴打魔(突然,通りの人間を殴りながら歩く人)というのは聞いたことありません.自暴自棄なら,殺すんじゃなくてかたっぱしから殴ってもいいはずなのに,代替案としてそういう可能性はないのでしょう.だから,死たらしめる行為はやはり完全な目的となりうる究極的行為であり,それ以外の行為とは一線を画すものだと感じます.それ以外の行為とは別物なんです.殺人とは全く違いますが,自己に対する殺意,つまり自殺も見過ごすことができません.日本は自殺率の高い国で,ロシアなど一部のスラブ系の国を除けば,圧倒的な自殺大国です.

私はここに死というものに対する憧れの存在を感じます.具体的な根拠や目算が本当はないにもかかわらず,現実に進行している苦悩に満ちた「生」と比較して,はるかに死もしくは死をもたらす行為に対しプラスのイメージを持ち,それを実現させたいと思うこと,それによって充足感を得られるだろうという感覚.死を日常から遠ざけて,死について考える機会がほとんどなくなると,死は極端な憧れになるのではないだろうかと思うわけです.これは,明確な恨みに基づく殺意や,金品を強奪するための手段としての殺人とは,全く意味が異なることに注意する必要があります.このようなタイプの死に対するイメージは現代日本に特有ではないかと感じます.

自殺と他殺以外のもうひとつの死.それは法により正当化された死,つまり死刑です.重大犯罪に対する死刑は,日本において世論は圧倒的に支持しているようで,世界的な死刑廃止の潮流とは合致していません.この重大犯罪に対する死刑およびその支持は,死に対する大いなる恐怖が作用しているのではないかと私は推測します.死は自然に還ったり成仏したりする事ではなく,もはや恐怖のイメージでしょう.だから死刑も,もちろんとんでもない恐怖であるでしょう,いや現代ではそうでなければ極刑の意味を成さない.しかし,とんでもない恐怖だからこそ,簡単には発動できない,だから重大犯罪のみに適用することで誰も反論しないのです.死刑をちゃんと存続させるなら,重大犯罪にのみ死刑というのは少しおかしい,とは感じないでしょうか.例えば,人を2人殺して無期懲役,3人殺したから死刑,なんてことは本当はおかしいんですよ.どうして2人と3人の間にこれほどまでに大きな飛躍があるのか.時より人を殺したらみんな死刑でいいじゃないか,という意見の人がいますが,その方が論は通っているかもしれません.しかし,もし「人を殺したらすべて死刑」を適用してみましょう.そうするとたくさんの死刑判決が出てくるでしょう.どんどんと法のもとに死刑執行されます.これはさすがに「恐ろしい」と多くの人が思うんじゃないでしょうか.それはおそらく死が大きな恐怖の概念であり,取り返しのつかない重大なものなのであり,そこまで日常には近づけたくはない,遠ざけておきたいと思うのです.

過去の日本における死刑はもっと当たり前にありました.ただ,科学が世界を説明する前の時代では,死は必ず何らかの信仰の中にあります.私の考えでは,過去の人は現代ほど死を忌み嫌ってなかったし,もっと身近にあっただろうと思います.それは自然な死もそうだし,死罪のような刑罰に対してもそうです.江戸時代なら,過失致死でもあっけなく死罪ですが,死が信仰とともに日常の中にあれば,それは底なしの恐怖とまではならない.現代であっても,イスラム世界ではたくさんの死刑が執行されているし,公開されたりもします.理屈が明らかに異常な死刑もありますが,民衆は受け入れます.また例えばサウジアラビアの死刑執行人は聖職です.コーランには人の死は予め正確に決められているとあるように,死は遠ざけるどころか現実の生の中に決定事項であり予定的に存在しています.

死を遠ざけた立役者は科学であることは間違いないでしょう.科学は難病の原因を暴き,治療法を確立し,人の健康に貢献します.また,死という生命の機能停止の状態に対して,具体的で客観的な説明を可能にしました.当然,死後の世界も否定します.これは日本だけの話ではなく,科学技術の上に成り立っている先進国なら科学がもたらす意味はどこも同じはずです.しかし決定的に違うのは,例えば西洋人は今でも「神の愛を...神の祝福を...」と日常から意識する人がいるのに対し,日本人はそれに対応する思想を,おそらく高度経済成長の時期にほぼなくしていることです.科学技術とは共存できずに...

最初の記事で紹介したイギリス人夫婦,日々の生の中でいつ死が訪れるかわからないという意識があるため,毎朝互いの気持ちを確認し合い,愛していると言う...日本人は価値観の変遷の中で,それに相当する日本的な何かを創造することに失敗してしまった,そういう気がしています.その結果が,死というものの無機質で冷たい概念を生み,忌み嫌われ,故になるべく考えないようにし,しかしどうしても認識するときは極端なイメージに化ける,これが現代日本人の死に対する感覚ではないでしょうか.

 

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 自然・科学・思想
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御祭騒ぎ (the carnival) :: 2008/11/15(Sat)

祭礼の「祭」は本来は「祀」.この言葉のニュアンスは,現代では極めて理解が難しい.日本人にとって,私たち生きている人間以外の万物自然は神霊であり,私たちは生きている間,神霊と何らかの接触を持ちたいという欲求を持ちます.なぜかというと,願であったり,感謝であったり,鎮であったり,戒であったり,そういう私たち自身から生まれる欲求を神とともに存在させることで,一種の心の平安を得られるからです.私たちは力をあわせて,大きなエネルギーを使ってそれを行おうとしました.それが神を祀ることであり,祭りというひとつの儀式の目的でしょう.

現代で祭りと呼ばれるものはもはや祀りではありません.札幌では「YOSAKOIソーラン祭り」というのが夏に開かれますが,神様はどこにもいません.札幌雪祭りもそう.私は福岡の出身で,福岡にもいろんな祭りがありました.博多祇園山笠は,櫛田神社の氏子たちが行う奉納行事ですが,祭りの際,そんなことを考えている人はあまりいません.箱崎宮放生会という祭り.これは「捕獲した魚や鳥獣を野に放し殺生を戒める」という意味の神事です.しかし,改めてそんなことを考えている人はいなくて,圧倒的な出店の数に心ときめかせながら,ひとときの祭りの喧騒を楽しむのです.私もそのひとりでした.

そう,日本における祭りは,今日では「祀り」ではなく,「お祭り騒ぎ」になった.festivalからcarnivalに変わったのです.

私たち現代の日本人は,自然に神霊が宿ることを実感として感じていないでしょう.あるとして,それは実感ではなく願望や憧れや知識です.どうして祀りが成立できるでしょうか.私たちは,共同体の中でこのような共通の価値観を持つことはもうありません.だから,祭りは不可能です.頑固に祭りを貫こうとすると,地域住民から「付き合えない」と反感をもたれるでしょう.「うちの子は塾に行っているので,みこしをかつぐことは無理です.」と.もしくは精神が伴わない形式的な祭りに成り下がります.一方,お祭り騒ぎならいいんです.主催者は資金をうまいこと調達し,実行力さえあれば可能.塾帰りの子もお祭り騒ぎになら塾帰りに参加して,楽しめます.

お祭り騒ぎは,自由です.各々が好きに楽しめばいい.責任とマナーを携えていれば.

私も放生会に行くことが楽しかった.林檎飴やくじ引き,梅が枝餅にお化け屋敷...小銭を握りしめ,非日常の喧騒の中で楽しんだ.そして出店のおじさんも優しかった.くじ引きで全部はずれだったら,当たるまでやらんね,と真顔で言ってまた引かせてくれた.そういう心の通い合いが確かにあった.しかしそれは私たちがはるか過去に知ることのなかった,変化,自由,予想が裏切られる期待.お祭り騒ぎは決して何度も繰り返してきた祭事としての祀りではないこと.


   放生を行い此の世代を祝おうと言う
   こんな折になんともまあお誂え向き
   こよなく愉しいよ
   今日はなんだか違うの
   少しも恐くない
   実際の祭に魅了され

   綿菓子
   水笛
   見知らぬ 他人の汗
   桃色雛や 見世物小屋の嘘
   全てが初めて
   今日がもう来ないことを
   知ったのも初めて
   林檎飴が赤い

                 「御祭騒ぎ(the carnival)」より
                  (詞:椎名林檎)

 

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杏仁豆腐 :: 2008/11/12(Wed)

杏仁豆腐が好きです.しかし,好きになるほどに,あの店のよりこっちの店のほうが,いやあっちの店のほうが...となって行って...気付くと,自分で作ってみることになります.そして,多少の試行錯誤の末,自分的には美味しい思える杏仁豆腐を作ることに成功しましたので,書き残します.キーワードは,分量の比と低脂肪乳.あくまで私の好みですのが...

材料(4人分):
杏仁霜(きょうにんそう)・・・16 g(おおさじ2)
砂糖・・・・10 g(おおさじ1)
粉寒天・・・1.5 g(←これは正確に!)
牛乳じゃなくて低脂肪乳・・・400 cc

手順:
・きょうにんそう,砂糖,粉寒天,低脂肪乳を鍋に入れ,よく撹拌する.
・よく撹拌しながら,中火にかけ,沸騰したらすぐに火を止める.
・適当な器に流し入れ,冷ます.
・冷めて固まりかけたら,冷蔵庫に入れる.

・食べる1時間前に,乾燥クコの実を水に浸し,もどす.
・杏仁豆腐の上に飾ってできあがり♪


 


杏仁霜は,杏(あんず)の種子から油分のみを取り出し,残ったものを粉末にしたものです.この杏仁霜の匂い,ほとんど麻薬です.弱い依存性があるんじゃないかな.匂いをかぐと,クラッとくる...笑

ポイントは,私は低脂肪乳だと思いました.日本の牛乳は,「牛乳の味」がけっこうしますから,これが入ると杏仁の香りを邪魔するように感じるのです.ミルク寒天・杏仁風味,みたいな.笑 よって低脂肪乳(加工乳)のほうがさっぱりしていて杏仁の香りがよく残る気がします.あと,ふわふわの豆腐の食感を出すには寒天の量を一般のレシピ本より少なくすることをお勧めします.まあ,でも正直なところ,作るのはむちゃくちゃ簡単ですので,砂糖・杏仁霜・寒天の量を少しずつ変えたりして,自分の好みの杏仁豆腐を作るのも楽しいと思います.杏仁霜は,大きなスーパーなどでは中華食材コーナーにあると思いますし,もしくはネット通販で!とにかく直感的は作るのは大変そうに感じるかもしれませんが,実際は本当に簡単です.杏仁霜さえ手に入れれば!

 

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  1. 食/ワイン
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