日本について考えるブログ




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Larose de Gruaud 2004(ラベル買い) :: 2010/08/30(Mon)

この暑い時期に,ボルドーの赤を買ってしまう自分も自分だが,こんな展開でも飲んで後悔したことはない....実は,最近はいまひとつの白ばかりで,重たい赤が無性にのみたくなった.



所用を済ませた後ワインショップに寄ると,すぐにLaroseの文字と共にアーティスティックなエチケットが目に飛び込んできた.ジャケ買いならぬラベル買いである.

Larose de Gruaud, つまりあのシャトー・グリュオ・ラローズ,のセカンドかと思ったが,下の説明に「これはセカンドではありません!」と書かれてあった.笑 家に帰って調べてみると,確かにシャトー・グリュオ・ラローズのセカンドラベルは「サルジェ・ド・グリュオ・ラローズ」と言う名であった.しかし,インポータの方の話を引用して,サルジェ・ド・グリュオ・ラローズと僕が買ったラローズ・ド・グリュオは同じものだと紹介しているサイトもある.うーん,謎...あのエノテカのホームページにもそう書かれているから,やっぱりセカンドと同一の中身なのか!?

ま,そういうことに拘っても空しいので(もちろん,生産者サイドには何らかの意図があるのだと思うが...),これ以上の深追いは止めることにする.

飲んだ感想.グラスに注いでしばらくは閉じた感じだったが,次第に香りが立ちあがり,やや控えめながら複雑な果実味,酸,そしてどっしりとした土の匂い...さらに時間が経過するほどに,そこに「旨み」が乗ってくる.控えめな分,時間が経つとそれが優雅さに変わってくる.うーん,これは美味しくて止まらない.二日目もグー.ハーフボトルで1500円くらい.

今回は,生ハムのサラダ,野菜スープ,バゲット,チーズなどと共にこのワインをいただいた.チーズはオールド・アムステルダム.長期熟成を経たゴーダ・チーズ.こちらもオススメです.

****

ところで,夏と言えば,トマト.で,北海道ではトマトに砂糖をかけて食べる習慣がある...とは言え,レストランや居酒屋などでそうして提供されることはない.しかし今でも家庭ではトマトに砂糖をかけて食べる習慣が残っている.





完熟のトマトに砂糖をかけるのはなかなかの贅沢だ.実に美味しい.はじめは驚いたのだが,はまると抜け出せない.おやつはトマトの砂糖がけで決まり!

北海道にはすずらん印の砂糖がある.正式には「日本甜菜製糖株式会社」.十勝に行くと製糖工場を見ることができるが,なんとも圧巻だ.北海道は甘いものが好きな人が多い.赤飯にも甘納豆を入れる.これ常識...とまあ,興味がある方は試されてみると面白いと思います.

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全会一致は幻想ではない :: 2010/08/28(Sat)

日本人が意見を言えずに寡黙であるのは,他者との間に信頼関係が希薄だからかもしれない.

前に,日本の過去の農村における「村社会」について,ちょっと悪く書きすぎた.そこで,僕が知識として知っている村の素晴らしい点も書いてみる.それは,例えば村の寄合における「全会一致」だ.

過去の村では,何かを話し合って決まりごとを作ったり,問題を解決するためには,寄合と呼ばれる話し合いの場が設けられ,そこで議論を行ったとされる.この寄合は,たいていお寺のような多くの人が収容できる場所で行われ,基本的に村人全員が参加し,そして全会一致を基本とする.納得がいかない村人がひとりでもいれば,延々と話し合いは続いた.民俗学者・宮本常一氏の記述によると,時には昼夜を問わず延々と3日間話し合うこともあったという.そして,どんなに面倒で難しい議題であっても,だいたい3日もあれば全会一致にたどりついたと言われている.時に真っ向から意見が割れている時は,延々と互いに説得合戦が続くそうである.現代日本人がよく口にする「もうこれ以上話し合っても無駄だ.私は出席しない」なんて「わがまま」を言う人は一人もいなかったようだ.もおちろん,何も考えずに同意することもなかっただろう.

話し合いが下手だったから3日もかかったのだろうか?それとも,本当に誰一人不満をかかえず,一致した見解を得るためにこれだけの時間をかけたのだろうか...僕はもちろん後者だったのだろうと思う.

自分の意見をはっきり言わない日本人.現代においてそんな日本人が,過去には延々数日間も話し合いをしていたというのはなかなか凄いことである.なぜこんな話し合いが可能だったかと考えると,これは「村」という社会の中で互いはとても親密で,強固な信頼関係があったからだろうと僕は推測する.

現代日本人も実は意見を言うことはある.それはもちろん気心が知れた本当に親しい仲間との間でである.学級委員を決めるクラスの話し合いで意見を言うのは日本人にとっては大変なことだ.きっと静まり返って,何人か候補を出して,投票で決めるなんてことになるだろう.しかしこれが本当に気心の知れた部活の仲間との間でならそんなことはない.来年の新入生勧誘のビラをどんなデザインにするか話し合うことは苦痛ではないはず.むしろ,いろんなアイデアを次々に出し合える.来年の部長を決める話し合いだって,いくつかの意見の末にすんなりと決まったりするものだ.

話し合いに花が咲き意見が出し合えるかどうかは,実は話し合う内容ではなく,話し合いに参加している相手が誰なのか,ここに依存している.これが日本人の特徴だ.気心がしれていれば日本人は意外によくしゃべるし意見も言うものである.

本当は家族は一番気心が知れた仲間であっていい.もし親や兄弟姉妹と一緒に暮らし育ったのなら,そのような家族の中の環境は自然と互いの考え方や価値観を共通化するに足るだけの影響力を持つ.だから「分かり合える」はずなのだ.ところが現代ではそうでもない.もはや家族は同じ村の村人ではなくなっているのである.

そんな親子が揉めたとしよう.どうやって話し合いができようか.すごく安直な内容で申し訳ないが,例えば帰りが毎日深夜の娘を心配して,もっと早く帰ってきなさい,と親が言うのは全く「寄合」ではない.これは命令である.寄り合いというのは,まず互いの意見を出し,互いを説得し合う.そういうことを延々とやらなければならない.果たしてそんなことができるだろうか?

というのも,過去の村の寄り合いは,現代と違って,村人の常識は共通なのだ.一番心の根っこの場所では価値観を共有しているのである.だから,お上からのおふれが村に下りてきて,「今回のこのおふれ無視してみませんか?」と寄り合いで意見する村人はいない.

深夜に帰ってくる娘は,「帰りが遅くなるのは確かにいいことじゃない,親にも心配をかけることになるし」と思っていたら,これは寄り合いが成功する可能性がある.しかしもし,「は?意味わかんない.別に心配してもらうことなんてないし」と思っていたら...これは江戸時代であれば,お上のおふれに反抗したり,村のご神木を切ろうという発言に値する.過去の村の寄り合いを想定するなら,この状況で話し合いは絶望的だ.


ここから話し合いをスターとさせるにはいくつかの能力が必要だと僕は考えている.まず,「自分にない価値観を理解しようと努力し,かつその価値観を尊重する能力」,それと「自分の意見を容易に捨てない能力」だ.さらには,「意見を解体し別の角度から光を当てることができる能力」,そして最終的な「他者を説得する能力」である.3と4はおそらく非常に難易度が高い.しかし1と2は誰でも本来なら可能ではないだろうか.この1と2は他者への敬意と自身への責任である.これがしっかりとあれば,人間は信頼関係を構築できる.信頼関係があれば,日本人だって意見を言えるのだ.

こうやって可能になるかもしれない現代の「寄り合い」は,紛れもなく民主主義の世界の「話し合い」なのである.個人が自由に発想し,考え,信じ,生きていくこの社会では,必ずしも互いが共通の価値観を持っていない.だから,歩み寄り信頼関係を築くためには,それ相応の力量が要求されるということになる.そして,その能力を獲得すれば,日本人は昼夜を問わず3日も話し合いに明け暮れることができた民族なのだから,おそらく有意義な話し合いができるだろう.社会が次のステージへ,今溜めこまれているストレスを逃がすためにも必要なことだと思う.

関連記事:多数決の危険
    :村社会の亡霊

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旅立っていくお年寄りたち :: 2010/08/26(Thu)

多くの高齢のお年寄りたちが,実は所在不明だったというニュース.この行政と現実との独特のズレは,すごく日本的だと感じてしまう.

お盆に「帰国」というテレビドラマをやっていた.戦死した英霊たちが現代の日本に帰ってきて,一見平和になったかに見える日本の様々な現状を憂う何ともやりきれないドラマだったが,その中に登場した石坂浩二演じる息子.病院で入院しっぱなしだった母の死を事務的に済ませてしまおうとする仕事一筋の息子.頭の半分では母のことを気にはしていたと思うが,もう半分では,母はとてもわずらわしい存在になっていたに違いない.

これは全く特別なことじゃないだろう.僕の祖母が逝った時にも,心理的には類似の感覚が家族の中にあった.ドラマとは程度の違いだけである.

祖母は祖父が旅立ってから急に体調を崩し,何度か入退院を繰り返すうちにだんだんと歩くのもままならなくなった.子供たち(三人の子供のうちの一人が僕の母)の勧めもあり,やがて老人介護施設に入って余生を過ごすことになる.しばらくは元気だった祖母も,次第に体が動かなくなり,一人では車椅子に移ることもできなくなり,とうとう寝たきりになり....そして最後は痴呆気味になってしまった.

こうなっていく過程で,もちろん何度と無く娘夫婦・息子夫婦は子供も連れ立って母に会いに行った.正月やお盆には祖母の家に連れて帰り,親戚が集まって共に穏やかで楽しい時間を過ごしたりしたが,寝たきりになってからはそれも困難になった.次第に,何のために施設に通っているのか分からなくなっていく.僕の実家は施設まで電車で30分くらいなのだが,叔父夫婦と独身の叔母は他県に住んでいて,祖母に会いにくるのはもっと大変だ.だから時に僕の両親に負担がかかる.施設側も祖母の体調が悪かったり,何か些細な問題があると両親のもとに連絡をしてくるし,その度に気を揉む.介護施設の人の深層心理にはこうある.本来なら家族が面倒を見るべき仕事なのだ,と.それがふとした瞬間に伝わってくるのだ.また,空き家状態の祖母の家もたまに掃除や荒れ放題の庭の剪定をしなくてはいけない.田舎故の近所の目もあるし,荒れ放題の庭が蚊の発生源になるわけにはいかないのである.これも家族がやるべきことなのだ.どうしてこんな大変な目に,という感覚が強まっていく.何かを恨んだりとかそういうことは全く無い.ただ,苦労をどれだけしても報われない最悪の状況なのである.誰も喜んでいないし,感謝もしていない.

そんな祖母が息を引き取って,行われた葬儀は祖母の子供たち夫婦と孫何人かだけの密葬だ.祖母は元気な頃は華道と茶道の先生だった.どうも多くのお弟子さんやお仲間がいて,いろんな人が訪ねてきていた家だった.しかし介護施設に入った後,それらの繋がり・コミュニティは完全に断線し,修復されることはなかった.どんなコミュニティも介護施設の祖母を包み込むまでの包容力を持ってはいなかった.そして,もっと悲しいことに,どんなささやかなコミュニティも介護施設の中では生まれなかったように見える...多くのお年寄りは,前向きに施設での暮らしを捉えていないように僕には見えた.こうするより仕方ない,そういう選択肢なのだ.

すごく短絡的な結論を出すなら,問題は「核家族化」に違いない.誰かが家を継ぎ,そこの主となって「家」がつながっていけば,「家」を取り巻く種々のコミュニティは保たれ続けるし,祖母がもし体調を悪くしても常に側に誰かがいるだろう.そもそも,そうやって家の中に明かりがともり人の会話が響き続けていれば,最悪の寝たきり状態,やる気も気力も無くした萎れた老人になど人はならないのじゃないだろうか,などと考えてしまったりする...

しかし核家族化を防止するのは不可能だろう.なぜなら,現代日本社会が西洋民主主義を導入し,個人が自由に生きることを前提とした社会の枠組みができて,それを多くの国民は「是」としているからである.だから子供は巣立っていく.それだけではない.血筋を縦につないで家を守っていくスタイルは支配階級だった士族のシステムだというのもある.前にも書いたが,日本人の血の80%以上は農民の血であり,彼らは武家とはまるで違う社会システムを構築していた.そこにはいわゆる「家」というスタイルは無い.家というものに縛られることを嫌い自由に振舞いたいという気質の人はけっこういるし,「家」というものからの束縛感やストレスを感じる人は日本人には多いはずである.農村には「家」とは違った,血筋とは無関係に互いに支えあう人々のコミュニティがあった.言うなれば巨大なひとつのファミリーである.

そこで,この記事なのだ.
http://dictionary.goo.ne.jp/study/newsword/wednesday/20100824-01.html

加藤祐子さんのこのコラムは僕は毎週欠かさずに読んでいるのだが,今回はとりわけ共感した.海外メディアの意見はあまりに的を得ているように思えてならないのである.第三者というのは当事者のことを事細かには分からないかもしれない.しかし局所じゃなく全体を客観的に眺めることができるものなのだ.

そう,問題は「家族」にあると僕も身をもって感じてきた.私たちは家族という記号に縛られて,その記号の持つ常識に耐えられなくなっている.しかも社会の仕組みとも合致していない.特に子育てとお年寄りの問題は顕著で,その歪みの中で悲しい事件が起きているように思う.私たちは,常識という束縛から完全にストレスフリーになった状態から,もう一度改めて家族の顔をしっかり見つめなくてはいけないのではないだろうか.そんな気持ちで僕は家族と手を取り合いたいのだ.

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2010年・晩夏 :: 2010/08/24(Tue)

今年の札幌は暑い.例年だともうススキの穂が開き,コスモスが咲き,朝晩はひんやりする日もある八月後半だが,今年はまだ日中は30度前後,朝も25度前後,の日が続いている.

九州生まれの自分としては,これくらいの温度で暑い暑いと騒ぐはずではないのだが,どうも札幌の街中での暮らしは事情が違う.その主な原因のひとつは,家の断熱性が高くてクーラーがないことにある.北海道の家は冬の寒さを考慮して比較的高い断熱性が確保されているため,夏に暑くなり,屋内が充分に暑くなってしまうと,その暑さが家からなかなか出て行かない.夜中も部屋の壁から赤外線が出ているようである.涙 そんな感じで,今年はちょっと夏ばて気味だ.

****

気温はまだまだ盛夏の札幌だが,確実に秋の足音は近づいている.札幌では8月14日あたりから赤とんぼが里に降りてきた.実はちゃんとコスモスも咲いているし,スーパーにはもう秋刀魚がたくさん並んでいる.すすきの穂も郊外ではもう開いていた.





アキアカネとノシメトンボ(後).この時期の札幌を代表する赤とんぼ.





この時期,枝の先はみんなこんな状態...





こちらはミヤマアカネ.このトンボは翅に帯状の模様がって,その中の白い斑紋がなかなか印象的だ.このような翅の模様をした赤とんぼは他にいないので,ミヤマアカネだけは迷うことがない.しかしこの独特の翅の雰囲気は写真になかなか写らない.今回は地面に腹ばいになり逆光で撮った.少しだけミヤマアカネらしさが出ただろうか...ミヤマアカネの翅は,透明だと思っている場所(特に前縁)にも淡い赤色が乗っているのが分かる.

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種の間の壁はあるや無しや :: 2010/08/18(Wed)

種が隔てられているのはその瞬間だけで,時間の流れの中では皆つながっているのだろうか.

僕はエゾトンボの仲間の種の区別がなかなかつかない.



こちらは,時より散歩する札幌近郊の公園でよく見かけるエゾトンボの仲間.止まっているトンボを見て,彼がコエゾトンボなのかタカネトンボなのかカラカネトンボなのかモリトンボなのか,僕は全く分からないのだ(maleだということは分かります.笑).もちろん専門書やとても詳しい人に話を聞けば,一応理解できる.でも,ちゃんと記憶して分類するのはとても難しい.それくらいわずかな違いしかない.

僕はあまり「分類」という言葉は好きではない.でも生物種間に「違い」は確かにあるし,それを明確にするために分類という作業はある.そして何より,僕にはコエゾかタカネか分からなくても,本人たちは非常によく分かっている,それが「違う」ことの何よりの証拠である.トンボ達からすれば,ニホンザルも人間も同じに見えているかもしれないが,僕らには人間と猿の違いというものははっきり分かる.エゾトンボ達も同様に,お互いの種の違いをよく分かっている.

種,というものは,人間が定義したかに見えて,いや実はしっかりとそこに存在している.チンパンジーと人間は違う.なぜそう言えるかというと,人間とチンパンジーの中間である生き物が全くいないからである.それはただの偶然だろうか? いや,そうではない.もしネアンデルタール人やジャワ原人が,現代にも生きていたとしよう...それでもやはり,ネアンデルタール人と人間(ホモ・サピエンス)との中間の種はいないことに違いはないのだ.種と種の間を満たしている存在がいない.生物は連続じゃなく離散なのである.

チャールズ・ダーウィンはやはり偉大な人物だと思う.生き物が世代を重ねてゆっくりと,環境と調和しながら変化していき,現在の多様な生物種が地球に生まれた,そのようなことが生物の教科書には必ず書かれてあるだろう.生命は最初おそらく一種類もしくは数種のわずかな存在だけだったが,それらが様々な環境を経験しながら次第に姿かたちを変え,様々な種に分化し,現在に至っている,と.

この生物の進化のイメージに対して,科学の立場から文句をつける人は現代にはほぼいない.しかし,よくよく考えていると,人間は誰も生物の大きな進化の現場を見たことがない.科学の基本は観察すること.そしてその観察した内容を科学の言葉で説明することだ.もし観察から新たな仮説を立てたなら,それが正しいことを立証しなければならないし,そのために実験を行わなくてはならない.そういう意味では,ほとんどの科学者がこの進化のイメージを信じているのは,驚くべきことかもしれない.例えるなら,長大な映画フィルムの最後のある「ひとコマ」だけを見せられて,その映画のストーリー全体を予想しているようなもので,そのストーリーを多くの人は信じている状況だ.マクロな進化論はいまだに「仮説」なのである.

僕達はそのひとコマの中だけで生きている.その中では,僕達はクマゼミがアブラゼミに変化しないことを知っている.茄子がトマトになったりはしないし,トノサマガエルだってアマガエルには決して変化したりしない.しかし,それは僕らのたかだか百年弱の人生の中の話だからだと言うのか.もし何千万年,いや数億年もの時間があれば,クマゼミはアブラゼミに変わるようなこともあって,そしてその時間の流れの中ではアブラゼミとクマゼミの中間の姿のセミは果たして存在するというのだろうか?

もしゆっくりと変化しながらそれら中間の生き物が存在するのなら,お互いに時を越えて出会うことはできなくても,時間に寄り添って生命の種は離散ではなく連続だ.コエゾトンボもタカネトンボもモリトンボも,結果的に生まれることになるかもしれない未来の何かあるトンボに向けて,今目に見えないほどゆっくりとした速度で変化している最中なのかもしれない.

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村社会の亡霊 :: 2010/08/08(Sun)

少し前まで多忙を極め,日常でどんなニュースが報じられているのか全く気にする余裕がなかったのだが,ようやく落ち着いてここ1週間はのんびり過ごすことができた.と,ずいぶんと嫌な事件ばかりじゃないか.

子供への虐待とか,産んだ子を殺してしまう若い母親が最近ニュースに上ることが実に多い.こういう事件を知るたびに,社会が包容力をなくしているなぁ,と思うと同時に,その身勝手さの根底には何があるのか考えてしまう.「人と人の心の絆」なんて言葉は日本人が大好きな言葉なのだが,形骸化も甚だしい.地方によってはまだ豊かな人間関係はしっかりと存在し,人が自然体で所属できるようなコミュニティはあると思うが,一方で,そういうものが無い場所にはもう全く無いのだろう.

それにしても,「おい父親,お前はこの状況をどう思ってんだ!?」と聞きたいのは僕だけか!?


****

コミュニティというのは,自身と他者が関わり合うこと無しには成立しない.これが減っているというのは,他者と関わりあうことが面倒であったりつまらないとか,そういうこと自体がもう無理という感覚だろう.これらが社会の中で増えているのだと思う.

JPOPによく「言葉が無くても通じ合える」「言葉は要らない」のような歌詞が登場するが,こういう感覚はおそらく日本では一般に肯定され,美しいと感じる人も多いように思う...(そういえば,「J-POPの歌詞における「何か」の探され率は異常」という2chのスレッドがあるので,暇な方はどうぞ.ツボにはまると笑が止まりません... コチラ→ http://404nots.blog88.fc2.com/blog-entry-1039.html


話が脱線した.

で,言葉が無くても通じ合える,というのは普通ありえないだろう,と僕は思うのだ.それは読心術を持った人同士か,そうでなかったらはじめから同じ考えを持つ人同士か,どちらかである.

僕はどうしても現代日本人というものを考えるときに,過去の農村における村的な共同体社会をイメージして物事を考えてしまう.江戸時代の士農工商のうち約80%強が農民だ.10%が支配階級である武士,残りが工商人.すごく乱暴な言い方をすると,私たち日本人の血の80%が農民の血なのだ.

この農民が暮らしていた村社会は,やはり現代の言葉で語るならとても特殊である.村社会の特徴を少しまとめてみると,

(1)支配階級である士族に従属する依存性
(2)自然信仰に基づいた人間は無力であるという思想,自身を常に矮小であると認識させる信仰
(3)村間の人的交流が制限されたコミュニティの閉鎖性
(4)ほぼ同一の思想を共有した共同体を継続するための様々な掟や通過儀礼,そしてその結果生まれる洗脳

「矮小」「閉鎖」「洗脳」「従属」などよくない言葉が並んでしまったが,僕は別に村社会を批判したいのではない.ただ残念ながら,民主主義社会のポジションから眺めると,どうしてもこのような言葉が適当だと思ってし舞わざるをえない.そしてこれらの言葉は,現代日本社会を考える際のキーワードとなる.

現代日本は制度上民主主義国家となり,一人一人が自由に考え発想して生きていける社会の枠組みは獲得した.しかしそのような社会のあり方がいかに村社会と相容れないものか,上の特徴と比較したら分かるだろう.しかも歴史を考えると,農民が苦しみの末に革命を起こして現代の社会制度を勝ち取った,わけでもないのだ.つまり民主主義社会なんだという自覚は希薄なはずである.

現代では,共通の価値観を持つために過去の村社会を模倣したコミュニティを形成しても意味がない.なぜならもはや過去の村を形成するにはあまりに思想の一致性が不完全すぎるし,それを教育する場もないし,社会制度だって当然全く合致しない.それでも人々は「同じ」であることをいまだに求めている.同じであって初めて自分が肯定され受け入れられ,安心するのだ.だから非常に問題がこじれている.

もし,誰も自分の気持ちを分かってくれない,誰も理解者がいない,自分と同じ考えの人がいない,と感じているとても孤独な現代日本人がいたとしよう.そういう人が村人気質を強く持っていたなら,例えばこうなる....

理解者と出会うためにどう道を切り開こうかとか,どう伝えようかと考えるより,妥協してどこに従属すべきか考える(1).自分は何もできない駄目人間だと思う(2).自分と全く違う価値観の人から何か学ぼうとか,その中に何か希望はないかと探すより,自分の考えを強く正当化し,自分を信じる唯一の自分だけを拠り所とする頑固さが出てくる(3).そして唯一の村構成員である「自分」の中だけで掟を作り,選択肢を減らし,その掟にしたがって一人納得して行動を開始する.これでいいんだ,と.

この状況で,生物が本来的に持っているだろう攻撃性や逃避行動などと結びつくと,最近よく報道されるとても悲しい犯罪となって表出するのじゃないだろうか...

以上,一般にはあまり語られない角度から考察してみたが,これを回避するには私たちが現代の社会制度に合致した思想の持ち主へと変化し順応して行く,これが最善の方法がないのではないかと思う.とすると,まだ時間がかかるだろう.


・・・ちょっと村について悪く書きすぎた.僕の知識の範囲内での村の美しき世界について,そのうち書こうと思います.

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働き過ぎ,さぼり過ぎ,休み過ぎ :: 2010/08/04(Wed)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100803-00000107-jij-pol

観光庁は3日、大型連休を地域ごとにずらして設定する「休暇分散化」構想について、インターネットを活用した意識調査結果を公表した。分散化のメリットについて「特にない」と回答した人が68%を占め、同構想に対する国民の期待感が高まっていない実態が浮き彫りとなった。同庁は「厳しい結果だが、今後も制度を理解してもらえるよう周知活動に努めたい」としている。

****

日本人は働き過ぎだと常々思っている.

しかし一方で,日本人はさぼりすぎじゃないか,と思うこともある.

そして,大型連休やお盆の帰省ラッシュを見ていて思う.日本人はやっぱり働きかもと...


日本の平均的なサラリーマン.おそらく残業と無縁ですという職場環境はあまりないだろう.通りの不動産ショップや広告代理店,携帯電話ショップの電気が遅くまでついてるのをよくみかける.東京なら23時ごろでも多くのオフィスビルに電気が灯っていることだろう.

僕は研究関係の仕事だが,やはり深夜まで多くの人が仕事をしている.そして自分も含め土日も研究室にやってくる人は多い.妻は住宅関係の仕事なのだが,帰りが深夜になることはざらだ.お客さん相手の仕事だということもあるが,種々の理由で効率がよくない状況もあり,またクレーム対応になるとほとんど徹夜のような状況になることもあったり...

しかし一方,どうも日本人はさぼってばかりだなぁとも思っている...「さぼる」という言葉は日本ではとっても身近な言葉だろう.

僕の知人は過去いた職場のことをこう話してくれた.午前中は誰も仕事なんてしてなくて,机に突っ伏して寝ている人さえいるんだよ,と...そして午後になって徐々に動き出して結局夕方にしわ寄せが来て,でまた深夜まで残業して,そして「ああ,忙しい忙しい」と言う,と...

ずいぶん前の事だが,霞ヶ関から日中にウィキペディアのガンダムの編集が熱心に行われている,なんてニュースがあって,確か問題になっていたような覚えがあるが,でも僕は「え!?嘘でしょ?」なんて全然思わない.そんなもんだろうなぁ,と...そしてもっとびっくりな裏仕事を(例えばネットゲームとか)やっている人もいるかもしれない.

僕はそういうこと別にちょっとくらいやっても問題ないと思っているけど,しかし延々やってる人がいそうで,それが心配だ...そちら側に逃避してるような人がいそうだな,と思う.


そんなくそまじめなのか,効率悪すぎるのか,さぼりが多すぎるのかよく分からない典型的な日本人労働者が,大手を振って休める休日がGWやお盆や正月,なのである.

しかし,僕に言わせればそこでも彼らはあるタスクを課されているように感じる.それは必殺の「帰省」である.

嫌々帰省している人はそんなにいないと思うが,ニュースや新聞に写される帰省ラッシュの風景やインタビューから人々の様子を観察する限り,あれは全くリフレッシュした(もしくはしようとする)顔ではない.そういう顔が意外に多い.帰省は一種の義務なのであろう.親が帰ってこいと言うし,もちろん帰らなければならない.もちろん帰りたくないとは思っていなくても,帰らずに過ごそうという選択肢がない場合の顔はリフレッシュした顔ではないのじゃないかな.

楽しんでいそうなのは,おじちゃんおばあちゃんに会いに行く子どもたちだけだ.それはいいんだけど...

自分の意思で,何かをしよう,帰省しようとか旅行に行こうとか,孫に会いに行こうとか,そういうことをしっかり思いつき,計画して行動しない限り,本当の意味でのホリデイは無いのだと思う.で,それは制度の問題じゃなく人間側の問題だから,休暇を分散してどうなることでもない.確かに飛行機の満席率が分散するかもしれないが,トータルで結局同じになってしまうかもしれないし.


日本のカレンダーはそもそも休日が多すぎる.だから僕はむしろ休日は減らしてもいいと思っている.でその代わりに,自分たちでしっかり計画して休暇をとるのがいい.これってなかなか大変なことだと思うが,それが常識になってきたら,日本人も周囲の目を気にせず,思った事を言ったり意思を持って行動する習慣が生まれてくるのではないだろうか,などと思ったりする.そしてそれをしっかりとサポートできる,形だけじゃない枠組みが職場に生まれてくると思う.

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