日本について考えるブログ




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100万回生きたねこ :: 2011/04/30(Sat)

『100万回生きたねこ』は1977年に出版された佐野洋子作の絵本.

このブログのコメント欄で薦められ,もう一度じっくり読みたくなった.有名な絵本なので実は私も子供の頃に読んだことがある.ストーリーがあまりに鮮烈だったと記憶している.でも当時はまだ未熟だったため,それ以上の感想はなかった...今は手元になかったのだが,古本屋で入手することができた.

ちなみに,以下に完全なストーリーが掲載されているのでリンクすることにする.短い話なので3分もあれば読み終えることができると思う.
ただ,絵も素敵なので,実物の方がやはりいいです.

http://ww5.tiki.ne.jp/~momotti/kage/hn100.htm


で,大人になった今の感想なのだが,「重たい話だと思う」なんてしょうもない言葉しか出てこない.それ以上の言葉が見当たらない.

でもそれではつまらないので,少しだけ,まとまりのない内容だけど書いてみたい.

一般には,トラ猫が主役であり,最後に自由を手に入れ,誰かを愛することの意味を知る話,などと言われているようだ.一種のハッピーエンドだ.しかし僕は変わり者なんだろう,全くそのように感じない.いや,そういう解釈も間違いじゃないし,含まれているのだろうと思うのだが,ただの一要素のような気がする.

今僕は,最後に登場する白い猫は幸せや愛を感じられなかったんじゃないか,と不安だ.トラ猫は白い猫が死んではじめて悲しみのあまりに泣くのだが,そのシーンがあまりに前半の人間たちの泣くシーンにかぶってしまう.王様や女の子や手品使いたちも,みな本当にトラ猫のことを愛していたんです.だから大声で泣いた.でもトラ猫はそんな飼い主たちを嫌いだった.白い猫はトラ猫のことをどう思っていたかは全く語られない.

実は今回もう買ってから何十回と読んでいる.いろんなことを考えてしまう.本当にいろんなことだ.日々経験しているシーンが無数にこのストーリーの中に見え隠れしている.人間社会の様々な要素が内包されているのだろう.でも,そういうひとつひとつを並べていっても,この絵本の核心に近づいていく気がしない.上に書いた白い猫に関する僕の不安もただの一要素.だから,今のところ全くこれ以上書くことができなかった.

この混沌とした感触はとて東洋的だ.絶対的な愛が語られているようで,実は語られていないような気もする,そういうのも東洋的だ.輪廻転生的な世界観も東洋的だ.これ本は,キリスト教圏の人には理解しずらいし興味が湧きにくい内容かもしれない.

でも,とても晴らしい作品だと思う.子供も大人も関係なく多くの人に読んでもらいたい.
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テーマ:絵本・制作・イラスト - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 何かの紹介等
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おつとめ品 :: 2011/04/23(Sat)

スーパーマーケットに行くと,消費期限が迫った野菜などがとても安く売られていたりする.僕が時々行く大手スーパーでは「おつとめ品コーナー」のようなワゴンがあり,そこにかなり値引かれた野菜がたくさん置かれている.元気がなくなって,色が多少悪くなっていたりするが,とにかく驚くほど安くなっている.例えば一束198円のアスパラガスが,60円とかで売られていたりするのだ.198円のハーブは,たいていこのワゴンに載ると20円になる!おつとめ品のハーブを買う人は本当にいないということだろうか.

「おつとめ」の意味を調べてみたら,漢字では「お勤め」と書くことが分かった.関西発祥の言葉で,客に奉仕する商品,つまり安さは客に奉仕している意味になるようである.

でも現代のお勤め品は客に奉仕しているようには見えない.消費期限が迫ってこのまま置いておいても売れ残って捨てるだけなので,それならたとえ60円でも誰かに買ってもらったほうがいいし,原価を少しでも回収できる,という感じを受ける.同じく「見切り品」という言葉もあるが,こっちの方がイメージに合っている.一方,見切り品目当ての客もいるだろうから,ある程度見切り品が出てしまうような仕入れ方をしているのかもしれないけれど...そこはよく分からない.

ある人がこう言っていた.おつとめ品は絶対に買わない.そんな惨めな生活は嫌だ,と.

ということは,僕は惨めな生活を送っていることになる.

僕はおつとめ品は嫌いではない.はっきり言って,美味しい野菜は古くなってもそこそこ美味しい.美味しくない野菜は新しくても美味しくない.これ,僕が得た経験則である.多くの客が新鮮さに価値を見出しているようだけど,例によって僕は少し違う.

ふんわりと巻いた重量が軽いレタスは美味しい.これは仮に売れ残ってお勤め品になっていたとしても,買って冷蔵庫に1週間以上入れておいたとしても,美味しい.新鮮な,でも重たくて硬いレタスよりはずっと美味しいのだ.じゃがいももお勤め品オーケーだ.牛肉も一向に問題ない.ステーキ肉なんかは,むしろ旨みが増すという話もあるくらい.

しかし何より,そうやって見かけは古くて美味しくなさそうでも,実際食べると問題なく食べられるどころか,美味しかったりもするのに,これらは間もなく捨てられるのだと思うと,どうしても胸が締め付けられるような思いになる.そしておつとめ品ワゴンを物色するという人からは「惨め」と思われるような行動をとってしまうのだ(←おつとめ品の中でも美味しく食べられそうなものを識別する作業が,物色しているように見えるはず).

しかし,そうやって買ってきたおつとめ品で惨めな料理は作らない.最高に華やかにしてみせる,といつも思っている.前にも,古くなったおつとめ品のバジルの大袋があったので,それを買って帰り,ポルチーニのトマトクリームソースに大量投入して,イタリア出張帰りの同僚が買ってきてくれた茹で時間の短い薄いタリアテッレ(日本ではなかなか売られていない)に合わせて食べた.とてもとても美味しかった.

お勤め品を買うと気分が何だか晴れやかになる.誰かが損をしたり,何かを犠牲にしてたりしていないと感じるからだろうか...

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手本とは? :: 2011/04/17(Sun)

お手本に心ときめかなくては.

僕は,学校の授業の書道の時間が嫌いだった.というのは,僕がきっと筆で字を書くということが大好きだったからだろう.

今の時代,生まれて最初に手にする筆記具はやはり鉛筆やボールペンであって,毛筆ではない.自分もそうだった.だから,初めて硯で墨を磨り,筆に墨を含ませて半紙に字を書こうと筆を下した瞬間のあの自由,そして自由故の不安感が忘れられない.何をどう描くも自分の手に全てがかかっている.いや,手だけじゃない.腕,いや体全体が筆を動かすために必要とされているように感じた.しかしどうしたらいいのか分からない.案の定,とんでもなく下手な字になった.

それでも毛筆にはまってしまった自分は,習字セットを家でも開いて字を書いていた覚えがある.好きな字を,好きなように書くことが楽しかった.自分の気持ち次第で,字の表情が変わるのが面白かった.鉛筆で書いてもこんなに表情は変わらない.

そんな具合だったから,小学校の習字の時間の「お手本」というものは,ただの参考程度に思っていた.「青空」という毛筆のお手本は,いろんな人が青空をそこそこ上手く書けるためのガイドラインとして,標準的な上手さで書かれてあるもの.これを参考にしつつ,自分の好きなように青空と書けばいい,と勘違いしていたのである.

ところがどうも,そうじゃなかった.まず,あのお手本は,お手本どおりに真似して描くべきものだということに気づかされた.なぜなら,先生が「朱墨」なるもので,お手本に近くなるように字を修正するのである.人が書いた字をその上からオレンジの墨で修正するという行為に衝撃を受けて,それでもう書道の時間は嫌いになった.僕は今でも朱墨を見ると気分が悪くなる.こういうのをトラウマというのだろうか.

手本とは何だろうかと考えてしまう.手本はとても整っていて標準的だ.誰からも下手な字だとは見えないように書かれている.だから,下手な字を書きたくなければ真似をすればいいのだろうか? 僕はそうではないと今でも思っている.真似をするとむしろ下手な字になるように感じるのである.同じように真似して書こうとするよりも,整って見えるポイントはどこなんだろうか,と考える方がいい.そしてそのポイントを念頭にあとの場所は好きに書く,その方が達成感がある(ただし,一般的にはこっちの方が下手な字だと見なされるかもしれないけども...).だから,やっぱり僕にとって手本はガイドライン.参考にするべきものであって,それ以上でも以下でもない.

自分は日本では相当の変わり者だった.しかしそれは今だから分かっていること.当時はどうしてこんなに自分は理解されないのだろうと不信に思っていた.

僕は何かを表現したりすることが好きだった.このタイプの人間は日本の教育現場では本当に苦痛...を超えて心底辛いんじゃないだろうか,とそう思う.自分がそう感じていたように...何かを創作するということにあまりに日本の教育現場は理解がなさすぎる,ように思う.

僕の場合,幸運にも(幸運なんて言っていいのか分からないが...)科学も大好きだった.自由に表現することはたいてい嫌われたが,科学的なことに対する突飛な行為は否定されなかった.夏休みの宿題でルリタテハという蝶を卵から成虫にまで育てて日記をつける,なんてことは常識からはずれた行為だと思うのだが,こういうことはひとまず受けていた.

今,僕の手本はユーチューブである.そう,クラシックギターを本格的にやりはじめた今,上手い方の演奏を動画で手軽に見ることができるのは感動的だ.少し前まではこんなことは不可能だっただろうから,まさに今この体験は奇跡的なのだ.しかし手本にするとは言え書道のお手本みたいに整った演奏ばかりじゃなく,とっても個性的でかっこいい演奏とか型破りな演奏とか動画の中には何でもある.こういうものは真似するなといわれても,ちょっと真似てみたくなったりするものだ.

ああ,なるほど,学校の書道の時間のあの「青空」というお手本に僕は興味をひかれなかったのだ.まねしたくならなかった,ということかもしれない.

今の学校の習字の時間.どんな感じなのか僕は分からないが,同じ字で複数種類のかなりイメージが異なるお手本を用意するというのはどうだろうか.自分がときめくタイプのお手本がその中にあれば,きっと楽しく真似できる,かも!?そして真似しながら上達も見込めるってものだ.

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貴腐ワインとブルーチーズ :: 2011/04/09(Sat)

日本でワインと言えば,赤が白より格上というイメージができあがっている.確かにメインディッシュのお肉にはやっぱり赤ワイン.値段も赤の方が比較的高い傾向にある.(価格は市場が決定するので,わたしたちが赤のほうにお金を払う価値を見出しているという証拠でもある.)

ワインにそれほど深入りしていない人ならば,たいて男性は赤の方が好きと言う傾向があり,そして女性は白が好きという傾向にある,と思う.あくまで傾向であって必ずではないのだけど,僕はそう感じる.

ちなみに僕は...やっぱり赤の方が好みだ.しかし,赤のほうが白よりも一般的に美味しいものだ,などとは全く思っていない.白でも赤でも,とても美味しいワインに出会ったら,もしくはそのワインを最高に引き立てる料理を知ってしまったら,本当に感動するもの.

ところで,ワインは赤と白だけではない.例えばロゼワインというものもある.プロヴァンスの辛口ロゼなんか,夏の昼下がりにトマトの冷製パスタとあわせたら昇天ものだ(具体的なのは経験談).それからスパークリング,そしてシャンパーニュ.泡はまた別の機会に.

さて,しかしまだ登場していないカテゴリーのワインがあった.

それは....貴く腐った葡萄が生むワイン.


「貴腐」


そう,貴腐ワインである.

貴腐ワインというのは,白ワイン用葡萄の果皮が,ある種の真菌(カビ)におかされてしまったものを原料にして創られたワインのことを指す.カビの影響で糖度が飛躍的に上昇し,かつカビのメタボリズムによって,葡萄だけでは得られない複雑な芳香を放つ物質が溶け込んでいる.

とろみがあり飴色に輝く貴腐ワイン,その香りと甘さに一度触れてしまったら,しばらく思考できないくらい神経細胞がワインにくびったけ状態になる.


今回の貴腐ワインはこちら.





ボルドー・カディヤック地区の貴腐ワイン.Chateau Cousteau (2005).圧倒的な花・花・花の香り.口に含めば控えめな苦みとほのかな酸が,猛烈な甘さの後に見え隠れする.

貴腐ワインはデザートと合わせたりするが,実は食事とデザートの間に供されることが多いチーズの中に,マリアージュの真打が存在する.そう,それはブルーチーズだ.今回この貴腐ワインをフルム・ダンベールの青カビチーズと合わせた.この世のものと思えないくらい美味しい.自身が持ち合わせていないものが全て相手の中にある.そして引き立てあう.

ちなみに,これも僕の個人的感想だが,青カビチーズは赤ワインとはあわせにくい.貴腐だと概ね間違いがないけど,白も悪くない.特に残糖のある白.これらの出会いに比べると,赤とブルーチーズはとても難しい.しかし,このチーズを買ったデパートの地下のチーズ屋さんは,赤と合いますよ,と言っていた.うーん,本当にそうだろうか...


結論.ワインに上も下もない.出会いを見つけた喜びと,その出会いが生み出す美味しさ,複雑さを感じることで世界はいくらでも拡張していく.そういう飲みものだ.

テーマ:ワイン - ジャンル:グルメ

  1. 食/ワイン
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原発事故と囚人のジレンマ :: 2011/04/03(Sun)

僕が常々問題だと感じることは,この日本社会において,異なる思想や主義を持つ集団同士が互いに意義ある言葉を交わすことの少なさだ.まあ人間社会というもの,どの国にだってそういう側面はあると思うのだが,しかし日本社会におけるその種のグループ間の断絶は,国を動かす人たちの間や大きなお金が動く場所,そして巨大な問題やリスクが関わる場所にもたくさんあるように思う.

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110328/219175/?P=1

これは日系ビジネスオンラインに掲載されている記事であるが,僕は深く共感したのでリンクすることにした.(ただし,最後まで読むにはアカウントを作成しなくてはいけません(無料です).)

(以下,引用)

「原子力を巡って2つの共同体ができている。原子力技術利用に賛成する人の集団と反対する人の集団だ。それぞれに科学者が含まれ、ジャーナリストが配置され、メディアがある。こうした構図が囚人のジレンマを放置してきた。原子力技術利用史においてジャーナリズムがなすべきだった仕事、それは「囚人のジレンマ構造」が「基本財としての安全安心」を損ないかねないリスクの増加を招いていることに気づいて、原子力を巡る2つの共同体の価値観を調停することだった。ジャーナリズムが基本財としての安全安心の実現に資するとしたら、まさにそうした方法を通じてだろう。」

(引用ここまで)

実は僕はこの囚人のジレンマモデルを用いて,この原発問題の記事と似た内容をジェンダーの問題に関して書いたことがある.

http://erisabeth.blog123.fc2.com/blog-entry-108.html

厳密にはこれらを囚人のジレンマと言ってもよいものなのか難しいところだが,しかしこのジレンマを「各個人がそれぞれ利益だと信じるものを得るための行動を起こす場合に生じる,集団が合理的に利益を得ることができなくなる可能性」というような広範囲の枠で捉えるなら,囚人のジレンマだったと言ってもいいかもしれない.

日経ビジネスの記事を書く方の中にもこのような内容を発信する人がいたのかと思うと心強く思える.ただし,やはり日経においてはやや異端だったらしく,この記事には大量のコメントがついている.賛否があり,こちらも一読の価値がある.こういう様々な意見から日本社会の現状が少しだけ透けて見えるように思える.

この記事を書かれた武田徹氏が原発賛成なのか反対なのか分からない.しかし,一般にこれを読めば,賛成派だと思われることだろう.なぜなら,反対であれば議論の余地無く原発はあってはならないもの,なのだ...この方はあくまで原発事故は防げたかもしれない,という立ち位置で書かれているように思えるから推進派かもしれない.(実際は分かりません.)しかし僕は原発に反対の立場ではあるが,この記事に共感した.それは,相容れないふたつの考え方が混在する状況にあって,最大の利益(お金のことではありません)を社会にもたらすための方法についての共感である.

自分が書いたジェンダー問題のエントリーにはジャーナリズムは登場しない.ひとりひとりが,誰も得していないんじゃないかと自ら気づいて手を取り合おうという方向になることが大切だと僕は思って書いた.一方,今回の日経の記事では,そういう囚人のジレンマ的な集団の不利益の連鎖にいち早く気づくことこそ,ジャーナリズムの役割ではないかとそう言っている.

やはりこの記事は,このような場に掲載される記事の中においては異彩を放っているように感じた.

意見を持つことはとても大切なことだが,さらに大切なことが次に待ち構えているのだ.それは,それぞれの異なる意見を交換して対話し,意義のある化学反応を起こすことである.そしてそれらを,(その事柄に対して)意見を持っていなかった人たちの目に触れる環境とすることである.そうすることで,民意はより成熟していくのではないだろうか.

テーマ:政治・経済・時事問題 - ジャンル:政治・経済

  1. 社会
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