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日本語の変化か、ただの誤用か :: 2011/09/21(Wed)

言葉は時代とともに変化していくものだろう。卑弥呼の時代の日本語と、現代の日本語では相当に違う。人々の価値観や考え方の変化と共に、また他言語からの影響を受けながら、言葉はゆっくりと変化している。


「ら抜き」言葉が、最近また話題になっていた。

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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110915-00000613-san-soci

(前略)

 言葉の使用を聞く項目では、「食べられない」と正しく使用しているのは全体では60・2%だったが、16~19歳は58・8%が「食べれない」と間違って使用していた。「来られますか」(正)と「来れますか」(誤)についても、50代以上は正しく使えている割合が上回ったが、40代でほぼ同数、30代以下では誤った使用が上回り、16~19歳では73・8%が間違った使用をしていた。

(中略)

 言葉の意味の調査では、「姑息(こそく)」の本来の意味の「一時しのぎ」と答えたのは15・0%にとどまり、7割が間違った意味の「卑怯(ひきょう)な」としていた。「雨模様」の意味でも16~19歳の62・5%、60歳以上の53・3%が「雨が降りそうな様子」と正しく答えたが30~50代の半数以上が本来と違う意味で回答した。

(引用ここまで)

****

「ら抜き言葉」はもうほとんど定着していると感じる。意識していないと、相手がらぬき言葉を使っても、たいして違和感を覚えない。文法なんてものは物理法則のように絶対的なものじゃないので、人が変われば変わってしまうし、例外はいくらでも生まれるものだ。

さてしかし、大問題なのはニュース記事の後者の方だ。らを抜いたとしても、意味が通じればコミュニケーションに問題はない。しかし同じ言葉が逆の意味になったり、まるで意味が変わったりすることが現代ではよくあって、互いに違う意味で捉えていたら健全な会話が成り立たなくなる可能性がある。ニュースに出ていたものも含めて、ざっと書いてみる。。。



・雨模様
雨が降りそうな様、雨が降りそうなきざしを意味する。雨が降っている状態のことではない。しかし、この言葉は厄介だ。漢語で「模様」に「兆し」という意味はないはずで、これは過去の日本人が斬新なニュアンスを加えて加工したせいだろうか。「今日は朝からあいにくの雨模様」などと言われたら、雰囲気としてはもう降っている感じがしてしまうものであるから、非常に難しい。

・姑息
卑怯やずるいという意味は全くない。その場しのぎのニュアンスの言葉だ。「姑息なやつだ」と言ったら、「その場しのぎが上手いやつ」という意味になるだろうか。いやそもそも姑息は人にではなく、行為にかかるべきもので、「姑息な手段」とは言っても「姑息な人」とは言わないのかも。「姑息な人」と言う場合、既に卑怯の意味で使っている気がする。それにしても、まったく卑怯という意味ではない言葉が勝手にそのような意味に転じるというのは本当に悲しい。ずるい人(卑怯だと感じる状況)が多いということじゃないだろうか。それともその場しのぎをする人に卑怯な人が多いのか?「卑怯」というのはけっこう過激な言葉なので、社会は別のマイルドな、でも卑怯と同じ意味合いの言葉を欲しているのか!?

・気が置けない
気遣いする必要のない親しい間柄の意味だが、これを真逆の意味で捉えている人がいる。しかし、直感的にこの言葉は確かにマイナスの雰囲気がする。否定の「ない」が入っているからだ。言語学者に怒られるかもしれないが、成り立ちとしていい言葉じゃないように感じる。それと、やはり「姑息」と同じで、悪い意味に勝手に転じているのが気になる。信用できない人がそんなに多いのか。。。

・いそいそ
これは、心が浮き立ち喜ぶ様、動作がはずむ様子を表す言葉。いそいそと出かける、は嬉しそうに出かけていく様子を言うのだが、これを「忙しそうに」「せわしなく」と誤解している人がいる。「いそ」を「忙しい」とかけたのだろうか。これもネガティブな意味としての誤用だ。そんなに嬉しいことが少ないのか、そしてせわしないことばかりなのか。。。ま、確かに。涙

・さわり
「どんな話なの?さわりを聞かせてよ」などと使うが、これを導入部分とか、ちょっとだけ、軽く、と誤用されている。「歌のさわり」というと、出だしのことだと思われているが、本当は「最も盛り上がる部分」「重要ポイント」のことを指す。だから意味を正しく理解している人が上の質問に答えたら、「要するに犯人はAで、救いようのない悪人だったってことが最後にばれるんだよ」などと、これ以上ないネタばれが起きる可能性がある。(笑)「さわり」が「触る」、つまり「ちょっと触れる」のようなイメージになっているのだろうか。しかし、そんな中途半端なことはやめて、中身の濃い話をしたいものだ。最初だけちょっと聞いても面白くないだろう。歌は出だしもいいけど、やっぱりサビ、でしょう!?

・すべからく
「タバコをすったやつはすべからく退学だ!」と生活指導の体育教師が言ったとして、その意味は「タバコを吸ったやつは全員退学だ」の意味ではない。すべからくは「すべて」の「すべ」とかぶっているので、そのように誤解されるようだ。本当の意味は「当然そうであるべき、必然的にそうなる」という意味。だから「喫煙した者は当然退学処分だぞ」という意味が正しい。前にネットで「政治家はすべからく馬鹿だ」と書いていた人がいた。言いたいことは分かるけどこれは誤用。そもそも、「すべからく」は「べし(べき)」とセットで使うのが本来の用法。なので「政治家はすべからく(当然)馬鹿であるべきだ」というべきで、そうすれば間違いだと気づくことができる。

・しおどき(潮時)
これを引き際の意味として使う人がいる。もうあきらめましょう、という時、「しおどきだな」などと使うのだが、これも間違い。本当の意味は、最適なタイミング、もっともよい時期、という意味が正しい。そういう意味では、いろいろな状況を加味して、今あきらめるのがベストのタイミングなら、「しおどき」を使ってもいいのかもしれないのだけど、なんて冷静な後ろ向きの姿勢。(笑)もしくは、まだやろうと思えばやれるんだけど、まここいらでやめとくのが波風立たなくて無難でいい、という感じで使うこともある気がする。いや、そういう状況をベストのタイミングと皆思っているってことか!?いずれにせよ、これもネガティブな意味への誤用。

・役不足
正しくは、本人の力量に対して、仕事の内容が簡単すぎる、役割が軽すぎる、という意味。しかしこれを、「力不足」と同じ意味で使う人が多いようだ。つまり本当の意味の逆で、「役割に対して力量が足りない」という意味への勘違い。これもやはり、ネガティブな方向への誤用じゃないだろうか。なんで「役」が、自分の力の意味に変化してしまうんだろうか。。。

・情けは人の為ならず
これも誤用の言い回しとして有名だ。「人に親切にするのは、その人の為ではなく、そういう行為が巡り巡って自分に返ってくるから、親切にするのだ」という意味。利他主義というものは社会ではなかなか存在できないのであるから、これはとてもクールで現実主義的なことわざだと言える。しかしながら、これを「人に親切にしても、その人のためにはならないから、親切にすべきでない」というような意味で勘違いされているらしい。これも残念ながらとってもネガティブな意味への誤用だ。理由はともあれ、正しい意味では人に親切にすることを肯定しているのだけど、誤用ではそれを否定し、親切にしないほうがいいと言っている。


このようにまとめてみると、ネガティブな方向への誤用がかなり目立つ。ポジティブな方向への誤用はほとんど見当たらない。現代日本の世相を映しているのかもしれない。だとするととても残念である。
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素敵な組み合わせ :: 2011/09/19(Mon)

これまでに見つけた、素敵な食べ物同士の組み合わせ、もしくはお酒と料理の組み合わせ。忘れないように書き残すことにした。思い出したり、新たに見つけたら随時追加予定。(ここには、一般によく知られている組み合わせは書かないつもり。)


・白桃 and コリアンダー

缶詰ではなく、生の桃。そしてこちらも乾燥ものではなく生のコリアンダー(別名:パクチー、もしくは香菜)。この組み合わせは至高。天に昇る気持ちになれる、と言ったら言い過ぎか。コリアンダーは日本の食材、とくにかつお節や昆布などをベースとした料理と全く相性が合わない。嫌っている人も多いようだが、世界的に見るとむしろその地位は高いことに注意する必要がある。その秘めたるポテンシャルは相当のものである。

・青カビチーズ and 貴腐ワイン

お互いはお互いに出会うために存在していたのでは、と思うくらい完璧な相性だ。自分にないものが、全て相手の中にある。口の中で、何一つ矛盾なく噛みあって、溶けていく。。。

・春菊 and 生ハム

これは、何かのレシピで見た組み合わせだが、やってみるまでは予想がつかなかった。こんなにも素晴らしい相性だとは。両者をオリーブオイルで軽く絡めて食べてもいい。また、この組み合わせには柚子胡椒も素晴らしいパートナーとなる。ビネガーと柚子胡椒で和えるとこれまた至高。

・カタラーナ and ジントニック

これはよく行くバーで出会った。クレーマ・カタラーナは凍ったものが少し溶けた状態。甘さ控えめのカタラーナとドライなジントニックがなかなかいかした組み合わせ。

・牡蠣(焼き牡蠣) and トマトピューレ

これはイタリアンレストランで出会った。牡蠣は大きなものが殻つきのままオーブンで軽く焼かれており、そこにトマトピューレが添えられていた。牡蠣の風味とトマトの風味がこれほど合うものとは知らなかった。応用は極めて難しいと感じたが、何か創作できるかも。

・焼き鳥(タレ) and そこそこのブルゴーニュワイン(ルージュ)

そこそこというのは、漠然と5000円くらいまで、を想定しているのだけど、数多あるワインを値段で区切ることは馬鹿げているので、そこは置いておくとして。。。で、要するに、複雑で神経質なブルゴーニュの赤を美味しく飲むために、頑張って料理をしても裏切られることは既に何度も経験済み。下手に高級ステーキ肉なんか買ってきても、たいていワインから拒絶される。拒絶されるとどうなるかというと、ただの酸っぱいワインにしか感じなくなる。そこで、デパ地下などで売られている焼き鳥をタレで購入することをオススメする。保険として。フランスのピノは一般に味が濃くて(しょっぱいという意味ではない)複雑な料理を要求してくるので、焼き鳥のタレは合っているのだ。あと、太巻き寿司なんかもオススメ。大きくは外れないはず。

・柿 and ヨーグルト

柿はちょっと生臭い感じがして嫌いな人もいる。ヨーグルトも乳製品だけにやっぱりちょっとクセがあって。。。ところが不思議なことに、両者を一緒に食べると臭みがきれいにとれて、なんだかとっても相性がいい。巷にはブルーベリーやアロエやら、いろんなヨーグルト系デザートが売られているが、なんで柿ヨーグルトがないのだろうか。商品としてのイメージの問題か、それとも長時間混ぜておくとよろしくないとか。。。

(時々更新していく予定)

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やらせという営み :: 2011/09/04(Sun)

問題の本質は、やらせという行為の方ではないと僕は思う。私たちがひとりひとり考えて言葉を公に発するということに対して前向きでない、という日本人の気質こそが問題ではないだろうか。誰も意見しない状況で物事を大きく動かす時、意見を持つ者がやらせという手法を使う。


九州電力のやらせメール問題。北海道電力でも最近噂となっているが。。。。

詳細はこちら。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E9%9B%BB%E5%8A%9B%E3%82%84%E3%82%89%E3%81%9B%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

原発事故という国家的一大事の最中だけに、きわめて由々しき問題として報道された。しかしながら「やらせ」というもの自体、日本ではとりわけ珍しいことでもなんでもない。

重要な事項は会議ではない場所で既に決まっていている、なんてこと、サラリーマンなら感じている人は多いだろう。議論しているように見えて、実際は決定事項の全体承認を得るためだけの場なのである。株主総会もしかり。

やらせの定義は難しい。「やらせ」は、事前に作為的に何らかの状況や事象を作り出し、それをさも自然とそうなったと見せかけるような行為をさすのだろうか。多くの人が「わざとやっている」と分かっている場合は「やらせ」とは言わないのか、多くの人がだまされている場合こそが「やらせ」なのか、ここはグレーゾーンで難しい。多くの場合、だまされている人もいるかもしれないけど、うすうす気づいている、もしくはありえることと承知している人もいるだろう。

僕が大学院の博士課程に在籍していた頃、こんなことがあった。海外から著名な研究者を招いて、研究室内でセミナーが開催された。そもそも日本の学生は(僕も例外ではなかったが)、あまり積極的に発言しない。しかもセミナーの言語は英語。多くの学生がいるにも関わらず、セミナーの後の質疑応答(ディスカッション)の時間に沈黙が産まれることは容易に予想できた。そんな時、教授はセミナーが始まる前に博士課程の学生全員を呼び出し、「君たちはひとりひとつ以上質問をしなさい。絶対必須です。私は何も質問しませんから、いいですね!」と、ずばり「仕込み」を行ったのである。といっても質問内容は自分で考えて英語で質問しなくてはいけないのだから、教育的仕込みでもある。学生側も、本当はいろいろ質問して活気のある議論の場になることが素晴らしいと頭では分かっているので、教授のこの一種の命令は、そんな頭の中にある理想を実現するための強力な触媒となった。

結果、セミナーの後の議論の時間には多くの質問が出た。しかも、1個質問すると気持ちがリラックスするので、次々に質問できてしまうのだ。活発な議論の時間が長く続き、この手の典型的なセミナーとしては異例の活気ある時間となった。話を聞くだけではよく分からなかった様々な苦労話や裏事情なども質問によって明らかになった。なるほどと思うことも多かった。これこそが「有意義な時間」というものだ。

しかし、よくよく考えてみると、やはり一種の「やらせ」なのである。もちろん質問内容まで規定されているわけではないが、質問するように明確に指示されて質問したわけである。その指示がなかったら、誰も一線を超えることができず静まり返っていたかもしれないのだ。海外のその方は、そんな指示があったとはよもや想像できなかっただろう。だからだまされたのである。しかしこの「やらせ」はやらない方がよかったとは思えない。マイナスの要素が見当たらない。

やらせとは、事前に作為的に何らかの状況や事象を作り出し、それをさも自然とそうなったと見せかけるような行為をさす。

このセミナーの例ならば、活気ある議論の場を作為的に作り出したことになる。しかし、活気ある議論は存在すべきだし、それこそが正しいセミナーの姿だと誰もが同意しているから、問題ない。しかも議論の内容まで作られているのではないから、その点は健全である。

一方、今回の原発やらせメール事件はどうだろうか。原発再始動を望む声はけっこうある、ということを作為的に作り出そうとしたのだろう。もし、原発再始動を望む声はけっこうあるはずだ、と誰もが思っているなら、全く問題になることはない。しかし、全くそうではないから大問題だったのだ。ただ、こんなニュアンスを考慮するとどうだろう。つまり、再始動してほしいという考えの社員に対して、上層部が躊躇せずにそのように書けと促した側面はなかったのだろうか。社員だって一市民なのだ。僕は現場を知らないので、これ以上踏み込むことはできないのだが、なんとも微妙だ。


問題の本質は、やらせという行為の方ではないと僕は思う。私たちがひとりひとり考えて言葉を公に発するということに対して前向きでない、という日本人の気質こそが問題である。ひとりひとりが言葉を発することが当たり前になれば、セミナー前に教授が質問するようにと指示する必要などない。九州電力関係社員は自ら再始動が必要であることの論を構築し意見するはずだし、そもそも一般市民が原発再始動に反対の意見を各々積極的に投書すれば、電力会社関連社員の意見の数は誤差程度になってしまうかもしれないのだ。

私たちはじっと動かず眺めているのだ。そして、物事を思い通りの方向へ動かす時、やらせというやり方に依存しているのである。物事が思い通りの方向に動かない時、それを阻止するために、やらせを見つけて批判するという方法に依存している。いずれも、ひとりひとり考えてそもそもの問題に対する意見を公に発しなくても済む方法だ。日本人の気質が変わらなければ、この状況は変わりえないだろうと感じる。

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