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死への恐れ,憧れ(2) :: 2008/10/25(Sat)

死への恐れ,憧れ(1)からの続きです.)

死は常に私たちの隣にいます.決して避けることのできない出来事です.であるにも関わらず,現代日本人は概ね,死について思い考えることはありません.これは誰かの死を悲しむこととは全く違います.

しかし,日本人は昔から死について考えなかったかというと,決してそうではないと思います.そこで,古来から日本において存在した自然崇拝の中での死生観について,理解の範囲で少し書きたいと思います.

日本人の信仰は,自然崇拝が基本です.万物に霊は宿ります.動物,植物,石,川,雷,山...これらの存在に対して,そこに何らかの霊的な感覚を日本人は覚えていたでしょう.いや,今も感じる人はいるのではないでしょうか.これはいわゆる「やおよろず(八百万)の神」と言われる感覚です.神道というと,ちょっと違ったイメージが現代では付きまといますが,根底にはこの世界観があると思います.

万物が霊的であるなら,生きている人間もそこに含まれるでしょうか.いいえ,含まれません.生きている人間は,信仰の対象である自然からはみ出した存在だと私たちは考えたからです.

日本人にとっての世界のすべては「自然」というものです.自然は,「あるがまま」の自然(じねん)の意味.ここには,生きている人間とその行為以外の全てのもの・概念を含みます.例えば「動物は自分が生きるのに必要なだけの獲物しか捕らえない」とかそういうことも「自然」であるということです.これに比べると,人間は「自然」に少々背いているのは明白でしょう.古来の村人もそういう考え方を持っていました.あるがままでは生きられていない,余計なことをたくさん考え,厄介なことを人間はしでかすのです.木を切り倒して開墾したり,そこに種を蒔き,ちゃんと作物が育つように芽吹くと間引いたりするのです.これは「あるがまま」ではないのです.

村人は,自然に包まれそのつながりの中で暮らしていました.自分たちが生きていくために必要な恵みは,すべて自然が提供してくれます.人が生きるということは,自然に包まれて始めて可能となると考えるのです.だから日本人はおおいに自然に頼ったし,自然がもし牙をむけばなす術はないと恐れもしたし,自然の無限の恵みに対して,深い感謝の念も持っていました.

そんな世界観の中で生きた私たちにとって,死を迎えること,それは自然に帰ることです.私たちは自然の中に包まれて生きているのですから,存在できる場所は自然以外には考えられなかったでしょう.故人は,生きている者をとり囲んでいる自然に同化し,霊的に存在し続けます.ですから,時にご先祖様は村の守り神として共同体と共にいつまでもそこにいます.

日本の自然信仰においては,死は得体の知れないものではなく,普通に自分たちの周りに存在する,土や光や水や緑や,そういう自然の中に同化していくということなのです.だから,死は自分たちが考えている感覚の内側にあったはずです.自然信仰は,生まれてくる子供たちにもしっかりと受け継がれていきます.子供は成長の過程で多くの通過儀礼や祭りを経験し,立派に成人し,そのときにはこの自然と人間の関わりについて完全に理解し実感します.そして死は,そにに確実に存在していただろうと思います.

つづき → 死への恐れ,憧れ(3)

関連記事:霊的世界

 
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えりざべすさん、お久しぶりです。

よく、山に行ったり滝や湖などを見たりすると“癒される”といいますが、これも霊的なものに触れて心があらわれたりしているのかもしれませんね。自分の感覚をもっと信じれば、人工的な物に囲まれている現代人でもそういう事ももっと感じられるのかもしれませんね~。
自然をもっと身近に感じられたら、自然の大きな時間を感じられたら、もっと違う生き方が出来るかもしれません。
  1. 2008/10/27(Mon) 00:14:37 |
  2. URL |
  3. ナナ #UxP3.ydY
  4. [ 編集 ]

えりざべすさん こんにちは!
このシリーズ、興味深く閲覧しております。
”自然は,「あるがまま」の自然(じねん)の意味”
この部分に惹きつけられるものを感じました。

年間3万人を超える自殺者がいるこの国の人間たちは、やはり経済発展と引き換えに何かを放棄してしまったように思えます。

死について考えること、それは同時に
生きることを考えることにつながると
理解しました。

亡き親父が、闘病していた頃、当初は死にたくないと厳しい治療に挑んでおりましたが、死の恐怖を乗り越え、受け止めてからは、もう少し生きたかったと伝えてきたことが、今でも記憶に残っています。
今では、自らにもその時がきたときには、感謝の念を持ちながら、逝けたら
幸せであると思っています。
そんな人生を歩めるよう努力しなくてはいけませんね。

  1. 2008/10/27(Mon) 12:49:03 |
  2. URL |
  3. JIJI #Fe5eWWgA
  4. [ 編集 ]

ナナさん
お久しぶりです.コメントありがとうございます♪

昔の村の暮らしは,本当に自然に包まれていたと思いますが,今は,仮に都会から遠く離れた農村であっても,自然に完全に包まれる感覚はありえないでしょうね.ですから,私たちは今の時代を自分たちの意志で生きているのであり,自然とのつながりの中で生きていると感じることはほとんどないと思います.しかし,過去の記憶は何かの形で私たちの中に住み続けていて,それが癒し・霊的な感覚を求めさせ,今で言う所の自然と呼ばれる環境へ私たちを誘惑するのでしょうか...もしそのような場所に足を運んだら,古の人々が感じた厳粛なものを自然から感じ,生きていく日々を豊かにできるような「何か」に昇華させたいものですね.



JIJIさん
こんばんは,コメントどうもです ^^

私も高度経済成長あたりに大きな分岐点はあった気がしますね.あの頃に,民話や妖怪や,そういう伝承されて受け継がれてきた世界が完全に解体されたんじゃないかと思います.とはいえ,それ以前に,もはや布石は打たれていたのでしょうけども...

自然信仰の中の日本人にとっては,生と死は断絶していなくて,もっと連続的だったんだろうと私は思っています.しかし今の時代,科学という概念が現れて,何はともあれ,死の定義ができあがり,生との間には深い谷が生まれてしまったんでしょう.JIJIさんもおっしゃるとおり,死を考えることは生を考えることだと思います.私たち現代を生きる日本人は,新しい死というものの感覚,死に対する生の立ち位置を模索しないといけないんでしょうね.一度解体されたものはもとどおりにはならないので,新しい道を探すしかないでしょう.そこから生きることの意味(価値?)を見出せる可能性は充分にある気がします.
  1. 2008/10/28(Tue) 01:42:46 |
  2. URL |
  3. えりざべす #m5Dxg7h6
  4. [ 編集 ]

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