私が車のデザインを見て,この車いいなぁと感じる場合,たいていそれは「車」という概念とそのデザインの調和を見ている気がします.つまり,車そのものの造形ではありません.車という概念はどういうものかと考えると,やはり突き詰めて考えるなら「動いて人や物を運ぶ」というその動作を指すのではないでしょうか.ですから,そういう動作に調和していることが最終的に車のデザインの美しさにつながると感じます.(このことはシトロエンC6の記事でも書きました.)
私は,この車の「動作」に関して,ふたつの要素に分けて考えます.ひとつは動くということ自体とデザインの調和.そしてもうひとつは,動くことで生じる背景の変化との調和.
まず前者です.こちらは,あくまで動くということに矛盾しないデザインでなければなりません.飾られている時より動いている時に美しく見えるようなデザインです.私はフランスやイタリアの車から,すべからくその事実を思い知らされますが,日本車では突出して日産のデザインが走るということを意識しているように感じます.日産のデザインは理屈では説明しにくいのですが,ほとんどの車種で動いていて見苦しくありません.マーチやフェアレディはもちろんのこと,角ばったキューブやエルグランドでさえ,動いているときに違和感がありません.これは不思議です.明らかに動いている時のイメージがデザインの過程で少なからず存在しているんじゃないかと推測しています.
次に後者.これは非常に難しい問題をはらんでいます.大自然の中を走るのと,街中の路地を走るのとでは背景はまるで違います.ですから,すべての背景に調和するデザインなんて存在するんだろうか,と思うからです.しかし!!これには信じられない解決策があるんです.それは...車に意志があるかのように見える場合,どこに行っても調和が生まれるということです.これはちょうど,羽を持って飛ぶことができるスズメが,自分の意志で移動することにより,街中のアスファルトの上にいても,森の木々のこずえにいても不自然ではないことに似ています.概ね海外の車には意志を感じます.フォルクスワーゲンにしろルノーにしろダッジにしろ,デザインに意志を感じるんです.そしてドライバーが車を動かすことによって,デザインの段階で仮定された意志は具現化し,動き出します.そしていろんな場所を旅するんですね.とても自然なことなんです.アルファロメオ147が,郡上八幡で見かけても首都高湾岸線で見かけてもサロベツ原野で見かけても,いずれも背景と調和して美しく見えるのは,動くという能動的意志が吹き込まれているからに違いないんですよ.この後者の部分,これは日本車にはかけらも感じられません.なぜでしょうか.それは日本人が概して意志を持っていないからだと思えます.少なくともどういう車を作りたいかという具体的イメージはなく,もしくは個人は持っていても多数の人が集まるとそれをまとめることが結局できず,動こうという意志を持つことのない大量生産された工業的機械が生まれているにすぎないのです(もちろん実際にはちゃんと動きます.だから不自然に感じるとも言えます..苦笑).
で,いろいろ書きましたが,これって車のデザインに限ったことではないんですよねぇ.調和はデザインにおけるひとつの基盤のようなものだと感じます.
関連記事:レクサスのデザイン
この記事は鳥獣遊画「調和こそがデザインの意味」にトラックバックさせていただいています.

私は,この車の「動作」に関して,ふたつの要素に分けて考えます.ひとつは動くということ自体とデザインの調和.そしてもうひとつは,動くことで生じる背景の変化との調和.
まず前者です.こちらは,あくまで動くということに矛盾しないデザインでなければなりません.飾られている時より動いている時に美しく見えるようなデザインです.私はフランスやイタリアの車から,すべからくその事実を思い知らされますが,日本車では突出して日産のデザインが走るということを意識しているように感じます.日産のデザインは理屈では説明しにくいのですが,ほとんどの車種で動いていて見苦しくありません.マーチやフェアレディはもちろんのこと,角ばったキューブやエルグランドでさえ,動いているときに違和感がありません.これは不思議です.明らかに動いている時のイメージがデザインの過程で少なからず存在しているんじゃないかと推測しています.
次に後者.これは非常に難しい問題をはらんでいます.大自然の中を走るのと,街中の路地を走るのとでは背景はまるで違います.ですから,すべての背景に調和するデザインなんて存在するんだろうか,と思うからです.しかし!!これには信じられない解決策があるんです.それは...車に意志があるかのように見える場合,どこに行っても調和が生まれるということです.これはちょうど,羽を持って飛ぶことができるスズメが,自分の意志で移動することにより,街中のアスファルトの上にいても,森の木々のこずえにいても不自然ではないことに似ています.概ね海外の車には意志を感じます.フォルクスワーゲンにしろルノーにしろダッジにしろ,デザインに意志を感じるんです.そしてドライバーが車を動かすことによって,デザインの段階で仮定された意志は具現化し,動き出します.そしていろんな場所を旅するんですね.とても自然なことなんです.アルファロメオ147が,郡上八幡で見かけても首都高湾岸線で見かけてもサロベツ原野で見かけても,いずれも背景と調和して美しく見えるのは,動くという能動的意志が吹き込まれているからに違いないんですよ.この後者の部分,これは日本車にはかけらも感じられません.なぜでしょうか.それは日本人が概して意志を持っていないからだと思えます.少なくともどういう車を作りたいかという具体的イメージはなく,もしくは個人は持っていても多数の人が集まるとそれをまとめることが結局できず,動こうという意志を持つことのない大量生産された工業的機械が生まれているにすぎないのです(もちろん実際にはちゃんと動きます.だから不自然に感じるとも言えます..苦笑).
で,いろいろ書きましたが,これって車のデザインに限ったことではないんですよねぇ.調和はデザインにおけるひとつの基盤のようなものだと感じます.
関連記事:レクサスのデザイン
この記事は鳥獣遊画「調和こそがデザインの意味」にトラックバックさせていただいています.




コメント