対話の欠如が序列を要求する

日本人は自分の意見と人の意見を協調的にとらえて,新しい考え方や価値観を構築していく能力がありません.学校での授業を考えてみるといいでしょう.学校での授業は,欧米のように多くの生徒が活発に話し合うような場面にはなかなかめぐり合えないですね.でも,先生という絶対的とりまとめ役がいるので決定的問題は起こりません(いつになっても掃除当番が決定しないなんてことはありません).一方,企業での会議はどうでしょう.これは一部の優秀な企業を除いて日本の場合は「悲惨である」と言わざるをえません.議題は現場からいくらでも上がってくるでしょう.商品コンセプト,販売戦略,ラインの効率化など話し合うべき議題はたくさんあります.しかし実際にそれら議題に対して有効な話し合いができていると言えるでしょうか.私の知人の話しなどを聞くに,「会議は形式的なものであり,決定は会議以外の場所で勝手に行われている」と言います.私が知る大学の教授会でも,勇気をふりしぼって「反対!なぜなら...」と発言しかけた先生を,すぐ近くの別の先生が「まあまあ.ここはひとつ穏便に...」などと言って静止したと言います.テレビドラマの中のようなことは現実にもあるのです.

会議はおろか,もっと小さな規模における話し合いでも,日本人にとって意義ある対話というのは本当に難しいものです.例えばある会社で,自分の会社のホームページが魅力に欠けるということになり,大幅に変更する計画が持ち上がりました.そして3人の社員がそれに着手することになったとしましょう.Aさんはレイアウトやデザインをもっと工夫しなくてはいけないと考え,Bさんは文章による説明が不十分なのがよくない,と主張し,Cさんは,ホームページは問題ない,だから別に今のままでいいじゃん,問題は別の場所にあると思うんだけどね...と思っていたとします.さて,このような3人の日本人が話し合いを始めて意義ある結論が生まれるでしょうか.たいていこういう場合,結論は出ずに話し合いは迷走し,次第に打ち合わせの「先延ばし」をするようになります.そして最終的には上司が現れ,「とりあえずデザインを変えてみようか」のように,上司命令で片付いたりするのです(しかも,なぜ「デザイン」になったのかは判然としません...).これは「日本人の利己は功利を生めるか」の記事でも書いたとおり,各自の意見を持ち寄り,1人の時には考えられなかった高次の考えにたどりつけないという状況であり,功利的結論を生み出せないことの裏返しでもあります.そして,皆とても利己的に振る舞うから,話し合う意味がそもそも成立していないとも解釈できると思っています.

さて,議論や対話により功利的結論を生み出すことが苦手な日本人は,じゃあどうやって物事を判断し決定していくのでしょうか.私の考えでは,おそらく「序列」によってそれは可能になっているんだと思います.

そう.
「序列」は日本社会に必須のシステムだった!
とまあ,これは私のやや勝手な解釈ですが...

つまり極論すると,上下関係を決めておけば,対話せずに上の人間に従えばいいわけです.最も単純な上下関係は「年功序列」です.他にも「資格を持っているか否か」とか「独身か既婚者か」とか「学生か社会人か」とか「高卒か大卒か」など様々な状況に応じて序列化が存在します.肩書きや数値化されたものは本質を反映していないにも関わらず,こういうものが社会に導入され,それを中心にして社会が動いているのです.この「序列」という名の秩序は,「上」に立った人間が人間としての器が大きく,「下の者」を思いやり,実際に能力や判断力に長けている場合は決して問題になりません.しかし現在の日本を見渡すとどうでしょう.尊敬できる上司があなたの周りにいるでしょうか? 本当に尊敬できる先生に何人出会えたでしょうか? 尊敬できる政治家は日本に何人いますか?

私の考えをまとめると,日本人は,人間同士のコミュニケーション能力の不足により創造的活動が行えないので,「序列」という秩序を用いてそれを補っている,ということになります.これほど序列を好む日本人なのです,男女間にそれを導入しないわけがないですね.これが日本におけるジェンダーだと思っています.日本人の夫婦間やカップル間にどれほどの豊かで創造的な対話があるでしょうか? 日本人が,異性に対して顔や身長やスタイルを重要な判断基準に持っていることが多いのも,対話して分かり合うという営みが困難なことの裏返しのように感じます.悲しいことに,外見以外にウェイトを置く場所を見つけられないのです.日本の資本経済システムの上では男性が「上」に置かれています.しかし,家庭内では妻の地位が明確に上の場合も少なくないでしょう.しかしどちらにせよ,序列による秩序化です.

私は,やはりこの問題の解決には「利己心の弱体化」しかないと思っています.なぜ対話が成立しないのか,それはなんだかんだ言って,日本人が利己的すぎるからだと思っています.この利己は決して功利的な結論を出しません.上に書いた「創造的な対話」とは「功利的な結論を導ける会話」の意味です.しかし現代の日本人の過剰な利己心は,自ら築き上げた序列社会によって受けるストレスが原因のひとつのようにも感じます.そうだとすると問題は連鎖し,ループになり閉じています.はさみを入れるべき場所はどこなのか,これはまだ分かりませんが,見出したいものです.

 

テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

えりざべすさん、おひさしぶりです!
僕も日本人の対話の能力って著しく低いなぁと感じてしまうことがよくあります。対話以前に考えを理論的に説明する事から出来ていないのが問題のような気がします。インタビュー番組などを見ても、欧米のようなインタビューとは全く違い、話が展開せず、一往復でしかないのが日本のインタビューの特徴であると最近気づきました。訊かれた事しか答えられない。そう思う理由を話さない(訊かれれば話すかもしれないけど、訊く側も答えに対して展開させないので訊かない)。欧米で主流の素人中心のリアリティ番組などを観ると、素人さんでもカメラの前で実によく自分の考えを話し感心します・・・ナレーションによるナビゲーションが無くてもそれだけで番組が成り立ってしまうほどですから。日本人は「表に出さない」のではなく、そもそも理論的に組み立てが出来ていないように思います。出るのは感情と、それを表す言葉ぐらい。「主張」が「理論」ではなく「思考する以前の、理論的フィルターを通していない感情(嫌か/嫌じゃないか)」みたいなものだったりして、それが当たり前になっているから「まあまあ.ここはひとつ穏便に...」などというシーンに度々遭遇するのではないかと思います。対話の末に何を得ようとしているのかという事さえ見えていないのでは?と感じる時がよくあります。

えりざべすさん
おはようございます。
昨日も、この記事を読み、ずっと考えていましたが、moritoさんのコメントを読み、考えがすっきりとまとまってきた感じがします。(この、〜な感じ とか、感情でものを考えていることに、はっとしました)
欧米の悩みの過程は、内にこもらず客観的に、だから、次へのステップがおのずと明確になる、そういうことをずっと感じていました(笑 
小学校の高学年だった時、人生に悩んで、いろいろな先生に相談したことがあります、あるフランス人の先生は、明確でした。目に見えるように解きほぐしてくださいました。今、あの対話を反芻して考えてみようと思います。

 エリザベスさんの、あえて「日本人」と言ってしまう大胆な記述は、議論をすっきりさせていますし、日常的には私が思っていることとほぼ同じです。
私の会社にも、建設的議論の下手な人も多いですし。
 しかし、それでも問題の本質は「日本人」ではなく「日本に多いゲゼルシャフト」の性質にあると私は思います。(思考法などの人格的側面は、社会行動の「後で」生まれるものだと思っているのです)
私の会社は開発系なので、製品の仕様検討の段階では、各人がシステムに求めるもののイメージの擦り合わせや総合が必ず必要になります。
放っておくと散漫な口論めいた状態になったりもしますが、私が各人の意見を要約し、方向付けを行うと(各人のプライドを傷つけないように冗談を交えつつ)、有効な議論が出来ます。
小さな会社で、しかも比較的序列意識の低い技術志向人間が多いことはあるかもしれませんが、日本人もやれば出来るのです。
そして、そういう会議を繰り返すうちに、各人の中には自然に「論理に従って思考し、議論する」性質が育まれていくのです。
30過ぎのおっさんでも、職場が変われば成長するのです。
 私は、学校であれ地域であれ、自由に建設的な意見が出せる場を形成できる人間は(少数かもしれませんが)確かに居て、それが、なんだかんだ言って民主主義を支える最低限の闘争の成立する日本と、中国などの差を生み出しているのだと思います。
 長々と書きましたが、私は、エリザベスさんの持ち味は既存の社会の多くの場で形成され助長されている「日本人的性格」を、第三者の立場から見事に「異化」して見せ、皆が「あたりまえ」と考えていた思考法の奇妙さを抉り出す事にあると思っていますから、このブログの論調としては、このままの「日本人論」であるべきだと考えています。
…このコメント自体が散漫で論理的に弱いですね(笑)

多くのコメントありがとうございます.ちょっとだけ補足なのですが,私はこの記事で「序列が必須だ」と言いながら「序列に頼らず,対話できる状態へ日本人も移行すべきだ」という方向性の記事となってしまってます.ちょっと矛盾ですね.私は,基本的にこの日本人の対話不得手の気質は後天的なもの,つまり遺伝などではないという暗黙の仮定があり,そうであるなら現状を打破して自由な対話が可能になるほうが,ずっと多くの人が幸せを感じられるのではないか,と思っています.とまあ,そういう思想があるんだと思っていただければ幸いです.

moritoさん.
久しぶりのコメント,嬉しいです.全くそうですね.対話以前の問題というケースは多いですね.苦笑 訊く側も訊かれる側も,決まり文句になっているようなパターン化されたコミュニケーション(いや,これはコミュニケーションとは呼びませんね...笑).もともと日本には「型」を重んじる傾向があることも原因だと言えますが,社会からの過剰なストレスにまみれ,誰も前向きでいることができていない,という原因もあるでしょう.とにかく考えたくない,と潜在意識では思っているのではないか,と.ストレスの多さは利己的な行動へとリンクします.じゃあ前を向いて考えればいいだけじゃないか,と思いきや,これまたそういう気質が育まれていく環境がない.このようにすべてが連鎖して繋がり,現在の「日本社会」というものができあがっているように感じます.対話の練習をする機会というのはどうしたら持てるようになるんでしょうかね...いや,糸口を探すのは本当に難しいです.

rainさん
海外の友人ができると,日本人の「微妙さ」が改めて浮き彫りになりますね.私もそうです.はじめて海外の友人ができたときは,たくさんのことを考えさせられました.政治の話しなどは置いておくとして,「個人と個人の豊かな関係」という点においては,日本人は欧米人から多くを学ばなければなりません.「目に見えるように」というのはとても重要で,なんとなくではいけないんです.でもこれがけっこう難しいんですよね.私は変なナショナリズム思考を持っているわけではありませんが,もし「美しき日本を守る」と本気で言うのなら,かたちだけでなく真剣に海外に目を向ける時がきていると思いますが,そういう人に限って国内にのみ目を向けたがります.グローバル化の中で侵食されるうちに,いつしか貧しい衣類や住宅を購入し,100円ショップでたくさん買い物をして,たくさん使い捨てるような精神がさらに助長され,表面でだけの「エコロジー」を叫び...と,もう後戻りできなくなるようで不安です.

さむるさん
さむるさんのコメントにはいつも感銘を受けます.コメント,そしてこのブログに対する方向づけと励ましの言葉,ありがとうございます.問題の本質は日本に多い「ゲゼルシャフト」の性質にある,全くそのとおりだという気がします.私も日本社会における日本人の思考形態は基本的に後天的なものだと思っています.何かの機会を通して変われるはずだ,と思っているのですが...ただ,それにしてもなぁ,と思う場面も多いのです.苦笑 さむるさんの会社では,発散するとは言えまだ意見を持つ方が多いようですが,日本の企業全体で考えると,思考を持ってない企業はけっこう多いだろうと思っています.相互依存というぬるま湯の関係にどっぷり漬かり,集団自衛を行い,新しいことに挑戦しようという気概を感じることはほとんどない,というのはお決まりの構図で,それでも成り立っていることの凄みを感じます.もう対話が成立しないどころか,どんなに考えてもまともな対話を始める糸口さえ見つからない,という状況.(さすがにこれは言いすぎか...苦笑)それからご指摘の,「建設的な意見を持てる日本人は少数だが確かに居る」には全く同感です.極論すると,こういう方たちのおかげで現在の日本の物質的幸福は成立しているのだと思います.

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