仏様に供える花

私は子供の頃,とても疑問だったことがあります.そしてそれはしばらく完璧に忘れていて,つい最近,突然思い出しました.そして,その理由が知りたくて,インターネットで調べてみました.キーワードは,「花・仏壇・こちら向き」.

そう,私が不思議に思っていたこと,それは仏様に供えるお花はなぜこちらを向いているのか,ということです.仏花は飾るためのものではなく,供えるためのものです.自然に考えて仏様に供えるものなら,仏様のほうを向けるはずでしょう.なのになぜ,手を合わせる私たちから綺麗に見えるように,こちら向きに花を供えるのかが疑問だったのです.なぜこれが常識になっているのか,という点について...

さて調べてみると,同様の疑問を持っている方はおられるようでしたが,非常に少数のようです.それでも,いちおう回答らしきものがお寺のホームページなどにありました.主なものとしては以下のようなものです.

「供えた花は,そのまま私に注がれている如来さまのお心を表している」
http://www.terakoya.com/butsuji/butsuji_1_11.html

「ためしに一度向こう向きに供えてみてください.なんだか楽屋裏(がくやうら)をのぞいているようで変でしょう.ではこちら向きになおしてみます.やはりこの方がずっときれいで気持ちも落着きます.きれいに飾られると,仏さまの荘厳(そうごん)さもより増すことでしょう.それにお参りする人もきっときれいな気持ちになって,お参りしたという実感がわきます.清々(すがすが)しいこころを仏さまやご先祖さまが受け取ってくださり,その喜ばれたみこころがまたこちらへ伝わって供えた方の喜びになります.行ったり来たりですね.」
http://www.tendai.or.jp/houwashuu/index.php

なるほど!と納得したいところですが,納得できません.生理的にです...泣 例えば,タイは仏教国で,家庭にも簡単な仏壇のようなものがあり,花も供えます.しかし,花は質素なもので,どの方角からも同じように見えるような類です.それを供えるので,仏様側からも参る人側からもそれほど見え方は変わりません.キリスト教でも献花は行いますが,花を手前に茎を向こう側にして置くのが基本で,やはり死者から正しい方向に見えるようにします.あれほどたくさんの花を,手を合わせる自分に向けて供えるのは日本だけではないでしょうか.

上のふたつの回答に示されている「仏様のみこころを示している」という仏教思想はいいのです.私は,自分たちで勝手に豪華にこちら向きに飾って,それで「仏様のみこころ」と言っている神経が理解できません.自作自演です.タイの家庭の仏壇のように,どの方角からも同じように見えるような花を供えて,それを御心と言うのなら,とてもよく分かります.

私はこの仏壇の花の向きから,私が憎んでいる日本的な何かをとても強く感じます.このブログでさんざん書いている日本人の「利己的」な匂いもします.全体を捉えることが下手で,自分に都合のいい解釈をするのです.多くの日本人がこの花の向きに疑問を持つことがないでしょう.つまり,この向きが日本人にとって非常に安心感のある当たり前の形なのです.現代の日本人は,こちら向きに供えた花から仏の御心を感じるようなことも実際はないでしょうし,ただ「そうするものだ」と常識に従って供えているんだと思います.もし供えた花から仏の御心を感じるほど信心深い人がいるなら,絶対にこの向きに疑問を持つと思います.だって,これはどう考えても「何かがおかしい」はずです.

 

テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

こんばんわ、暖かくなってきましたね。
 お話の、お花の話なのですが、仏教関係の習慣や思想、である、ともいえるでしょう。しかし、どちらかといえば、飾るという、行為にどのような意味を見出せるか、が重要だと思うのです。

 玄関を飾るとき、どうでしょう。花の向きは、お相手に向けますよね?表札や飾りは、訪問者に向けるもの。不自然には思いません。仏壇の扉は、玄関のようなものですよね?

 それと、質問なのですが、なぜ、日本的風習?とやらを利己的と位置づけているのでしょう?価値観、事情様々でしょうが、私にはよくわからないのです。

赤スペさま.

コメントありがとうございます.こちら札幌も暖かくはなってきているのですが...まだ道路脇には雪が残っております.汗 北国の春はなかなか...

記事の中では唐突に「利己」などという言葉を使って意味が通りにくくなってしまったことをお詫びします.ただ,私は日本の問題を考えていると,必ず「利己的」という言葉に最近はたどり着きます.「利己的」という言葉が最適かどうかは実際は微妙だと思っていますが,ただこの言葉よりも意味がぴったりな単語を私は知りません.これは日本に長く存在するものなのかどうかも私は現時点ではっきりと言及できません.少なくとも,「現在の日本において」そのように感じます.

仏壇やお墓に花を供えることと,玄関に花を飾ることは全く別の行為だと私は考えます.同様に,仏壇の扉と玄関も同じ意味だとは思えません.なぜなら,玄関は人が家に入る場所,人を迎える場所ですが,仏壇は参る人が「仏様と向かい合う場所」だからです.玄関に花を飾るのは,訪問する人や家族が花を見て心地よくなるための行為でしょう.私たち人間の利益になる行為です.では仏壇や墓前に供える花はどうなのでしょうか.参る人が気持ちよく参ることができるため,というのは筋は通ってはいますが,しかしそれは,生きている人間(参る人間)のほうが,仏様・死者よりも大事にされているというように感じられるのです.つまり「仏様に供える」と言いつつも,花は生きている人間のために飾っているとしか思えません(実際にそういう意味になるでしょう...).これを「利己的」と私は言っています.ただ,このブログでも時より書いているように「作為」に満ちているものではないですから,経済学や生物学で用いられるような意味での「利己的」とは多少違うかもしれません.

「考えすぎだろう?」と言われるかもしれないですが,私はそのように感じています.

ところで,私は「日本人の利己」という言葉を最近乱用しているくせに,ちゃんと分かり易くまとまった文章を書いていないことに気づきました.近いうちに,このあたりに関する私の考えはきちんと分かり易くまとめたいと思います.

 北国では、春もまだ肌寒い、まだタンポポやスズランにはお早いですね。

 そうですね、利己のことですね。またいつか詳しく、教わりたいです。とりあえず、利己に関してなのですが、現在の日本人限定で、のお話なのですね。

 生物の世界は、適者生存、ですが、植物の中に、自身以外を死に至らしめる毒を蒔く物もあります。人間の社会も集団を勝ち抜く、利己の本性、それは適者ではなく自己生存のために特化した思想。毒をまき、足を引っ張る人間。これは日本人限定にするのは、少しスケールが小さくなるかもです。生きるための、ウソは利己なのか?どこまでが利己なのか。

 生物には、利己主義が染み込んでいる、実は誤解。蜂が仲間を守るために単身、天敵に挑む姿。生物学としての解釈は、全体を生かすための種の利己主義と解釈していますが、小数なれど、自己の犠牲を厭わぬ個体。その姿は単純な、生物は保身主義であるとする信仰を否定しうるものと思うのです。人はかしこくなれる、知ることも、変わることも。

 最初の、前提、仏壇とはなにか?の視点による結論の違いですね。
 仏壇を、住所と捉えてるのが私の視点。仏壇の中に、故人が住むと、仮定して、扉は玄関、その前にお花を飾る、という思考の流れ。
 生死を問わず、迎える側(扉の外)にお花を向ける。故人より、仏壇の外の人が大事にされてる、ということですよね?
 「仏様と向かい合う場所」と「仏様の住所」の違い、視点の違いで、こうも結論が異なるなんて、おもしろいですね。
 
 自然と人工のお話、今回のお話、少し共通してるように思えるのが、作為(人の手が加わってる)、つくる、ということへの嫌悪、のように感じます。間違ってたらごめんなさい。

 それと、気になったことが一つ。私のブログでも、たくさん否定や非難をしてきました。そのたびに、気をつけていることなのですが、私の発言で、誰かが傷つかないか、ということなんです。否定や非難の言葉で、傷つく人がいる。自分が嫌いなものでも、好きな人はいる。
 日本人の風習?が憎い、という一言、結構傷つきました。日本人を非難するべきじゃないとは、いいません。根拠を、主観におく論理は、乱暴です。
 できる限り、仮説から入るべきです。仮説は答えではなく、仮説。そして、仮説は正しくある必要はありません。言論の自由もあります、が自由に甘えてはいけない、とも思うのです。

赤スペさま.コメントありがとうございます.こちら北海道は昨日から嵐で,道東ではかなりの大雪になったところもあるようです.そちらの暖かな春が羨ましい限りです...

ちょっといろんな要素があるので,順にコメントさせていただきます.

まず,改めて「利己」について.私は,現代を生きる日本人であり,過去がどうであったか,正確に分かりません.よって「現在」と限定しています.もし可能な例があれば,過去の日本についても考察したいです.例えば,私は以前に日本人男性が「絶対」という言葉を使いたがる,ということを記事に書いて,けっこう反響がありました
http://erisabeth.blog123.fc2.com/blog-entry-38.html).その時は,武士道との関連を指摘するコメントもありました.しかし,未だにその理由は明確にはなりません.こんな具合で,非常に複雑な問題だと感じます.自分が考えるところの「日本人の利己」に関しては近いうちにまとめたいと思います.


次に,「経済学や生物学で用いられるような意味での「利己的」」という私の前のコメントですが,これはちょっと間違いでした.生物学的な利己とは,「利己的な遺伝子」のような「要因」を指していますから,意味合いがかなり違いますね.混乱を引き起こしてしまい真に申し訳ありません.生物的な利己も,結果的には自己(もしくは集団,種)に有利な結果を与えるという意味にはなりますが,こちらは作為的ではないでしょう.社会学や経済学で言う「人間の利己心」のようなものは,もっと計画的で作為的なものと一般に考えられています.私の理解では,「利己心」というものは自我が芽生え知性を発達させてしまった人間に特有に存在するもので,人間はそれを抑制するために,社会制度や法律や経済システムを自ら作り出し,もしくは宗教のような概念を持ち,ここまで生きてきたと思っています.

「仏様の住所」に関しては,私はやはり納得できていません.家の玄関は,私たち自身が住んでいる家であり,訪問者や家族の心をなごませるために,私たち自身の意志で花を飾る意味はとてもよく分かります.しかし,仏様の住まいが仏壇の中であったとして,その仏様の住まう玄関を,仏様自身ではなく,私たち生きている人間が私たちに向けて花をかざるというのは,意味が全くちがうでしょう.なぜ相手(仏様)ではなく,自分(達)に向けるのか,その行為の原動力が分かりません.もしくは,なぜ人間が住まう家の玄関と同じように考えるのか,その思考の流れが分かりません.「そういう習慣なんだ」「昔からそうしてきたから」というのは,本質的な部分を考えようとしないまさに今の日本の大きな問題そのものだと感じますが,どうなのでしょうか.何らかの大切な思想か理由があるのでしょうか.是非この理由を聞きたいのです.

次に私が嫌悪に感じていることについてですが,人間が「つくる」ことへの嫌悪は全くありません.熊野古道の石段も人によって森を貫いて作られたものです.伊勢神宮だってそうです.でも美しいと感じます.私が嫌悪感を感じると書いている部分は,参道沿いにだけ老木を残してある行為や,熊野那智大社という場所にある「日本一じゃんぼみくじ」のような場にそぐわない思想です.ですから,嫌悪を覚えるのは「つくる行為すべて」ではなく「周りが見えていない,考えが足りない行為」だと思います.

最後に,私の記事の文章で,赤スペさんの心が傷ついてしまったのでしたら,非常に申し訳なく思います.ただ,私は名指しで個人や団体を誹謗中傷するようなことはしていません.私はただ,日本人の考え方や風習やそのようなものの中に矛盾や問題点を見いだし「それはおかしいだろう」と指摘したいわけです.また,実際に私はそういう問題点をいつも考えてしまい,正直に「憎い」と思っていますが,これは赤スペさんが憎いという意味では全くないので,赤スペさんが傷つく要因になぜなるのか分かりません.もし,私が憎いと思っていることを赤スペさんが愛しておられるのだとしても,やはり赤スペさんが傷つく理由には全くならないと思いますよ.「えりざべすの言っていることは○○という理由から,その根拠があまりにも主観的すぎる.△△にように捉えれば素晴らしいとも感じられるでしょう.だから私はこういう習慣はむしろ好きですよ」のように指摘くださればいいと思います.一方もし私の考え方に矛盾がないのであれば,「確かに私はこういう風習は好きだが,えりざべすの言っていることも一理あるのかもなぁ」程度に思ってもらえればいいと思います.いずれにせよ,何度も自分の記事本文を読み直しましたが,誰かが傷つく理由は一切ないと思います.この内容は充分に言論の自由の範囲内だと思うのですが.いかがでしょうか.もし社会や習慣に対して「憎い」という個人的な感想を述べただけで誰かが傷つくのだとすれば,この国には本当に言論の自由はないんだな,と思いますよ.というか,日本人がなぜこれほど本音を話さず,健全なコミュニケーションがとれないのかの理由が別の視点から見えてくる気がしてしまいます.

何度も、ご返答ありがとうございます。いつか、北国の知恵(道具)に関する記事を書こうと思ってます。その折には、どうか、ご意見くださると、ありがたいです。

えーっと、そうですね。私も要素ごとに、コメントさせていただきます。

>改めて「利己」について.〜〜よって「現在」と限定しています.
やはり、日本限定の考察になるのですよね?
 過去の記事の愛について、http://erisabeth.blog123.fc2.com/blog-entry-83.htmlコメント欄にて to-y さんのご指摘、私の意見と同じだったのでコメントは控えました。やり取りを見ていると、終始、ご自分の意見の補強にまわっている。聞き入れ、取り入れる、難しいことなのですが。これでは、独善的利己主義と呼ばれても、おかしくない。

 論理的に考える場合、最初から、主観ではじまるのはよろしくありません。たびたび登場する、“日本人は”、という断定。なぜ、日本人限定なのか?たぶん、これが、私の心が痛む原因。日本の何かに対する憎しみを発している。批判と非難は、違います。批判とは、誤っている点をあげていき、より良いものにすること。非難とは、相手の間違いを責める(感情)、ということ。私にとって大好きな日本国のナニかを憎む、という言葉。感情で、責める権利は被害者にしかない。

>日本人男性が「絶対」という言葉を使いたがる
これを、日本人男性に限定する、根拠はあるのでしょうか?成長過程に触れた文化・社会によって、行動や感情の表し方は変化します。『絶対』という言葉を、よく使ってる理由は、そのような文化、とくにテレビドラマの影響でしょう。恋愛なんかも、同テーマの創作(歌詞や小説も含む)から影響を受ける、とかなんとか。創作の世界の絶対発言が、日本人男性をダメにした。日本人男性がダメっぽ、というのは私にはミスリードに見える。スポーツ選手は、『強気の発言が受ける』からのもの。商業的思惑でしょう。

>次に,「経済学や生物学〜〜生きてきたと思っています.
概ね、同意です、人は、かしこくなれる。利己心、は、本能ではない、ということなんですね?利己心に限定してしまうのは‥。かつて、心理学業界で、全ての現象をコンプレックスで片付けてしまう人がいまして‥。物事は多面的です。

>「仏様の住所」に〜〜是非この理由を聞きたいのです.

仏壇ってなにかの捉え方で、結論がかわる?ですよね?イスってなに?と同じく、中々、難しいものですよ?えりざべすさんは価値観の多様性は、認められない方、なのでしょうか?私には、「仏様の住所」という価値観が、しっくりして、えりざべすさんには「仏様と向かい合う場所」という価値観がしっくりする、ということだと思うのです。なぜ「仏様と向かい合う場所」と、お考えなのか?という思考の流れも、私には、あまりわかりませんが、それはそれでいいと思うのです。そして、なぜ、仏壇のお話が日本の大きな問題なのか?これは、前述のとおり、仏壇ってなにかの捉え方で、結論がかわる、ということですよね?納得できないから、私の意見は答えの一つとして、認められないのですか?納得できない、答えも、あるかと思うのです。答えを一つに絞る必要も無いかと思うのです。えりざべすさんの論理をお借りするなら『私は○○と考える、他に〜という答えもある』という意見の提示もあるかと、思うのです。

>「日本一じゃんぼみくじ」
確かに、おかしいですよね‥。ただ、いけないトコ、があるなら、それのいいとこも探さないと、片側からの偏った視点になってしまいます。

>最後に〜〜
今、稚ブログへのコメントを見てきました。ありがとうございます!対立だなんて‥。
批判、非難、私も、そんなことばかり書いている、でも、否定意見ばかり見てると、流されてしまう人もいるんです。
他国の価値観を比較することも、もちろん意味のあることですが、他国ばかりが優れている、または正しい在り方であるわけではないと、思うのです。論理の研磨のお話ですが、仏花のお話のように、最初の定義の食い違いで、結論は変わります。○○をこう仮定したなら、こういう結論になる、と。都合のいい解釈、とかではなく、多様性を受け入れられたら‥。価値の一元化は、現代日本の拝金主義のような危険も持ち合わせてます。

長くなってしまいましたが、前述のとおり、北国の知恵特集(仮)を予定してたりですね。また、えりざべすさんのお力をお借りするときがあるかと、思います。

私が疑問なのは,私が自分の考えを書いても,赤スペさまの「それに対する意見」が全く見えないことです.私がもう一度説明していただきたいのは,やはりなぜ花束にわざわざ裏側と表側という方向性を作って,表のほうを人間側に向けるのかという点です.それがここでの論点だと理解しています.私の仮定の出発点である「仏様と向かい合う場所」の思考の流れが分からないということですが,これは説明不足でした.私にとっての仏壇は,「仏様に向かって手を合わせ,仏様の生前の日のことを思い,今の自分を省みる場」であると思っています.もし,仏壇がそのような場所ではないというのであれば,おそらく仏壇の意味が私と赤スペさんとでは相当に違う気がしますので,もっと詳しくうかがいたいです.私も自分の仏教思想についてもっと詳しく話しができると思います.各々の出発の仮定が違えばそれでいい,というのでは相互理解に達せません.

私の意見が主観的かと言われれば,例えば「参考文献やデータを持ち出すこと」を客観とするなら,ある程度主観的でしょう.主観から出発していると言われても否定できません.しかし,私は人生を生きてきて感じたことを率直に書いています.私は海外の人と接することも多く,そういう方たちとの話や,旅行や仕事で海外に行った時に感じるもの,そういうものを総合して,明らかに私が変だと感じるのは日本人からなのです.だから日本批判の論調になるのは仕方ありません.意味もなく日本人を非難したいから書いているのではありません.むしろ日本を愛していて,日本はもっといい国にならなければいけない,と思うので書いています.ブログという環境で,このような個人の感想を書くことをやめなければいけないとは思えません.しかも特定の団体や個人を非難しているわけではないのですよ.ある程度主観が入っていても,私は熟考した後に,ちゃんと筋が通って指摘できると判断したことを書いているつもりです.確かに言葉足らずだったり表現が不十分だったりすることはありますが,そのときは誤解を解くためのコメントを書いております.私の考え方が明らかにおかしいと思われるなら,私の考えの矛盾を直接的に指摘して,ちゃんと切り崩してください.傷つく必要(要因)はないでしょう.

「多様性」という言葉の意味を間違って捉えておられるようですが,この言葉は,むやみやたらにいろんな価値観を理解がないまま存在させていいという意味ではないと思います.ドイツで速度無制限の撤廃派と擁護派とが議会で衝突しても,お互いの論に筋が通っていて,素晴らしいなぁ,と感じます.筋が通っているから,どちらの意見もすり合わせて功利的な意見を議会でまとめあげるのです.私も一部ですが取り上げました.
http://erisabeth.blog123.fc2.com/blog-entry-61.html
ドイツ人は素晴らしいという意味ではないです.このような「双方が理解し合えた議論」は本当に素晴らしいと思います.墓前や仏壇に花を供える時に生きている自分たちがよく見えるようにすることに,残念ながら私は理解できる根拠が見つからないので素晴らしさは感じないのです.違う仮定から出発したんだからそれでいいのではなく,仮定(仏壇を住所と考える)に至った理由と,なぜその仮定からその行為(参る人間に向けて花を飾る)が生まれるのかを理解しなければならないと思います.もしこれが素晴らしいことであるなら,つまり多様性のひとつとして充分に価値があることなら,ちゃんとその理由を言葉で説明してください.それで相互理解に達して初めて,違う二つの考え方が同居でき,私たちの間で多様な価値観が存在できる状態になると思うのです.

最後に,赤スペさんは「価値の一元化は危険だ,多様な価値観を認めるべきだ」という意味のコメントを私に対してされていますが,これは間違っています.なぜなら,私がこのブログで書いていることに100%賛同してくれる方はほとんどいないでしょうから,考えていただければ分かると思いますが私は明らかに「マイノリティ」です.日本人の多くが当然だと思っているであろうことを,あえてその矛盾を指摘しているのですから当然です.一元化したいのではなく,多様として認めてほしいのはこちらのほうです.

>私が疑問なのは〜
 何度か書き込みさせて頂いたのですが、仏壇とは何かの定義を持論で断定したくないのです。ですが、できるだけ最初のコメントをまとめてみますね。
 私は、仏様が仏壇にいらっしゃる=仏壇は仏様の住所と考えて。玄関にお花を飾る場合、訪問者に見せるために飾ります。仏壇の扉は、家の玄関に相当し、訪問者=仏壇の外側に向け、お花を飾ります。

 確か、故人を大切にしていない、というお話でした。私のコメントの論理だけで考えると、どうでしょう。玄関にお花を飾るときに、中に住んでいる人に見せようと、しますか?

 えりざべすさんは、お花は、故人へのものである、というご意見ですよね?私の意見では、個人ではなく、訪問者への飾りなんです。故人が動いて、飾ること出来ないのですから、生きている者が飾るのです。

コメントが少しずれてしまいますが
>仮定(仏壇を住所と考える)に至った理由と,なぜその仮定からその行為(参る人間に向けて花を飾る)が生まれるのかを理解しなければならないと思います.

 なぜ、そう思われるのでしょう?

>私の意見が〜〜
 記事内にお書きになっていることなのですが、引用させていただきます、“なるほど!と納得したいところですが,納得できません.生理的にです...泣” 
 個人の生理的嫌悪から、全体を非難するのは、ちょっとどうかと。感情を、持ち出すと、論理ではなく私怨、になってしまう。言論の自由、はありますが、ここっておかしいよね?でとどめて置けるものを、憎しみの感情まで残すのは、やりすぎである、と思います。一訪問者としての意見です。
 そして、自己の経験を、証拠で補う、この手法はいけません。稚ブログで、扱おうと思っているテーマ、疑似科学、というのがあります。
 納得できない理由を、自身の嫌悪感におく。その生理的?嫌悪感を証明するために、自説を補強する、証拠を持ってくる。
自説の証明のための論理構造、とっていませんか?
 これは、あるある大辞典の検証方法と同じく、疑似科学の方法論です。健康食品などの詐欺の手法なんです。
 最初に、導くべき結論を決め、証拠をもってくる。お心当たり、ありませんか?私の未熟ゆえ、指摘できませんでしたが、根拠を、主観におく論理は、乱暴です。 そして、詐欺師が使う、疑似科学の手法で想いを残すのは‥、これ以上は、私の倫理観の押し付けになってしまう。感想でならば、なにもいえません。

>「多様性」という言葉
 ドイツのお話が、多様性の意味と、どのような関係があるのでしょう?価値観と法制度を混同してるように思えます。

>最後に,赤スペさんは
 最初の私のコメントが、わかりにくかったのですよね?最初、価値観の提示をして、私は不自然ではない、という意見も書いてます。その後、エリザベスさんはご自身の持論を補強された、でコメントの交換が続きました。私が、えりざべすさんのご意見を認めない、という言葉、残してましたか?
 私が、もっとも伝えたかったこと。自己の経験を、証拠で補う。この手法は導くべき結論を決め、証拠をもってくる。詐欺師が使う、疑似科学の手法だということ。目的はともかく、手段は、いけない。

私の記事本文で言いたいことは「問題提起」という位置づけです.多くの人が当たり前に思っていることがおかしいと感じるのでそのとおりに書いています.明日から花は逆向きで生けてくださいなんて,一言も言っていませんし,極端なそういう思想も持っていません.つまり押し付けはしていないです.この点は誤解されていると思います.もしくは,この記事が問題提起に聞こえず,自分の考えの押し付けに強く感じたのでしたら,私の書き方が悪かったのかもしれません.しかし私の考えでは,意見を押し付けられているように感じるかどうかは,人それぞれだと思います.

私は生理的に受け入れられないものを感じたとして,それを「生理的におかしい」という曖昧な状態でとどめず,なぜ生理的に受け入れられないのかを論理的に考えているのです.これは主体的体験を客観的に説明しようという個人の努力です.科学ではなく思想や哲学的な話しでしょうから,実験で確かめることはできません.ですが,客観的に考えて理解したいわけです.そのために仏教の思想や他の宗教のことまで考えて意見を言っているのです.こういうプロセスは誰でも行っていい作業でしょう.それを記事として発信しているのです.これに対して,私の言葉遣いや細かなニュアンスを引用したり,あるあるのようなメディアを持ち出して,揚げ足をとることはおやめください.中心議題から外れないでください.これでは日本の国会で行われている議論のようになってしまいます.いいでしょうか.仮にお互いの言葉遣いや言い方に不備を見つけても,全体で捉える努力をしてください.全体で捉えて「この人は何を言いたいんだろう」と考えてください.私の書き方が未熟なせいもあるかもしれないですが,少なくとも水かけ論に向かうようなことはしていただきたくないです.

「故人が動いて飾ることができないから飾る」というのは,なるほどそうなのか,と思いました.私の感覚ではそのような発想はないですが,そういう考えもあるのかもと思います.多くの日本人がこのように「思考」を持って行動してくれていることを願いたいですが,実際にはそんなことはない気がしています.お墓参りに持っていくお花の相場はいくらくらいか,なんていう質問は日本においては充分にありえます.

追記です.
ただ,赤スペさんにも聞いてもらいたいから書いています.欧米かぶれと言わないで聞いてください.英語圏の人は,誰かが感情的になっているとすると,その理由はなぜかと考えて質問し続けます.そして理解する努力をします.理解したうえでそれはおかしいとか,確かにそうだね,とはじめて意見を言います.そうしないと霧が晴れないからです.先に進まないからです.日本社会の場合は,感情的になっている人に対して,感情的になるのはよくない,とその行為をとがめてくる気がします.もしくは感情的になられるとこっちが迷惑だ,と自己主張するかどちらかです.感情的になっている人がその理由を必至で訴えていても,理由は聞かずに抑止します.結局,その人がなぜ感情的に怒っていたかは誰も興味がないかのようです.だから問題は解決しません.主観でしょうか?主観でしょうね.でも,経験からそう思うのです.そういう傾向を感じます.このふたつを比較してどちらが進歩的でしょうか.どちらがいい社会でしょうか.赤スペさんのコメントを読んでいて,ここは本当に日本という国なんだなぁ,と心底思います.私が感じている感覚,感じていただけますか.意味を分かっていただけますか.

こんにちは!
お久しぶりです。
とても興味深いやりとりですね。

ぼくも、祖父母の仏壇にお花を置いています。
水替え、痛んだ葉の処理、と毎日こまめに
用事があります。
ぼくの場合は、祖父母の写真からも、その前に座る自分からも、お花が見えるようにしています。でも、時が過ぎると、花って光のあるこちら側を向いてしまうんですよね。その都度、花瓶の向きを変えるかというと、あるがままになってしまいます。
きっと祖父母もそれを喜んでいるのではないかと思うからなんです。庭いじりが好きで、自然の恵みをいちばん知ってたと思うからです。(置く花も、買ってきたものではなく庭にあるものです。だから花のない時期は、葉っぱだけ。笑)その葉っぱも、いつの間にかこちらを向いてます。

仏壇にお花を置くことを日日の糧にしている人たちなら、たぶん同じことを思っているのではないかと思います。

流れに沿わないコメントかと思いますが、
暮らしのかたちのひとつと受け止めていただけたらうれしいです。



Tyさん.お久しぶりです.
Tyさんのお話から,科学の世の中でも続いていくことができる信仰を感じました.素晴らしいです.豊かなくらしを教えられた気がします.花がこちらを向くのは,光(自然)が原因だと知っていて,でもそこには故人の意志を感じることもできる.全く矛盾を感じないです.古代からの万物あらゆるものに神を感じるという自然信仰と,仏教思想が合わさった世界を感じます.とても豊かで心が温かくなります.私は考えすぎなのかもしれませんが,普段は滅多に花を供えたりせずに,お盆になると突然お花を買ってくる人っています.そういう人に限ってこちら向きに華々しく飾ったりするんですよね.もっと多くの人がこのような豊かな思想を持っていたなら,日本における日常も,もっと精神的に豊かに感じられるようになるのではないか,と思います.コメントありがとうございます.

コメントの投稿




URL:

Comment:

Pass:

 管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

日本は、駄目だ、その絶望感が、さらに悪循環を呼ぶ

アナタ風邪ひいてますね? ひいてますよー そう、言われ続けると、ほんとに体調が悪くなる 予言の自己成就、効果といいます 「世界に良...