科学には,否定されがたい砦があります.それは科学が持つ「客観性」です.客観.これは科学の大きなアドバンテージです.
客観とは,AさんもBさんもCさんにも,同意させ,なるほどと思わせる力があるということ.例えば,りんごはなぜ樹から落ちるのかと考えた時に,質量があるものの間には引力が働くという説明.これを覆す反例は私たちの周りでは未だに見つかりません.つまり,これは思いついた人の勝手な創造物ではなく,いつでもどこでも,誰がやろうと,誰が観察しようと,必ずそうなるのであり,これを客観性があると捉えます.この客観性は,強大な統制力を持ち,科学を信仰させるだけのパワーをもたらすでしょう.
ですから,この切り口で科学に反発できる概念は恐らくありません.日本語で科学の反対語は?と聞かれても最適なものは思いつきません.それは相対する概念が無いということです.せいぜい「非科学」でしょうか.笑 英語でもscienceの対となる言葉は明確ではない気がします.せいぜいfiction(虚構)ということになります.科学は揺るがぬ地位を築いていると思います.
ここまでは,OKです.私も科学の素晴らしさはいつも身をもって体感しています.しかし,私が疑問を持つのは,ここから先です.いくら強固で安定感のある「科学」だからと言って,なぜに「科学で説明できないことはない」と思われがちなのでしょうか.と,このことが言いたくて,いろんな例を挙げました.私たちの「自由意志」というものについて.死後の世界や妖怪のような概念と科学の関係について.
科学が決して説明できない状態,それは「複雑なこと」です.複雑であることに対して,科学は力を発揮しません.私たちの神経細胞の活動や,大気の動きや,水の流れや,無数の星の運動はすべて果てしなく複雑です.いや,そんな壮大な話しでなくても,目の前にある机や椅子や床やガラスを見てみてください.どこに完璧な「直線」があるでしょう.どこに完璧な「球」があるでしょう.どこに,一様の摩擦係数を持つ完璧な「平面」が存在するでしょう...すべて複雑な姿をしています.
科学の本質は「単純化の作業」です.本当は複雑なんだけど,そこを無理して単純化していく作業.単純化されたものは「数字」であり「法則」です.しかし間違えてはいけないことは,実はこれら単純化されたものは,もはや私たちの想像の世界にしか存在しない,ということです.現実の世界では,数字はいくらでも微小にずれていき,それに起因して法則に反する結果はいくらでも起きます...例えば.リンゴは樹から落ちます.このことは単純化された科学によって見事に説明され,反例はありません.しかし,リンゴには大きさがあり,周囲には空気があり,光があり,磁場があったりするため,リンゴが落ちるまでの時間や軌跡を正確に予測することは不可能です.つまり,単純化されないこの現実世界では,「リンゴはどのように落ちるか」なんて問いに科学は決して答えることができません.
だから,科学は真理の探究ではなく,ただの道具であると思います.大雑把な法則を見つけ,多少の未来を予測し,生活が多少楽になるためには便利な道具です.しかし,万能ではありません.包丁で切ることのできないものがあるように,科学で説明できないものはたくさんあります.
科学と妖怪をどちらも信じることが可能でしょうか.私たちの心の中に同居させることは可能でしょうか.
科学がただの道具である以上,たぶん可能なはずです.しかし.私たち日本人は,おそらく片方を捨て,科学を選びました.それが高度経済成長の始まりの頃だと思います.この頃,どんな山村からも一斉に妖怪が姿を消し,キツネはもはや人を騙さなくなりました.私たちは,感謝の意とともに生命(魂,霊)を頂くのではなく,炭水化物やビタミンのような栄養素を摂取するだけになったんだと思います.













