科学=虚構,非科学=現実

「妖怪と科学」からの続きです.

科学には,否定されがたい砦があります.それは科学が持つ「客観性」です.客観.これは科学の大きなアドバンテージです.

客観とは,AさんもBさんもCさんにも,同意させ,なるほどと思わせる力があるということ.例えば,りんごはなぜ樹から落ちるのかと考えた時に,質量があるものの間には引力が働くという説明.これを覆す反例は私たちの周りでは未だに見つかりません.つまり,これは思いついた人の勝手な創造物ではなく,いつでもどこでも,誰がやろうと,誰が観察しようと,必ずそうなるのであり,これを客観性があると捉えます.この客観性は,強大な統制力を持ち,科学を信仰させるだけのパワーをもたらすでしょう.

ですから,この切り口で科学に反発できる概念は恐らくありません.日本語で科学の反対語は?と聞かれても最適なものは思いつきません.それは相対する概念が無いということです.せいぜい「非科学」でしょうか.笑 英語でもscienceの対となる言葉は明確ではない気がします.せいぜいfiction(虚構)ということになります.科学は揺るがぬ地位を築いていると思います.

ここまでは,OKです.私も科学の素晴らしさはいつも身をもって体感しています.しかし,私が疑問を持つのは,ここから先です.いくら強固で安定感のある「科学」だからと言って,なぜに「科学で説明できないことはない」と思われがちなのでしょうか.と,このことが言いたくて,いろんな例を挙げました.私たちの「自由意志」というものについて.死後の世界や妖怪のような概念と科学の関係について.

科学が決して説明できない状態,それは「複雑なこと」です.複雑であることに対して,科学は力を発揮しません.私たちの神経細胞の活動や,大気の動きや,水の流れや,無数の星の運動はすべて果てしなく複雑です.いや,そんな壮大な話しでなくても,目の前にある机や椅子や床やガラスを見てみてください.どこに完璧な「直線」があるでしょう.どこに完璧な「球」があるでしょう.どこに,一様の摩擦係数を持つ完璧な「平面」が存在するでしょう...すべて複雑な姿をしています.

科学の本質は「単純化の作業」です.本当は複雑なんだけど,そこを無理して単純化していく作業.単純化されたものは「数字」であり「法則」です.しかし間違えてはいけないことは,実はこれら単純化されたものは,もはや私たちの想像の世界にしか存在しない,ということです.現実の世界では,数字はいくらでも微小にずれていき,それに起因して法則に反する結果はいくらでも起きます...例えば.リンゴは樹から落ちます.このことは単純化された科学によって見事に説明され,反例はありません.しかし,リンゴには大きさがあり,周囲には空気があり,光があり,磁場があったりするため,リンゴが落ちるまでの時間や軌跡を正確に予測することは不可能です.つまり,単純化されないこの現実世界では,「リンゴはどのように落ちるか」なんて問いに科学は決して答えることができません.

だから,科学は真理の探究ではなく,ただの道具であると思います.大雑把な法則を見つけ,多少の未来を予測し,生活が多少楽になるためには便利な道具です.しかし,万能ではありません.包丁で切ることのできないものがあるように,科学で説明できないものはたくさんあります.

科学と妖怪をどちらも信じることが可能でしょうか.私たちの心の中に同居させることは可能でしょうか.

科学がただの道具である以上,たぶん可能なはずです.しかし.私たち日本人は,おそらく片方を捨て,科学を選びました.それが高度経済成長の始まりの頃だと思います.この頃,どんな山村からも一斉に妖怪が姿を消し,キツネはもはや人を騙さなくなりました.私たちは,感謝の意とともに生命(魂,霊)を頂くのではなく,炭水化物やビタミンのような栄養素を摂取するだけになったんだと思います.

 

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崖の上のポニョ

崖の上のポニョ,見ました.
感想や思ったことなどを残します.

注:今後映画館に行こうと思われている方は読まないでくださいませ.以下には映画の内容に関わることを書いておりますので...



思ったことをまずはダラダラ書きます.


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映画を見るまでは何とも感じなかったけど,実際映画の中で動くポニョは本当にかわいい.ポニョのしぐさや表情,命が吹き込まれてると思いました.

最初の海中の映像から始まり,オープニング曲とともにデフォルメされた海と陸の絵が流れるシーンまでの流れは圧倒されました.美しい!!「ポーニョポーニョ♪」の歌からはおよそ想像していなかった壮大なオープニングシーンです.

宗介はなかなか立派な少年です.彼はまだ5歳ですが,自分で考え,判断して行動する.ただ,宮崎映画に登場する男の子の特徴である,「優等生ぶり」が今回もずいぶんと際立ちます.もうちょっと欠点なんかあれば人間味が増して深みがでると思うのですが.

宗介の母であるリサも素敵な大人です.宗介をひとりの自立した人間として見ていて,そして深い愛がある.親子が名前で呼び合っているのもいい.宗介は,デイケアセンターのお婆さんたちに対しても苗字じゃなく名前で呼んでいますね.

この作品の中には,どんな些細な悪意さえ登場しないように思います.悪意はこの浮世にはつきものなので,この作品の中は完全なユートピアで,現実世界ではないですね.それを見せているのだと思う.この映画を子供に見て欲しい映画だと言うのなら,なるほどそうかもしれません.でも大人も充分に楽しめました.

この映画はCGを一切使っていないそうですが,そのおかげもあってエンディングロールがとても短いです.例の「ポーニョ,ポーニョ,ポニョ魚の子...♪」の歌が流れてそれで終わり.ものの数分.早くてとても気持ちいいです.最近の映画は,大作ぶりをアピールするかのように,延々とエンディングロールを流す映画が多いですが,あれは少々気持ちが萎えます.まあ仕方ないケースも多いのだろうけど.

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とまあ,こんな感じなのですが,これはあくまで,この映画を単なるファンタジーとして捉えた場合です.実は,もうちょっと細かく見ていくと,気になることがたくさんありました.いや,そここそが今回とてもひっかかったポイントです.ここからは,いつもどおりごちゃごちゃ書きますが,暇でしたらお付き合いください.汗 ちなみに私は宮崎アニメはけっこう好きです.ただ,だからと言っていつも「いい映画だったなぁ」とはならないんですよね.思ったことは正直に書きます.

まず,宮崎駿氏は,この映画に関して,単なるファンタジーという位置づけではありません.氏はこの映画に対して,

「少年と少女、愛と責任、海と生命、これ等初源に属するものをためらわずに描いて、神経症と不安の時代に立ち向かおうというものである」

と述べられています.このフレーズはこの映画のテーマであると感じます.明らかに現代社会に対して具体的メッセージを伴っており,実際そのように感じます.しかし,私はそのような視点で見たときに,あまりに自分の感覚とはこの映画は異なるなぁと感じました.

少年と少女とは,この映画では,宗介とポニョでしょう.宗介は,知的で落ち着きのある責任感のある少年として描かれていますが,ポニョはどうでしょう.可愛らしく,思慮深くなく,感情的に突っ走る存在として描かれています.このふたりを「少年と少女」として代表させるのは非常に問題を感じます.

この部分は,宮崎氏のこの映画に対する説明にある,

「海に棲むさかなの子ポニョが、人間の宗介と一緒に生きたいと我儘をつらぬき通す物語」

という言葉にも表れています.つまり「わがまま」という言葉.なぜこんな壮大なテーマの中に「わがままをつらぬき通す」が登場するのでしょうか.どのような意味が込められているのでしょう...

それから「愛と責任」.もちろん「愛」も「責任」もこの映画のいろんな場面で出てきますが,肝心な宗介とポニョの間にどんな愛と責任があったんだろうか,と思うと非常に疑問です.一番残念なのは,なぜポニョは宗介を好きになって,なぜ宗介はポニョのことを守ろうと思うようになったのかが,私には推測さえできないということです.この部分を無視しながら,愛も責任も実現するのでしょうか.私の感覚では,これは「愛と責任」じゃなく「ひと目惚れと約束」ですね.責任は果たされているかどうか分かりません.むしろ物語の描く範囲内では無責任だとさえ感じます.私は,ポニョがこの先,人間になったことで幸せな一生を送れたかどうか,不安でなりません.しかし,そこに多くの人は興味を持っていないようで,恐いです.

という具合に,私が心配してしまうのは,常にポニョのことなんですが,別にポニョの可愛さにやられたからじゃあないですよ.笑 これは,ポニョの描き方がそうなっているからだと思います.つまり,ポニョはとても可愛らしく,おちゃめで自由奔放に描かれている一方で,知性とか意志とか責任とかが全く与えられていないんですよ.これじゃあ,私は不安です.そんなポニョを人間にしようと取り決めている周囲の人たちは,ポニョが不幸になったらどう責任を取るんだろうと思いますね.自己責任だとでも言うつもりでしょうか.

ということで,宮崎監督は「不安に立ち向かう」と言われていますが,私はむしろ不安になりました.涙 ただのファンタジーならすごくいい映画だと自信を持って言えますが,社会に対するメッセージ性を絡めるなら,私はこの映画は非常に問題だと感じます.人魚姫が題材ですから,多少は仕方ないのかもしれませんが,もう少し,現代的解釈を付加して欲しかった.

 

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エゾチッチゼミ

先週末,最近の運動不足解消のため,札幌市内の山に登りました.南区にある八剣山.ここは,のんびり歩いてもたかだか片道1時間程度の山ですが,その成り立ちはけっこう激しく,まさに下から見上げると八つの剣が地面から突き出しているように見えます.これが「八剣山」という名前の由来です.山頂付近は,断崖絶壁で足がすくむほど.私は高所恐怖症ではないですが,それでもちょっとぞっとする風景です.




山頂から南の定山渓温泉方面を望む


さて,白状すると,ここは私の貴重な昆虫観察の場なのですが,先週末は,長い間ひと目見てみたいと思っていた蝉の姿をはじめて見ることができました.その名はエゾチッチゼミ.




写真の中央に写っているのがそう.拡大すると...


  

おお!間違いなくエゾチッチゼミです.デジカメって便利だな.(そういう感想なのかい?笑)

こんな感じのとても地味な色合いの小さな蝉です.本州以南にはチッチゼミという近縁種がいます.こちらはもっと小さく,鳴き声もまさに「ちっちっちっちっ」ですが,エゾチッチゼミは,それに比べるとかなり大柄で,鳴き声も全く「ちっちっち」ではありません.バッタやキリギリスの仲間の声に似ていて,「ししししし...」とかなりテンポよく鳴きます.まさか蝉とは思えない声なのですが,そこがまた面白いんですけどね.北海道の山ではけっこうどこにでもいるセミですが,何せ数は少なく,たいてい高い樹の高い場所にとまっているので,その姿を見たのは今回が初めてでした.

八剣山は,ゼフィルスと呼ばれる,樹上生活性のシジミチョウもたくさん見ることができます.




こちらは,おそらくジョウザンミドリシジミ.羽を開くと金属的な青い輝きを放ちます.このチョウはとても小さいのですが,とても強気です.縄張り意識があり,このように樹木の葉の先端に止まり,樹木と反対側を向いて,一定の範囲内に進入してくる他の蝶などを追い払います.カラスアゲハのような巨大な蝶が通りかかっても,果敢に飛び立ち,追いかけ,追い払います.追い払ったら,またもとの葉に戻り,またじっと見張りに戻ります.ただカラスアゲハ自身は,追い払われたという気はしてなくて,ただそこを通過しただけだよと思っているんじゃないかなぁ...笑 




こちらはクジャクチョウ.クジャクチョウは本当に綺麗な蝶ですが,こういう石ころだけの地面に静止して,突然羽を開いた瞬間は特に感銘を受けます.あの羽を彩る深い赤はどんな色にも似ていないと思う...

 

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妖怪と科学

「妖しき存在」からの続きです.

突然現れて村人を飲み込んだ巨大な波.それは海坊主という妖怪でもあり,三角波という物理現象とも言えるのですが,どちらが正解なのか,などと問うことはできないでしょう.事実はただひとつ.「突然現れた水の塊に飲み込まれて村人が溺れた」という悲しい事実だけであり,妖怪も科学も,この信じがたい事実と向き合う際に,人がその理由を求めた結果生まれたんじゃないかと思うのです.

人は普段から何に対しても理由を求めはしません.思想家や哲学家や好奇心旺盛な人を除けば,当たり前だと思ったことに対しては,人はある程度受け入れられます.人が無性に理由を求める時,それは,当たり前でないことが起きたときです.これは,おそらく人が過去を記憶し,それを単純化する癖を持っているからだろうと私は思っています.つまり,波の無い海では,平穏な時が流れ,危険は無い,という単純化された状況を人は受け入れます.そして,この単純化された予想が,裏切られ,大波がやってくれば,人は呆然としてしまうわけです.

当然だと記憶していた状況が全く役に立たなかった時,人はその記憶を変更し,納得しなくては不安を払拭できません.立ち直れません.そのために「理由」を求めるんだろうと思います.

そう,科学だって実は「なぜだろう」という素朴な疑問からスタートします.ただ科学の面白いところは,当たり前だと思っていることに積極的に「なぜ?」と問い,解決しようとすることです.毎日青空を見ているにも関わらず「なぜ空は青いの?」という疑問を持ち,青い波長の光を大気の成分が散乱することを体系的に理解しておくのです.そうすることで,予想外の出来事に対処できます.例えば,いきなり目覚めたら空の色が変わってしまっていても,上空でどんな化学変化が起こったのか,何かの汚染物質のせいかもしれない,などと原因を見破ることができるので,パニックにならなくてすみます.まあ,これが科学の力だと思います.

じゃあ,やっぱり科学は磐石じゃないか,とそう思われるでしょうか.海坊主より三角波のほうが真相だろう,と.ところがです.科学はそんなに強固なものではありません.

科学の弱点を探すのは容易です.試しに何かに対して「なぜ」を数回続けて質問し続けてみます.そうすると,あっけなく科学は無力になるんです.「なぜ空は青いの?」「大気が青い波長の光だけを散乱させるので,青く見えるんだよ.」「なんで青い光だけ散乱させるの?」「ええ!??そ,そ,それは...そういうふうになってるんだよぉ.そういう性質なんだよぉ...別に理由なんてないよ...汗」となってしまいます.

例えばこういう問答.好奇心溢れる子供と対話すれば,必ずやってしまいます.その度に,困るはめになるのはたいてい大人です.学校の理科の授業は大変だと思いますよ.物質は原子という粒でできています.生物の情報はDNAという物質に記憶されています,なんて教えられますが,この先の「なぜ」はご法度です.何でもそうです.

科学なんて,所詮それ程度の薄っぺらいものです.少なくとも「疑問に答える」という視点で考えれば,ですけど...これは,「まだ研究が進んでないから,解明されていないから」ではなく,「それは科学では取り扱えない質問ですので,答えは永遠に出ません.」なのです.科学は疑問の持ち方にも制約があるんです.

話しを戻します.穏やかな海に突然やってきた大波.これは三角波だったとしましょう.三角波の生成は論理的に説明できるし,数式でも記述できるし,実験室で再現することもできます.穏やかな日に突然やってくることも不可解なことではありません.しかし.「なぜこの時間にこの場所にやってきて,そのおかげで村人は溺れなければいけなかったのか」.そう,この疑問には決して答えないんですよ,科学は.一方,海坊主はその部分を巧いことカバーしています.つまり,このような不条理を引き起こす得体の知れない存在,だと人々は予め受け入れているので,疑問が生じないんです.この事件が,そのまま海坊主の仕業,海坊主そのものであり,近似ではなく,等価(イコール)なんですね.妖怪とはそういう「姿」をしているんです.

「科学=虚構,非科学=現実」に続きます.

 

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妖しき存在

「私たちに自由意志はあるのか」
からの続きです.

日本人は長いこと,妖怪とともに暮らしてきました.妖怪とは,あやかし.妖しい存在,あやしきもの.筋の通った説明ができない種々の出来事に対して,日本人は妖怪というものの存在を認め,妖怪を介してその現象は生じると考えました.日本の民間信仰の中に根付くものです.実は妖怪という存在は,日本に限らず東洋全般に多く見出され,日本の妖怪の起源をたどると,やはり中国に行き着くものも多いようです.

妖怪っていると思う?と軽いノリで人に聞いてみました.ひとりは「見たことないし,いないよ.想像上の産物だろう?」と答え,ひとりは「妖怪と言えば,ゲゲゲの鬼太郎!懐かしいなぁ,少し前映画やってたよね?」という感じで,話が脱線して戻りませんでした.笑

妖怪の姿は,確かに水木しげる氏の画による影響が大きすぎます.今日では妖怪を語る際に,氏が描いた妖怪の姿が必ず登場します.しかし本来妖怪とは,姿形を持つものではなく,口承的なものです.昔の人は,河童を目で見ていたわけではありません.信じ込んでいたから,幻覚のように見えていたわけでもないでしょう.もちろん水木しげる氏よりもずっと前から,多くの人が妖怪を描いてはいます.しかしそれは,宇宙人の存在を信じているSF作家が宇宙人を想像で描いているような,一種の楽しい作業であり,目で観察したものを描いているのとは違うでしょう.

妖怪は物理的には目に見えません.なぜなら物質とかエネルギーではないからです.しかしだからといって,その存在を否定することは困難です.死後の世界を否定できないのと同じような理由です.物質ではないのですから,もはや科学のやり方でもって,そこらにたくさんある「物(モノ)」と同じような尺度で,存在するしないを議論することは意味をなしません.科学と妖怪は,水と油のように完全に分離し,互いに混ざり合わない,それだけのことでしょう.

ただ,
妖怪は,科学と相容れないけど,科学と対等なポジションにあると私は感じます.

*****

ある村で,村人が漁をしていました.多少の風はあれど,波は全くありません.魚もたくさん捕れて,今日は豊漁だとばかりに,岸に帰ろうとしたその時です.突然,巨大な水の塊が沖から現れ,船を飲み込みます.あまりの突然のことに,どうすることもできなかった漁師たちは,海の中に消えていきました.岸でこの様子を見ていた村人は,「海坊主だぁぁ!」と叫びました.そう,これは海坊主という妖怪の仕業です.

科学では,客観的データが集まれば,遠方で起こった大地震による津波が入り江に入って増幅されたか,もしくは三角波という特殊な大波だったという結論が出てくるでしょう.これがこの波の正体です.

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おとなしく,親の言いつけを守り,ずっと真面目に畑を耕してきた青年が,ある日,鍬を持って暴れ,一人の村人を殺してしまいました.あまりの惨劇に村人は悲しみ,そして首をかしげるばかり.青年はその時のことを憶えていないといい,涙をながし,なんでこんなことになったんだ,と言います.村人は,通り者の仕業に違いないと考えました.通り者という妖怪は,気持ちが弱くなったすきに人に憑りつき,心を乱して大きな災いを起こす妖怪です.今日に使われる「通り魔」の語源は,この通り者という妖怪から来ています.

科学的には,例えば,毎日畑を耕すだけの生活に本当にストレスに感じていたとか,幼少期に虐待されていたとか,殺した村人からあることで強請られていたとか,そういう動機の存在を考えるでしょう.もしくは,脳内の先天的もしくは後天的障害により,自分をコントロールできなくなるような特殊な精神疾患を患っていたという可能性もあります.記憶がないことに関しても,実際にパニック状態で記憶が正常にできていないか,もしくは嘘をついているか,どちらかだろうと考えます.このような内容が,科学的に考えた場合の,この事件の本質です.

*****

ふたつの事件に対して,妖怪の仕業と,科学的説明,どちらがより信頼できますか?どちらが納得できるでしょう.そりゃあ,科学的なほうだと思われるでしょうか.私は実は,全くそんなことはないと思っています.

「妖怪と科学」に続きます.)

 

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酷い現状

経済協力開発機構(OECD)の2008年度アウトルックには,男女間における雇用の問題に関する重大なポイントがデータ化されています.

http://sankei.jp.msn.com/life/education/
080721/edc0807210818001-n1.htm


http://www.oecdtokyo2.org/
pdf/theme_pdf/employment_pdf/20080701employment_japan.pdf


このアウトルックの中に書かれていることをすべて鵜呑みにすることは危険です.その国その国のバックグラウンドをきちんと知る必要があり,特に,数値を細かく見ることはあまり意味がないと思います.だから,各国の様々な順位に関してはあまり考えないようにします.

しかしそれでも,ここに書かれていることは非常に由々しき問題の発掘,そしてその原因の提示がなされていると思います.

日本という国は,男女間に驚くほどの就業率の格差があります.またさらに,正規雇用と非正規雇用を区別すると,その差はさらに広がります.また,女性は学歴が高いからといって就業率は上がりません.大学や大学院を卒業しても,女性は結婚後退職したら,再び正規雇用に戻ることができず,せっかくの教育が社会の役に立たないことになります.ここが決定的に欧米と違うポイントです.

私はこの現状はすごくよく分かります.学生時代の話しですが,大学院修士課程を卒業する頃には多くの人が就職活動をします.男性はどうにかして就職先を決めていきますが,女性はなかなか決まりません.そんな状況を何年も見てきました.ようやく就職できても,次は企業の中でのとんでもない差別が女性たちを苦しめ続けます.前に書いた「不当解雇の現状」のような問題です.就職後,会社で与えられる仕事の内容自体に男女間で差のある会社はたくさんあります.昇給にも格差が生じます.

高学歴の女性は,転職や再就職の際も,煙たがられます.頭のいい女性を雇用することに中小企業は躊躇する気配を感じます.それは,高い給与を払うことができないので,申し訳ない,という意味合いもあるかもしれませんが...それだけかどうか分かりません.こんなふうにして,女性は資本主義経済という巨大なコミュニティから少しずつ除外されていきます.

男性のみなさんには本当に真剣に考えてもらいたいのです.自分がもし女性に生まれたら,こんな国で生きていくことを,幸せだと感じられると思いますか?優しくて素敵な男性が現われて結婚できれば,その人を100%信頼して生きていくことに,何の不安もないですか?もしくはそれだけが唯一の確実な幸せだと感じられるような世の中でいい一生を送れると思いますか?

こういうと,必ず「女性も駄目じゃないか」という反論が来ます.就職した女性は,何年か働いたら結婚して会社を辞めようと思っていたりして,全く真剣に働かない,などの理由.だから女性が仕事を辞めさせられたり,昇給が遅れたり,非正規雇用が多くなるのは,女性にも責任がある,という意見です.

こういう意見は,問題のすり替えです.土砂降りの雨の中で,「なぜ雨宿りをしているんだ?雨宿りしていては駄目だよ.」というように私には聞こえます.「こんな社会だから,そういう考えで生きていく女性も当然いる」ということをなんで男性は分からないんでしょうか.着眼点があまりに表面的です.もっと能動的に,問題の本質的な部分を捉える必要があります.

日本では,男性の手によって男性を優遇しすぎています.日本では,女性の幸せは女性が自由に決めることが許されません.そのように感じます.結婚して,仕事を辞めて,旦那さんのために美味しいご飯を作ろうと思っている女性は責められてはいけません.むしろそれも素晴らしい生き方だと思います.同様に,仕事をしながら新しいものを創り,社会にどんどん貢献しよう,という女性の権利も誰も奪うことはできません.片方の価値感が著しく否定されているのが日本の社会です.

 

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魅惑のコリアンダー

世界中で愛されるハーブ.
コリアンダー.

英語でコリアンダー.
中国では「香草(シャンツァイ)」.
タイ語では「パクチー」.
ベトナム語では「ザウムイ」.
ポルトガル語では「コエントロ」.
スペイン語では「シラントロ」.

しかしなぜか日本ではあまり愛されないのがコリアンダー.
日本の食文化との相性がよくないらしいのがコリアンダー.
特に日本人男性から嫌われるのが,コリアンダー.
バジルは受け入れられたのに,やっぱり敬遠されるコリアンダー.
葉がイタリアンパセリに似ていて,紛らわしいのがコリアンダー.
欲しい時に手に入らないのがコリアンダー.

私の知人が,昔,
キャンプか何かでカレーライスを作って食べて,
その時,なんとカメムシがカレー鍋に落ちて,
紛れ込んだのを知らずに口に入れて,
「うぇっ」と吐き出すという大惨事に見舞われたそうです.
そのずっと後,あるハーブを初めて食べて,
「これ,カメムシと同じ味じゃん!」と言って吐き出した,
そのハーブの名もコリアンダー.

でも,自分はコリアンダーの香りにやられてしまいました.
こういう状態を軽度の依存症といいましょうか.
実は白状すると,昔はちょっときつくて,「??」と思ったのも事実.
でも今は,コリアンダーなしの人生なんて考えられない,
というのはもちろん言いすぎですが...

本日,世紀の大発見.
それは...




完熟の桃とコリアンダー.^^

これはいろんな要素が絡み合う素晴らしいハーモニー.
ストリングスが奏でる和音のような安心感.

でも.

コリアンダーが苦手な方は決してやらないでください.
せっかくの桃の味が完全にダイナシになりますから.笑

 

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